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その6:文久三年、霜月

 文久3年、深深と冷え込む霜月の中頃。

 夏は暑く冬は冷え込むこの京の街では、どの家も火鉢を取り出して暖を取り、水仕事の度にその水の冷たさに顔を顰めておりました。

 そしてここ、島原の一画「縁屋」近くにございます百花が営む置屋でも、その寒さは水仕事をこなす「仕込み」と呼ばれる修行中の者や、「見習い」や「半だらり」と呼ばれる舞妓見習いの者達を苛んでおりました。

 主な被害は、彼女達の手指に生まれる(あかぎれ)。水仕事によって脂が落ちた手は、冬の乾燥した空気によって小さな(ひび)が生まれてピリピリと痛むのです。更に彼女達は、その手で舞や三味、琴などの稽古に出なければならないのですから、慣れるまでは苦痛と言えましょう。

 事実、稽古から返ってきた彼女達の手は、毎日のように皹が開き、薄く血に染まっているのでございます。それは、文字通り「血の滲む努力」の証。それが彼女達の誇りであり、自信に繋がるのです。

 そしてそんな日々は、違う意味であやめをも苛んでいたのでございます。

「くっ……美味そうな臭いを充満させおって……」

 置屋の一室、水菊とあやめに当てられた部屋の中で、あやめは半ば八つ当たりのような言葉を、苛立たしげに放つのでございます。

 それもそのはず、彼女は「吸血鬼」なる「架人」。一日に一滴(ひとしずく)程度の血潮で生活できる身であるとは言え、彼女の命をつなぐ糧は、種の名の通り人の「血」なのです。この時期、仕込みや見習い達の指から滲む血の芳しい香りに、彼女の理性は崩壊寸前でございました。

「……我慢しねぇで、容赦なく食いついたら良いじゃねぇですか、お嬢。お嬢は少食すぎる」

「馬鹿を言うなこの駄犬。血を吸ったと言う記憶を消せるとは言え、不必要に食いつくなど……『餓鬼(グール)』と何ら変わらん」

 水菊の着付けを手伝っている銀彌に、据わりきった目でそう返しながら、あやめはその脇で揚屋へ持っていく小物を用意しております。

 「餓鬼」と申しますのは、「闇の者」の一種でございます。その名の通り常に飢えを感じ、その欲求の赴くままに喰い続ける異形。個体によってその食欲はまちまちでございますが、大抵はありとあらゆる物をひたすらに食し続ける、暴食の者でございます。

 特に堕人の「餓鬼」は、その底なしの食欲を満たす事のみを目的とする為、時には人間をも喰らう、心底恐ろしい存在でございました。

――「餓鬼」か。……思い出したくもない事を思い出した――

 かつて起こった出来事を思い出したのか、それでなくとも不機嫌そうな表情を更に顰め、あやめが珍しく大きな舌打ちを鳴らした瞬間。

 部屋の襖が微かな音を立てて開き、そこから「お母さん」である百花が、どこか深刻そうな表情を覗かせたのでございます。

「お母さん? どないしはりましたんえ?」

 滅多に娘達の部屋に上がる事のない百花の登場に驚いたのでしょう。きょとん、と水菊は目を見開いて問うのでした。芸事に厳しい百花のこと、彼女の浮かべている、いつにもまして厳しい表情から、何かとんでもない粗相をしでかしたのでは、と心の内で不安が過ぎったのかもしれません。

 しかし、当の百花は素早く周囲を見回して誰もいない事を確認すると襖を閉め、吐き出す様に呟いたのでございます。

「……『餓鬼』が、現れたかもしれまへん」

 先程軽く話題に上げた「闇の者」の名が、百花の口から吐き出された瞬間、ピクリとあやめの眉が跳ね上がりその顔を百花の方へ向けます。

 「かも知れない」と言う事は、まだ決定的な証拠は無いのでございましょう。しかし、百花の表情は言葉の曖昧さとは真逆の、確信めいた色が浮かんでおりました。

「何が、起きた?」

「壬生寺でお墓が荒らされて、お供えと、納めていたご遺体が無ぅなっていたと」

「……供え物はともかく、亡骸の方は土に返ったんじゃねえの?」

「銀彌はんの言う事も考えたんどすけど、そうと違いはるみたいえ。何しろ荒らされたんは新しいお墓やったらしいから」

 真っ直ぐにあやめを見つめながら、しかしやはりどこか苦しげに呟く百花の言葉を、見つめられている方は、真剣な表情で反芻いたします。

 墓を荒らすだけならば、共に埋葬された貴重品を頂こうとする不逞の輩、俗に言う墓荒らしの仕業とも考えられました。ですが、墓荒らしが奪うのは金品であって、ご遺体を奪うような事は、余程の事情がない限りはございません。

 まして壬生寺は新撰組が稽古に利用している場所。斯様な場所で墓荒らしを行おうとするのは、余程自身の腕に覚えがあるのか、無謀のどちらかでございましょう。

 ……だからと言って、可能性が全くない訳ではありませんし、「餓鬼」であると言う証拠もございません。

「……他に、何かあるのか?」

「へえ。お墓の近くに、仏さんとは別人の亡骸が、食い散らかされたみたいに置いてあったと」

 それを聞いた瞬間、あやめは不快そうに顔を顰め……

「……二十数年前(あの時)と同じ状況、か」

「……へえ。その通りどす」

 吐き出す様に呟かれた言葉に、同じ様に百花も吐き出す様に返し……やがて百花は深い溜息を吐き出すと、その場ですっと土下座をするように頭を下げて、言うのでございました。

「お姉さん。もしもほんまに『餓鬼』やったら……残された者にとっては、あまりにも酷な事どす」

「ああ、分っている。……出来る限り今宵中に片をつけるさ」

 あやめの返事に何を感じたのでしょうか。百花は一瞬だけ床に向けた顔を、今にも泣きそうな「女」の物に変え……ですがすぐさま、いつもの厳しい「お母さん」の表情に戻して、ぽんぽんと手を叩いて言うのでございました。

「さぁさぁ水菊。逢状かかってますんえ? 支度が終わったのなら、早ぅ行かんと」

 と。



 「縁屋」へ向う道中。あやめを引き連れ、からころと下駄を鳴らす水菊がふと思い出したように声を漏らしました。

「お母さん、どないしはりましたんやろ? 何や、妙に辛そうどしたけど……」

「お前にも思うところのある『闇の者』がいるように、モモ……百花は『餓鬼』に対して思うところがあるのだ」

 返ってきた言葉に、水菊は驚いたようにあやめの方へ視線を下ろすと、彼女もこちらを見ていたのか、ばちりと目が合います。

 淡々とした声とは対照的に、妙に暗い……先程見た百花と通じる所のある表情。そこから読み取れるのは怒りと悲しみ。

 島原の女であれば、誰でも一度は浮かべた事があるであろう表情でございますが、あやめが浮かべるのは島原の女性が浮かべる「それ」とは、ほんの少し異なるような印象も受けました。

 その「異なる部分」を読み取ろうとする水菊に気付いているのか、彼女は視線を水菊から反らすと、冷静を装った声で語るのでございました。

「お前が島原に来るより以前、まだ百花が、この島原の芸妓だった頃の話だ。百花には身請けを約束した旦那がいた。珍しい事に、旦那(そいつ)は一途な男でな。島原の芸妓としては異例とも言える、正妻としての身請け話だった。私も我が事のように喜んだ物だ」

 島原に限らず、花街の女性が正妻として迎えられる事は滅多にございません。良くても妾、愛人と言った関係。

 それを嫌と言うほど理解している水菊にとって、それはひどく羨ましいような、そして誇らしいような気が致します。

 それ程、百花は愛されていたのだと。島原に来て以降、自身の面倒を見てくれた「お母さん」である百花が愛されたと言う事実は、己の事のように嬉しい物でございます。

 ……ですが。そこまで考えて、彼女ははたと気付いたのです。

 身請けが決まっていたのならば、何故未だ花街に……この島原に、「お母さん」として残っているのかと。

 そしてその答えは、あやめの口から齎されたのでございました。

「だが、百花が島原から離れる1週間前。……その旦那は、西本願寺の境内で、無惨な姿で見つかった。調べた結果、旦那は『餓鬼』に食い殺されたのだとわかった」

 「闇の者」をおびき寄せる為の「囮」としてあやめに協力する事の多い水菊でございますが、実は未だ「餓鬼」は目にした事はございません。

 堕人の「餓鬼」は悪食の化身である。斯様な話を、以前水菊は聞いた事がございます。聞いてはおりましたが、まさか人すらも「餓鬼」の食事の対象だとは思わなかった為か、ぞっと彼女の背に悪寒が走るのでした。

 無論、ある意味においてはあやめなどの「吸血鬼」も「人を喰う異形」と言えましょう。ですが、「肉を食われる」のと「血を吸われる」のとでは、受ける印象が全く異なります。残る見目や、水菊の慣れの問題でもあるのでしょうが……

「食い殺した『餓鬼』は、その3日後に倒した。だが……倒した所で、百花の旦那が帰ってくる事はない。だからあいつは、誰よりも『餓鬼』を憎んでいる」

「最愛の存在を奪ったから、どすか?」

「そうだ。…………そしてそれと同じくらい、百花は私の事も憎んでいる」

「どうして?」

「『どうしてもっと早く解決してくれなかったのか』とな」

 言いながら、あやめはどこか寂しそうな目で、遠目に見える「縁屋」を見つめます。

 実際にその時、百花にそう言われたのかも知れません。

 何故、もっと早くに見つけてくれなかったのか、何故もっと早くに倒してくれなかったのかと。

 愛した男を失ったが故に、そのように(なじ)る百花の気持ちも分りますし、それを永遠に引き摺るあやめの性格も理解しているつもりです。

 ですが、今の百花がそう思っているなどとは、水菊には到底思えないのでございます。

 本当に百花があやめを恨んでいるのなら、あんな哀しそうな目であやめを見つめたりはしないはず。いかに元芸妓であり、己の本心を隠す事に長けているとは言え、憎悪や哀しみと言う激しい感情までは、簡単に隠し果せるものではございません。

 仮にあやめには気付けぬように上手く隠していたのだとしても、同じように感情を隠すことに長けた芸妓である水菊にまでは通じぬはず。何しろその手練手管は、当の百花仕込みなのですから。

 だからこそ、違うと。水菊には、確信がございました。

 ですが自身が……そして仮に百花が「違う」と否定した所で、あやめは聞き入れない事であろう事も、彼女は確信しておりました。あやめの、妙な所で頑固な性格もまた、水菊は知っているのですから。

「今回はその時とひどく似通った状況なのだ。モモがあんな顔をするのは当然と言える」

「……確かに、お母さんが辛そうな顔をする理由は、そうかも知れまへんなぁ……」

「と、言う訳で。私はこれから壬生寺へ行って少し調べてくる。座敷には向かえないが、逢状を出したのが永倉君なら、その辺の事情は察してくれるはずだ」

 そう言うと、あやめはひらりと手を振りながら「縁屋」への道から外れ、目的地……壬生寺へ向ってその足を向けたのでございます。

 その行動に水菊は驚いたように目を開き、きょろきょろと、芸妓らしからぬ落ち着きの無さで周囲を見回し、そして心配そうに眦を下げて問うのでございました。

「え? お姉ちゃんお1人どすか? 銀彌はんを連れていかれた方がよろしい思うんどすけど」

「今回は寺だ。寺や墓にアレを連れて行ったところで、どうせ香や死臭にやられて使い物にならん」

「…………へえ。では、気をつけておくれやす」

 苦い笑みを浮かべて言うあやめに、水菊もどこか置いていかれる子供のような、寂しげな表情を見せ……しかしすぐさま芸妓としての顔に戻ると、深々と頭を下げて、その小さな背中を見送るのでございました。



 冬の寒空の下、この壬生寺に到着してからどれ程の時間が経ったでしょうか。

 寒さに身を震わせながらも、あやめは暗くなった境内で、ぼんやりと空を見上げているのでございました。浮かんでいるのは数多の星と、満月から1つ欠けた十六夜の月。

 一通り境内と、その側にある墓を見回った後、彼女が結論付けたのはやはり「餓鬼」による仕業であると言う物。

 それと申しますのも、この寺全体に漂う不穏な空気が、堕人と化した「闇の者」特有の気配であること、そして何より、荒らされた墓に捨てられたらしい亡骸に残る歯型が、人の物であったが故。

 変身の出来る満月を過ぎている為、いつもならそこで「番犬」である銀彌を呼ぶところでございましたが、来る前に水菊へ告げたように「使い物にならない」と判断している事、そして呼ぶだけの時間も惜しいのもあり、彼女は1人でじっとその場に佇んでいるのでございました。

 浮かぶ星々を線でつなぎ、あれは小熊に見える、あれは龍に見えるなどと遊んでいる姿は、端から見れば時間を忘れてはしゃぐ子供のように見える事でございましょう。

 実際には、いつ何時、何者が来ても良いように身構えているのですが。

 そうして更にしばらくして。あやめの背後から、玉砂利を踏む足音が1つ、寄って来るのが聞こえたのでございます。

 ですが、その気配が放っているのは……警戒と不審、そして心配の入り混じった物。「餓鬼」特有の「飢え」でないと理解すると、あやめはその足音の主へと振り返って相手の姿を確認するのでございました。

 そこに立つのは、月の光の中でも映える浅葱色の隊服。刀を通常とは逆の右に差したその人物は、不可思議だと言いたげにその首を傾げてあやめを見つめておりました。

「そこで何をしている。その格好……花街の禿であろう?」

「お侍はんこそ、何をしてはるんどす?」

「俺は巡視だ。壬生寺は屯所に近い事もあるが、それ以上に最近この寺で奇妙な事が起こっている。故に帰れ、島原の娘。お前が事を起こしているとは思えぬが、巻き込まれぬとも限らん」

 硬い物言いとは裏腹な、心配そうな声に思わず顔を緩めたのも束の間、あやめは何かに気付いたのか、すぐにその顔を揚屋などで見せる「作った笑み」に変えると、その青年の袖を引いて、言葉を紡ぐのでございます。

「お侍はん。うちは『餓鬼』を探しておりますんえ」

「『餓鬼』? 子供が子供を斯様に呼ぶ事は甚だ遺憾だな」

「ああ、子供の事の『ガキ』やあらしまへんえ? 『餓えた鬼』て書く、ほんまの『餓鬼』どす」

「何?」

「お腹が空いた、何か食べたい、何でも食べたい、美味しいもの何でもかんでもみぃんな食べたい……そう言う思いを抱いた、物の怪を捜してましたんえ」

 にこ、と笑う彼女に毒気を抜かれたのか、それともあまりにも突拍子のない言葉に唖然としただけなのか。青年はきょとんとした表情で彼女の顔を見やるのでございました。

 一方であやめの方は、作り笑いを浮かべたままコロコロと下駄を鳴らして側に歩み寄ると、その新撰組隊士の裾をきゅっと掴み、小首を傾げて問うのです。

「……お侍はんは、新撰組のお方どすなぁ」

「見ての通りだ。名は、斉藤一と言う」

「ほな斉藤はん。……突き飛ばすけど堪忍しておくれやす」

 そう言ったのと、突き飛ばしたのはほぼ同時。予期せぬ出来事に斉藤と名乗った青年の体はぐらりと傾ぎ、たたらを踏んで数歩分後ろへと下がります。

 同時に彼の目に飛び込んだのは、地味な色合いの袈裟を纏った僧侶と、それが伸ばした手からひょいと逃れるあやめの姿でございました。

 その様は、まるで絵巻物に描かれた、牛若丸と弁慶の、五条大橋の戦いの一幕のよう。

 異なるのは僧侶の目に宿る狂気と、その身に纏う邪悪な気配。

「お坊はんが堕人と化すなんて、世も末どすなぁ」

「何だ? この寺の坊主? だがしかし……この異様な気配は一体……!?」

 傾いだ体を立て直すと、斉藤は己の刀に手を置き、いつでも抜けるような体勢をとって現れた僧侶に鋭い眼差しを送るのでございます

 並の者ならば、その眼光の鋭さに竦み、退くのですが……僧侶は逆に楽しそうに口の端を歪めると、妙に紅く染まった舌で唇を舐めて言葉を放つのです。

「美味そうだなァ、お前らァ」

 そしてその言葉と同時に、僧侶はその口を大きく開き、あやめめがけて突進したのでございます。

 口から覗く歯はどれもこれも鋭く尖っており、月明かりの中で見える瞳に浮かぶのは「狂気」と「餓え」。

 真っ直ぐあやめに向かう相手に、不穏な物を感じた斉藤は、チイと1つ舌打ちを鳴らすと彼女と僧侶の間に入り、反射的に「斬り殺す一撃」の居合いを放ちます。

 ですが……相手はその刀を歯で止め、そしてぶっと吐き出すのでした。

「何だ、今のは……歯だけで、俺の刀を止められたと……」

「金物は不味いなァ。食うならやっぱりィ……肉が良いぃぃぃィ」

 ニタリと笑いながら、相手は袈裟の懐から何かを取り出すと、まるで口直しと言わんばかりにそれに向って齧りつくのです。

 歯を立てた瞬間、それからはブチュリと気分が悪くなるような音が響き、同時に鉄臭さと生臭さの入り混じった、奇妙な臭いが斉藤とあやめの鼻に届いたのです。

 そして相手の齧りついている「それ」が、人の腕だと気付くのに、そう時間はかからず……2人は軽く顔を顰めると、半ば睨みつけるような目で、その僧侶を見据えるのでございました。

「娘、今すぐ屯所へ向かい、局長か副長に保護してもらえ。此奴は俺がどうにかする」

「……君1人でどうにかなる相手なら良いが、残念な事に今回はそうとも言い難い。アレは、正真正銘の『餓鬼』だ」

 再び刀を構え直した斉藤の言葉に、あやめは軽く首を横に振りながら素の口調でそう返すと、すっとその目を憎々しげに細めるのでございました。

 鉄錆の臭いがすると言う事は、相手の齧っている腕から血が垂れていると言う事。そしてその腕は、「持ち主」から離されてそう時間が経っていないと言う事なのですから。

「満たされないんだよォ、何を食ってもォ。毎日毎日豆腐と野菜と雑穀だけェ。そんな物でェ、満たされるはず無いだろォ?」

「新撰組も、然程食生活豊かとは言えぬから腹が満たされぬと言うのは理解出来る。だが、だからと言って斯様な暴挙に出る心境までは理解出来ぬし、したいとも思わぬ」

「島原の女も同じだ。むしろ貴様らより余程餓えているだろうな。何しろ揚屋での飲食はご法度。目の前にどれ程の馳走が並ぼうとも、それに手をつけられない苦しみは僧侶の比では無い」

 食事を満足に出来るなど、公家の者か大名級の武士くらいしか出来ぬ世でございます。黒船が来てからはなおの事。

 元は浪士の集りである新撰組も、そして厳しい掟のある島原の女も、いつも満腹を感じる程の食事にありつけるとは限らないのです。

 それを理解せず、ただ己の食欲を満たす事だけを考えた者。それが目の前の僧侶の格好をした「餓鬼」でございましょう。2人の皮肉めいた言葉に反応する事も無く、彼はただ口の端からだらりと獲物の血が混じった薄紅色の涎を流して言葉を続けるのでございました。

「……その点、肉は美味いよなァ。食っている間は満たされるゥ。新鮮な肉なら、特にィ。……死体はもう、食い飽きたァ」

 そう言って、持っていた「腕」を放り捨てると、彼は狂気で爛々と輝く目をあやめに向け……

「子供の肉はァ、柔らかくて美味いんだよなぁぁぁぁぁァ!!」

 怒鳴るように言うと同時に、その尖った歯を剥いて、突進してきたのでございます。

 そんな相手に、斉藤は真剣な表情で刀を構え、そしてその足元であやめはフンと鼻で笑い……

「私を喰らうと? 生憎、私の血肉は安くはない」

 その言葉と同時に、彼女の周囲にぶわりと闇が広がったのでございます。

 霜月の寒空の中、闇はその冷たい空気を遮断するような心地良い温かさを斉藤にもたらしたかと思うと、まるで意思ある物のように彼の刀へゆるりと纏わり付いたのでございました。

 闇に纏わり付かれた彼の刀身は濡羽色に染まり、次の瞬間には襲い来る相手の左足を断ち切っていたのでございます。

「ギャッ!?」

「な、何だ!? 何故(なにゆえ)いつもよりも刀が軽い?」

「今宵は十六夜。変身は出来ないが、刀に闇を纏わせる事くらいは可能だ」

 彼女の言葉に同意する様に、斉藤の刀に宿りきらなかった闇は彼らの足元でゆらりと揺らめいて、切り落とされた「餓鬼」の足を己の内へ取り込み、同化したのでございます。

 それはさながら、「餓鬼」の食欲が伝染したようにも見え、足を「喰われた」相手は、先までの狂気じみた笑みを消し、わなわなと肩を震わせながら、斉藤とあやめを交互に睨むのでした。

「そんな馬鹿なァ! この体に……『堕人』になったなら、並大抵の刀は効かなくなったってェ! そう聞いていたのにィ!? 何で斬られたんだよォ!?」

「『並大抵の刀』ならばな。だが、闇を纏わせた物であれば、闇の者を葬れる」

「どういう事だ、娘? 俺にもわかるよう、簡潔に説明をしろ」

「ふむ。ならば本当に簡潔に言おう。『毒を以って毒を制す』と言う言葉があるだろう。同じ事だ。闇を以って闇を制したと言う訳だよ、斉藤君」

 するりとあやめが自身のこめかみ辺りに挿していた簪……前挿しと呼ばれるそれを抜きながらそう言うと、足元で蟠る闇の一部が、するりとその前挿しの本体部分を覆って黒金色へとそれを染め上げます。

 闇を纏った前挿しは、先程よりも一回り長く、そして本来髪に挿すはずの部分が鋭利な針のように変化しておりました。

「闇の質が高ければ高い程、相手の闇を吸収し斬り裂く事が出来る。闇は得物の使い手を補助するから、刀が軽く感じたのはその為だろう」

 斉藤に言いながらも、彼女の目は真っ直ぐに「餓鬼」に固定されており、足を失った「餓鬼」は堕してから初めて飢餓以外の感情……恐怖を感じ、自身に向けて腕を伸ばす、あやめから逃れるように、必死の形相で後退りをするのでございます。

 斬られた足からは血ではなく漆黒の闇が流れ出し、そして流れたそれは追いすがるあやめの闇に呑まれ、消えていく様を見ながら。

「ひ、ひぃィッ! 嫌だ、嫌だぁァ! 喰うのは良いけどォ、喰われるのは嫌だァ!!」

「貴様が今まで喰った人間も、そう思いながら……そう口にしながら逝ったのだろう?」

 視線に温度があるのなら、霜月の寒さなど生温くさえ感じられるであろう冷え冷えとした目を「餓鬼」に向けると、あやめはすっと鋭く尖った前挿しの先を相手の胸元に軽く押し当て……そして、これまた冷たい声で言い放ったのでございます。

「人から堕した闇の者よ。貴様の止まった時間は、死を以って再び動かすと良い」

 そしてその言葉を斉藤が知覚した次の瞬間。

 僧侶の姿をした「餓鬼」は、心の臓を前挿しに貫かれ、そのままあやめの纏う闇に飲み込まれていたのでございました。

 あまりにも現実離れした出来事に少々呆気に取られつつも、目の前で起きた事を受け入れようとしているのでございましょうか。己の刀を染めていた「黒」があやめの足元へ退いて行くのを見つめながら、斉藤は不思議そうな表情であやめの顔を見つめるのでございます。

「娘、お前……何者なのだ?」

「何者、聞かれても。うちはただの禿どすえ?」

「それは認められぬ。先の振る舞い、そして気配は一介の禿の物ではあるまい。死線を潜り抜けてきた侍のそれだ」

 作った笑顔と禿の口調で返すあやめに、斉藤は軽く……しかし逃げる事は許さないと言わんばかりに彼女の腕を掴むと、首を横に振って真剣な表情で言い聞かせるのでございます。

「先の坊主と言い、お前と言い、纏う闇は只人のそれでは無い。京の治安の観点より、俺はお前を連れて屯所へ戻り、局長と副長、そして総長にこの事を報告し、どうするかを決めねばならぬ」

「それは困りますぅ。うち、面倒な事はごめんやわぁ」

 にっこりと。

 作り笑顔の中でも最上級の物を浮かべると、彼女は掴まれていない方の手を斉藤の眼前にかざすと、次の瞬間には眩い光をそこから放ち……

「なっ!? 娘!?」

「どうぞ、今宵の事は忘れておくれやす。あるいは夢やと思ぅてもらえたら嬉しいわぁ」

 そう言いながら、彼女は斉藤に「記憶を書き換える光」で「深夜巡拝に来ていたあやめを注意していた」と思い込ませ……すたこらさっさと壬生寺を後にしたのでございました。

 ですが、島原へと逃げ帰る彼女の顔は、妙に険しく……

――あの「餓鬼」……普通の刀が通じないと「聞いていた」とか言ったな――

「……嫌な予感がする……」

 そう、小さく呟きを落とすのでございました。



「あれがあいと()言うちょったが(言っていた)『異質』か。成程、確かにしょうえい(面白い)

 壬生寺から去っていくあやめの姿を、訛りの強い男が、少し離れた雑木林の中から見つめて呟いておりました。

 口元には心底楽しげな笑みを浮かべ、その目は興味深そうにあやめの後姿を見送ると、その男は堪えきれなかったのか、ククッと喉の奥で笑い声を上げるのでした。

 先日は共にいたはずの「眼鏡の男」の姿は今は無く、そして、無いからこそこの状況を楽しんでいる節がございます。

あいと()もしばらくは戻らんし……ちっくといとさん(お嬢さん)遊ぼうかぇ(遊ぼうかな)

 ニヤリ、と口の端を歪ませて。

 男は誰にと言う訳でもなくそう言い放つと、そのまま雑木林の奥へとその姿を消したのでございました。


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