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その7:文久三年、師走

「こんな所で寝るな。通行の邪魔だ」

 闇の中、呆れたような子供の声がその場にこだまします。その足元では、腹から血を流した青年が呻きを上げ、ゆっくりとその声の主の方へ顔を向けるのでございました。

 肌寒く感じるのは、冬と言う季節のせいか、それとも自身の体から血が流れすぎたせいか。

 細い月明かりに照らされ、悪寒に身を震わせる青年の表情には、いささかムッとしたような色が浮かんでおります。

――好きで倒れてる訳じゃねぇ。見りゃ分るだろ、怪我してんだよ――

 声にする事は叶わぬながらも、青年の唇はその言葉を紡ぎ、自分を見下ろす子供へ向ってギロリと鋭い眼光を飛ばしております。

 あまりにも細い月の光と、それすらも逆光になっているせいなのか、子供の表情は青年からは見えません。分るのは、髪に挿している飾りから、子供がこの島原で「禿」と呼ばれる立場の存在である事、そして青年の血に塗れた姿を見ても、然程驚いた様子がない事くらいでございましょうか。

 それどころか、彼女はその小さな足で倒れている青年の背を軽く踏みつけると、再度呆れたような声で言葉を紡いだのでございます。

「呻くという事は、聞こえているな。もう1度言う、通行の邪魔だ、退け」

――動けねぇっつってんだろーが。もう放っておけよ。つか踏むなこのクソガキ、余計に動けねぇだろうがよ――

 やはり唇はその様に動きはするものの、吐き出そうとした息は声にはならず、ただの意味の無い音として消えていくのでございます。

 一方で子供はその唇の動きを読み取ったのでしょうか。彼にかけていた足を下ろすと、すっとその脇に屈みこんで、淡々とした口調で言うのでした。

「……(はらわた)が飛び出している。放っておけば間違いなく死ぬぞ」

――うるせぇ。オレの生命力と回復力……なめんな、クソガキ――

「なめてなどいない。真実を述べているだけだ。……それとも貴様、死にたいのか? ならばせめてここ以外の場所で死んでくれ。邪魔だし後の始末が面倒だ」

 心の底からそう思っているのでしょう。淡々と述べられた言葉は、この師走の空気よりもなお冷たく、青年の鼓膜に突き立つのでございました。

 その言葉に何を思ったのか。青年はぶるりと体を震わせると、ギロリと少女を睨み付け、そして無理矢理声を絞り出したのでございます。

「死、んで……たまる、か」

 文字通り血を吐きながらの言葉。声を出した事で腹からの出血は激しさを増し、更に青年の意識は混濁していくのです。

 麻痺し始めた感覚の中、それでも体が震えるのだけは感じます。ただ、その震えが寒さからなのか、それとも己の「生きたい」と言う欲求からなのか、はたまた少女の冷たい言葉に対する憤りからなのか、青年には分りません。

――やりてぇ事も、してぇ事も分らねぇ。必要としてくれる奴はおろか、オレと言う存在を覚えていてくれる奴もいねぇ――

「こんな、ところで…………独りでなんて、死ねるかよ」

 それは本当に声に出た言葉だったのか。もはや青年にも分らない中、それまで冷たく見下ろしていただけの少女が、自身の脇にしゃがみ込み……そして、囁くように言うのでございます。

「……死ぬ気は無いと言うのなら、その命、私が拾おう」

「な、にを……」

 今までの冷たさを全く感じさせぬ声音に、青年はぼやけ始めた視界の中、必死に相手の顔を見ようと目を凝らすのです。

 それまで逆光だったはずの彼女の表情が、その時だけははっきりと見えた気がします。今にも泣きそうな……それでいてひどく優しげな笑みでございました。

 それを見た瞬間、青年は視界だけでなく、意識にも霞がかかるかのようにぼやけていきます。

 そしてその事に気付いたのか、少女は彼の白銀色の髪を小さな指で軽く梳き……

「独りきりは、寂しいからな」

 薄れていく意識の中で聞こえた声もまた、彼が今までにかけてもらった事がないほど優しい色を湛えており……

 …………

 落ちる感覚と浮き上がる感覚。相反する2つの感覚に揺さぶられるようにして、青年……銀彌はぼんやりとその目を開くのでございます。

 外はまだ夜の闇の黒で染まっており、明け鳥の声も聞こえません。

 ゆっくりと身を起こした瞬間、ズキリと腹の「古傷」が痛むのを感じて、ようやく先程まで見ていた物が己の過去であった事に気付くのでございました。

「…………夢、か」

 苦笑気味に呟きながら、彼は寝汗でべたついた髪をかき上げると、先程まで見ていた夢の欠片を追うように、視線を自身の古傷に向けるのでございます。

 腹部に残る、引き裂かれた様な痕の残るそれは、銀彌の捨てた過去の残滓。

「随分とまた……懐かしい夢だったな、オイ」

 拾われた「あの日」と同じ、師走の寒さにぞくりと身を震わせながら。銀彌は空に浮かぶ有明の月に目を向けるのでございました。



「よ、永倉のにーさん。仕事中かい?」

 文久3年も暮れ、大晦日の近い26日。京の街を巡回しておりました永倉に、茶店から出てきたばかりらしい銀彌がにこやかに声をかけたのでございます。

 珍しい事に彼の近くにあやめも水菊もおりません。いつもは「島原の男衆」として芸妓や舞妓、更には禿の護衛のような事をしているだけに、1人きりで歩いていると言う事は滅多に見ない光景でございます。

「よお銀彌。今から島原方面への巡察予定だ」

「お、良い感じじゃねぇか。オレもこれから島原へ帰るんだ。付いていかせてもらいまさぁ」

 その方が色々と安全そうだし、と付け加えながら、銀彌は他の隊士や街の人の目も気にせず、永倉の横を歩き始めるのでございます。

 そんな彼の行動に苦笑はしている物の、永倉も然程嫌がってはいないのでしょう。無理に引き離すような真似は致しませんでした。

 行く方向が同じなら、一緒にいてもさして変わりないと言う事もございました。

 ですが……永倉の脳裏に、ふとした疑問が過ぎり。彼は隣で上機嫌な様子を見せて歩く銀彌に顔を向けると、その疑問を口にしたのでございます。

「そう言えば銀彌、どうして百花さんの置屋にいるんだ? 以前聞いた話だと、恩があるって言っていたが」

 そう。以前、まだ新撰組が浪士組として京にやってきたばかりの頃。

 酒の席で暴れる不逞浪士を取り押さえに向った際、先に取り押さえていた銀彌の強さに感銘を受け、永倉は浪士組への勧誘を行った事がございます。しかし彼は、今の置屋に恩があるからと言って丁重にその誘いを断っておりました。

 見た目は17、8の立派な若者でございますし、それなりに人生経験もある事は想像に(かた)くないのですが、何があったのかと言うのは気になるところではありました。

 そんな永倉の好奇心から来る質問に、銀彌は特に気を悪くした風でもなく記憶を辿るように宙を見つめて口を開くのでございます。

「実はオレ、お嬢に命を拾われたんでさぁ。お嬢がいなきゃ、今頃とっくに野垂死んで屍を晒してましたよ。そんでもって、瀕死の俺を看病して、置いてくれたのが『縁屋』だったって訳で」

 拾われた当時の事を思い出したのか、銀彌はクックと楽しげに笑いながら更に言葉を続けます。

「とは言え、拾われた当初はお嬢を殺そうと何度も試みたもんでね。ええ、そりゃあもう挑んでは踏まれ、また挑んでは踏まれの繰り返しでした」

「はぁ!? そりゃまた……随分と恩知らずな……」

「……あの頃は、周りにいる連中全部がオレの敵、って思ってたからなぁ。今じゃ良い思い出って奴で、当時を反省しつつ、仕事に勤しんでまさぁ」

 頓狂な声を上げる永倉に、やはり楽しげに笑いながら銀彌はそう答えるのでございました。

 命の恩人を殺そうとしたと言う事実に、ほんの少しの憤りを感じた事もありますが、何よりも今の銀彌からは、あやめに刃を向けるなど想像出来ぬものであった事も驚きの要因でございました。

 そんな彼に気付いていないのか、銀彌は宙を見たまま、一瞬だけ自嘲めいた笑みを浮かべ……

「でも、皮肉もいいトコだ。血の繋がった家族ですらオレを見捨てたのに、赤の他人……それも天敵とも言えるお嬢が、俺を助けてくれたなんて」

「……天敵? 銀彌とあやめちゃんが?」

 銀彌の独り言めいた言葉を聞きとめた永倉が、不思議そうに軽く眉を顰めて問うのでございました。

 銀彌があやめを殺そうとしたとの言葉も信じ難い物でございますが、天敵であると言う言葉もまた、今の彼らの関係を見るに想像出来ないのです。

 少なくとも、永倉の知る銀彌は……表向きはあやめを「小娘」、「ガキ」と呼んでからかう「ちょっと嫌味なお兄さん」ですが、その実は彼女を「お嬢」と呼び慕っている忠実な部下であるように思えるのです。

 そんな永倉の表情こそが不思議なのか、銀彌もまたきょとんとした表情で首を傾げ……しかし一瞬後、その理由に思い至ったのか、ぽんと手を叩くと悪戯っぽく笑って言葉を紡ぐのでございました。

「ああ……そう言えば、永倉のにーさんの前では、オレ、まともに戦った事無かったんでしたっけね。ビックリしますぜ、オレの本気を見たら」

 確かに、永倉は未だ銀彌がまともに戦う所は見ておりません。

 初めて永倉が「闇の者」と遭遇した際も、その力の一端は見た物の、あやめが「暴れるな」と言って止めておりましたし、先日の芹沢鴨暗殺の一件では、永倉は現場にいなかった為、彼がどのように戦うのかは存じません。

 知っているのは、やたらと身軽である事と、あやめが彼を「番犬」と呼び、戦闘面において信頼する程の実力の持ち主だと言う事くらいで……

 そんな事を考えている内に、いつの間にか一行は島原入り口である大門の前に辿り着いておりました。

 その脇では銀彌と同じ島原の男衆らしき人物達が、軽く笑いを浮かべながら、戻ってきた銀彌に声をかけておりました。

「銀彌はん、今夜の大門の番、よろしゅうに」

「やっべ、今日だったっけか? すっかり忘れてたぜ、ありがとよ」

「ああ、やっぱりそうどしたかぁ。声かけて正解やったなぁ」

「やっぱりって、あのなぁお前ら。オレの事を一体どういう目で見てんだよ?」

「どんな目ぇて……こんな目ぇどす」

「うっわ。超殴りてぇ……」

 口ではそう言いながらも、どこか楽しげなのはやはり相手が仕事仲間だからなのでございましょうか。

――そう言えば、銀彌も島原の人間なのに、京言葉じゃないよな?――

 島原の住人は、本来の生まれがどこであろうと「京生まれ」と言う事になっております。それは働く男衆も例外ではなく、往々にして皆京の言葉で話すのが慣わし。それ故に、聞きようによってはべたついた印象を受ける彼らの言葉遣いが、永倉はいまひとつ好ましく思えないのでございます。

 しかし、銀彌の言葉には、微塵も京らしい部分がございません。発音も、言葉遣いも、こちらの言葉にあわせる気が無いのか、限りなく江戸の言葉に近い喋り方をしております。

 とは言え、完全な江戸言葉と言う訳でもなく……どこの地方の出か分らないと言う点においては、島原らしい喋りとも申せるのでございました。

――そう言えば、銀彌はいつ頃から島原にいるんだ? 最近……って感じじゃないが……――

 ふつ、とそんな疑問が永倉の中に生まれ、そしてそれを言の葉に乗せようとした次の瞬間。

 絹を裂くような女性の悲鳴が、その場に響いたのでございます。

「ひったくりや! 誰か、捕まえておくれやす!」

 その声に真っ先に反応したのは、銀彌。そしてそれに一瞬だけ遅れるように永倉も反応すると、ピンとした空気をその場に張って声の方に向って視線を巡らせたのでございます。

 そこにいたのは、荷物を取られて地面に倒れこんでいた芸妓の女性と、それを尻目にして駆けてくる2人の男。一方が持っている荷物は女物。恐らくは倒れこんでいる芸妓の物でございましょう。

 それを見止めるや、銀彌はギロリとその2人の男を睨み付け……

「おーお。この島原で、しかもこのオレの目の前で不埒を働こうなんざ、いい度胸じゃねーの」

 パキポキと指の節を鳴らしながら言うと、次の瞬間には地を駆け、荷物を持つ方の男の眼前に立っていたのでございます。

――早い……!――

 見ていた永倉がそう思う程の速度。当然ひったくりの2人も同じ事を思ったのか、慌てて方向転換しようと地面を蹴るのですが、その前に銀彌の拳が相手の鳩尾に入るのです。

「ぐぶぅっ!」

「げはっ!?」

 くぐもった声を上げながら体を折る2人の不埒者に追い討ちをかけるように、銀彌は男の手から荷物を取り上げると、一方の男には顎を蹴り上げて身を仰け反らせ、もう一方の男には上げた足を利用して踵落しを見舞ったのでございます。

 狙っての蹴りだったのか、2人並んで地に伏す不埒者の前に立つと、銀彌はニヤリと笑いながら、彼らに声を投げたのです。

「お兄さん方、駄目だぜぇ? この島原にゃ、オレがいる。……両手両足をへし折られたくなけりゃ、反省してとっととこっから失せろ」

「……はっ! どうせ借金の形に売られた女の荷物じゃねぇか」

「どうせ連中は自由に使えねえんだ。だったら俺らで有効活用してやったほうが良いってモンだろ?」

 ドスの利いた銀彌の言葉に、しかし不埒者は反省の色も見せず……それどころか、開き直るかのような事を言ったのでございます。

 その言葉を聞いた瞬間、大門の側にいた男衆達の顔がさっと青褪めた事に気付いたのか、永倉は自身の職務も忘れてこそっとその男衆に向け、囁くように問うのでした。

「どうした? そんな顔して? ……何か不味い事でもあるのか?」

「あかん……あきまへんて。銀彌はんに向ってあないな事……」

「ああ……最近は平穏やったのに……血の雨が降りそうやわぁ……」

 ガタガタと震える彼らを訝しく思ったのも束の間。すぐさまその理由を、永倉も理解したのでございます。

 それは、銀彌の体から迸る、痛々しいまでの殺気によって。

 顔からは表情らしい物は消え、今は完全な無表情。それが殺気と相まって、ぞくりと身を震わせる程の冷たさを放っておりました。

「この荷物を失くす。それでこの姐さんが背負い込む借金が増えるって分っててやってんだよなぁ? そんでもって、その借金を返す為に何年年季明けが遠のくかも、分ってんだよなぁ? 分ってて奪おうとしたんだよなぁ?」

 言いながら、銀彌は荷物を奪った方の男の腕に軽く足を乗せたかと思うと、次の瞬間にはゴキリ、と言う鈍い音を響かせたのでございます。

 同時に響く男の悲鳴。そして、もう一方の男が、仲間の腕を折られたのだと気付いた時には、己の腿に銀彌の足が乗っており……やはり直後、先程よりも更に鈍い音が響いたのでございます。

「痛ぇか? 痛ぇよなぁ? けどなぁ、年季明けが遠のくって事は、姐さん方は肉体的な痛みの方がまだマシって地獄を更に味わう事になるんだ。テメェら……いっそ死ぬか? 死んで詫びるか? あぁ?」

 銀彌の声に、本気の殺意を感じ取ったのか。流石に男達も彼が危険と悟ったのか、目にうっすらと涙を浮かべ、必死の形相でその場から逃れようともがくのです。

 しかし、着物の裾を銀彌がしっかりと踏んでいる為に動く事も叶わず、端から見ればただジタバタと無駄な抵抗をしているようにしか見えません。

 流石にこれ以上は不味いのだと判断したのでございましょう。男衆の1人が、男達の側でひょいと屈み込むと、この地の男衆特有の嫌味な笑みを浮かべて囁くのでございます。

「お兄さん方、知りまへんか? この人、銀彌はんって言うんやけど」

「……銀彌? 銀彌って……あの銀彌!?」

「気にいらねぇ奴は片っ端から噛み殺すって噂の、『島原の狂犬』!?」

 男衆の言葉に慄き、2人の不埒者は上擦った声で言いながら、自分達を見下ろす銀髪の男に視線を向けます。

 その顔は先までの無表情とは違い、男衆と同じ嫌味ったらしい笑みが浮いており、改めて彼も「島原の男衆」なのだと感じさせるのでございました。

「狂犬、ねぇ……一応オレは心優しい番犬のつもりだぜ? 生かしておいてやってるんだからよ。……今の所は」

「ひっ」

 脅しにしか聞こえない銀彌の言葉に、小さな悲鳴を上げる男2人。

 銀彌はそんな彼らの襟首を掴んで軽く持ち上げると、思い切りその2人を大門の外へ投げ捨てると、親指で己の首に線を引くような仕草をとって怒鳴りつけたのでございます。

「うっぜぇんだよ、ドサンピン共が。2度と島原に足踏み入れるんじゃねぇっ! 次にその面見せた時は……その喉、噛み千切る」

 その声が、果たして彼らの耳に届いていたかどうか。男達はヒイと悲鳴を上げると、すたこらさっさとその場を後にして逃げていったのでございました。

 その背を見送り、ようやく冷静さを取り戻したのか、銀彌は大きく息を吐き出すと、被害に逢った芸妓をそっと立たせ、心配そうな視線を送るのでございます。

「よぉ、明里姐さん。怪我とかねぇか? 盗られたモン、大丈夫か?」

「へえ。おおきに銀彌はん。せやけど、相変わらずあんたはんも物騒どすなぁ。水菊はんやあやめちゃんが心配するのも分るわぁ」

 明里というらしいその芸妓は、苦笑交じりに礼を言うのでございました。

 帯に縫いこまれている刺繍から、百花の置屋の者では無いのでございましょうが、銀彌の事も、そして水菊やあやめとも仲が良いのか、舞扇でペシリと彼の額を小突くのでございます。

「島原で刃傷沙汰はご法度。忘れた訳やあらしまへんやろ? あんたはんが事を起こしたら、迷惑被るのは水菊はん達なんえ? それこそ、年季明けがぐっと伸びてしまうかも知れまへん」

「……すんません、マジで反省してます」

「頭に血ぃ上ったら、周りが見えんようになってまう癖、早ぅ直した方がええんと違います?」

「返す言葉もねぇや。つか、ウチの小娘と同じ事言わないで下さいよ、明里姐さん」

 先程までの恐ろしさはどこへ消えたのか。銀彌は眦を下げ、苦笑いでひたすらに額を小突かれ続けるのでございます。

 それは、自身の額を小突いている舞扇を持つ手が、微かに震えている事に気付いているからなのかもしれません。

「心配だから置屋()まで送ってやりてぇけど、年の瀬だろ? オレも早く戻らねぇと、女将さんにどやされちまうからなぁ……」

「ああ、なら俺達が……」

「それなら、私がお送りしましょう」

 永倉が「送る」と言い切るよりも先に。いつからそこにいたのでしょうか、永倉の背後からひょいと顔を覗かせた男性が、にこやかな笑みを浮かべて言の葉を放ったのでございます。

 一見すると寺子屋の先生のような、優しげな風貌。その様子は、腰から下がる刀が、不似合いに思える程。

 ですが、その人物が見目通りの存在で無い事は、永倉も……そして銀彌も存じております。

 新撰組総長、山南敬介。副長である土方と並び、局長である近藤勇を支える者。そして銀彌にとっては、いつぞや「破壊魔」と相対した際、あやめを口封じに殺そうとした腹立たしい存在でもございます。

「サンナンさん!? な、なななな、何でここに!? いつから!?」

「来たのは先程です。実は、そこの文具屋で墨を買っていたのですが、悲鳴が聞こえたもので。駆けつけた時には、既に解決していたようですけれども」

 そう言ってにこりと笑う山南に、永倉は困ったように眦を下げて後ろ頭を掻き……

「あー、サンナンさんの気配に気付かないとか、隊長としてどうなんだよ俺。まーた平助や左之にからかわれるんだぜ」

「ふふ。相手が私で良かったですね。……さて永倉君は巡視の最中でお忙しいのでしょう? そちらの方もお忙しいとの事ですし……お嬢さん、私でよろしければ送らせて頂けませんか?」

「へぇ。ほなら、よろしゅうお頼申しますぅ」

 山南の浮かべる穏やかな笑みに安堵を覚えたのか、どこか硬さは残っている物の、明里もにこりと笑って頭を下げると、彼に付いていく様にして自身の置屋へと歩き去っていくのでございました。

 ……この時に生まれた縁が、後々まで尾を引く事になるとは……誰も予想せずに。



 所変わって揚屋、「縁屋」の前。さかさかと箒で道を掃いていたあやめは、肌に落ちてきた冷たい感触に、ふと空を見上げたのでございます。

 そこに広がるのは鈍色の雲。そしてその雲からは、真白の欠片がひらひらと舞い落ちてきております。

「……雪、か。道理で、いつにも増して空気が冷たい訳だ」

 舞い落ちる白を掌に受け取りながら、彼女はほうと小さく溜息を吐き出すのでございました。

 吐き出された息も、外気の冷たさで白く濁り、時折急ぎ足で前を抜けていく芸妓達も、どこか寒そうに身を竦ませているのが見えます。

――そう言えば、銀を拾ったのもこんな風に寒い日だったな……――

 寒さのせいか、唐突にその事を思い出し、あやめはくすりと軽く笑むのでございました。

――今日と言う今日こそ死にやがれ小娘ェェェェェっ!――

 出会ったばかりの頃は、置屋の迷惑を顧みず、毎日のように大暴れをする銀彌相手に、毎日彼の頭を踏みつけていた事も思い出されます。

 あの時の彼は、「独りではない事」を実感したかったのでは無いかと思っておりましたし、今でもそうだったのだと、あやめは思っております。

 あやめに襲い掛かる事で、自分は独りでは無いと。随分と屈折した認識の方法ではございますが、当時の彼はそうするしか知らなかったように思えます。

――随分と成長したものだな。今の奴からは想像出来ん――

 ふふ、と小さく笑いながら、再度手元の箒を左右に振り始めた刹那。

 懐かしい思い出に浸っていたのが悪かったのか、唐突に角から現れた男が、箒の先を踏みつけたのでございます。

「え?」

「お、わ、おおっ!?」

 箒を引く力よりも、男が踏む力の方が強かったのでございましょう。箒の先は、ほんの少しだけあやめの元へ戻ろうとした物のそれ以上はピクリとも動かず、油断していたあやめは体勢を崩し、その場でがくりと膝をついてしまうのです。

 一方で箒を踏んだ男も、予期せぬ出来事に僅かに体勢を崩したのか、数歩後ろへ向ってたたらを踏むのでございました。しかし、あやめのように転ぶ事はなく、何とか己の体勢を立て直すと、その男は膝をついているあやめに気付き、慌てたように手を差し伸べるのでございました。

「おお、すまんのぉ。怪我はないかぇ(ないかい)?」

「……へぇ。うちも少し、ぼんやりしてましたから」

 訛りから推測するに、土佐の志士でございましょうか。背は銀彌と同じくらい高く、腰から提げた刀はあまり使われた様子はございません。

 相手の顔を見るにしろ、子供らしい身長しかないあやめでは、見上げる形になってしまいます。

――長時間話すには、首が痛くなりそうな相手だな――

 そんな風に思うあやめに気付いていないのか、相手はあやめと「縁屋」を交互に見比べ……そしてニカッと笑うと、問いを口にするのでございます。

おんしゃー(君は)ぎっちりは(いつもは)この店におるのかぇ?」

「うちは禿どすえ? お姉さんが呼ばれたらここには来ますぅ。ウチのお姉さん方は、このお店にはお世話になっとりますさかい、お掃除させて頂いとりますんえ」

――と言うか、何故そんな事を聞くのだ、この男は。……童女趣味か? それとも誘拐目的か?――

 笑顔で答えを返しながらも、あやめは心の中では不信感を募らせます。

 仮に本当に童女趣味(ロリコン)であるにしろ、沖田と同じただの「小さい生き物好き」であるにしろ、警戒するに越した事はございません。

 前者の場合は色々と問題を感じますし、後者の場合は沖田と言う前例もある為、命の危険を感じるのでございます。

 そんな彼女の警戒に気付かず、相手はふむと小さく頷くと、更に問いを重ねたのです。

「この店は、『一見さんお断り』か?」

「そんな事おまへん。どなたでも歓迎してますえ」

「ほうかほうか。……良え感じの店じゃ。今日はいかん(無理)やけど、近い内に寄らせてもらいたいものぜよ」

 心の底からそう思っているのか、うっとりと目を細めながら「縁屋」を見つめて言う相手に、あやめの中にある不信感はますます強くなるばかり。

 浮かんでいる表情は爽やかなのに、あやめにはその爽やかさが妙に気に入らないのでした。

――本当に「爽やか」なのか、それともそれを装っているのか――

 穿った物の見方をしているとは、重々理解しております。

 ですがどうにもあやめには、目の前の男が、何かとんでもない事をしでかすような予感がしてならないのでございました。

 ……それも、悪い方向で。

 無意識の内に睨み付けそうになるのを堪えながら、作った笑顔で是非にとだけ答えると、箒を拾い上げて「縁屋」の中へ戻るべく踵を返したのでございます。

 そんなあやめの背に、駄目押しと言わんばかりに男は声を上げるのでした。

「俺は才谷梅太郎じゃ。次に会った時は『梅さん』と呼きくれ(呼んでくれ)

 と……


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