その5:文久三年、文月-肆
「……新撰組は、阿呆なのか?」
置屋の最奥、「お母さん」である百花の部屋で。その百花から聞いた言葉に、あやめは力の限り顔を顰めて返したのでございました。
……芹沢鴨が「角屋」にて暴行を働いた夜から一夜明け、空は青く澄んだ色を湛えているのとは対照的に、彼が「闇の者」へ堕したと「感じ取ってしまった」あやめの顔はひどく曇っております。
そんな彼女を見ながら、窓の外に立つ永倉は苦笑を浮かべ、その隣に立つ銀彌は、特にこれと言った感慨もないのかふぅんと小さく呟くだけでございました。
「昨日の今日で宴会? しかもアレだけ暴れた角屋で? 更には芸妓総揚げだと!?」
「まあ確かに、馬鹿げていると思われても仕方ないとは、正直俺も思う」
「せやけど、芹沢はんの他に、局長の近藤はん、副長の土方はん、隊長の沖田はん、斉藤はん、それに外にいてはる永倉はんも行かはるんどすやろ? 余程の事が無い限りは大事無いとは思います」
百花の言う「大事」とは、恐らく昨夜のように酔った芹沢が大暴れした挙句、芸妓達に乱暴を働く事を差しているのでございましょう。
確かにそれだけの者が集っていれば、如何に「闇の者」である芹沢とて、数の上で暴走を押さえ込まれる事でしょう。
しかし、先にも述べたように昨日の今日。「酒で大暴れした」と言う芹沢の醜聞は、既に島原のみならず京の街にも広がり、新撰組の評価もまた下がりかけているはず。
彼らとて、己の評判を下げるような事はしたくないはずなのに、また酒を飲ませると言う事は……
「今夜の飲みは、芹沢って奴に対する最後の晩餐かい、永倉のにーさん」
「……ああ。山南さんと土方さんが、その手筈を整えている」
「いくら『闇の者』に堕してはる言うても、集団でかかれば人間でも『闇の者』は屠れます」
低く呟いた永倉に、百花は静かに頷きを返すと、今度は真剣な表情であやめの顔を覗き込んだのでございました。
事務的な中に、不安を微かににじませた表情で。
「……新撰組の事は、島原の『外』の話や。お姉さん……宵闇太夫が出る事と違いますやろ? それに何より、今夜は満月ではないから、お姉さんの本来の力は発揮できまへん。それでも行かはるんどすか?」
「ああ。行かねばならんのだよ。……『宵闇』としての私ではなく、あやめ個人として」
真っ直ぐに百花の目を見つめ返し、返すあやめの顔に浮かぶのは後悔でしょうか。
眉を八の字に下げ、それでも無理に笑おうとしているのか、口の端は微かに上がっております。
芹沢が「闇の者」へと堕してしまった事に……止められなかった事に責任を感じているのでしょう。己の無力を痛感し、そして「殺す」と言う方法をとる以外に出来ぬ現実を嘆いているのです。
「……彼はまだ、完全に暴走していない。永倉君には申し訳ないが、今宵、彼の者を殺させてもらう。……新撰組筆頭局長の襲撃など、君達にとっては醜聞甚だしいだろうが」
「それは、最初から土方さん達の筋書きでもある。確かに醜聞だが、これ以上あの人に騒ぎを起こされるよりはマシだって事らしい」
そう言う永倉の声には、どこか自嘲めいた色が浮かんでおり、空を見つめる顔もあやめ同様曇っているように見受けられます。
彼が何を思っているのかは、あやめ達には分りません。
数回会っただけのあやめでも、ひどく無念さを感じていると言うのです。それよりも付き合いの長い永倉であれば、なおの事様々な思いが去来している事でしょう。
「……だけどさ、あやめちゃん。もしも君が芹沢さんを襲撃して……土方さん達と鉢合わせしたら、間違いなく口封じに襲われるぞ?」
「その口ぶりからすると、君は襲撃には関わらないのだな」
「……ああ。外されたよ。ちょっと、納得できていないのがばれてたみたいだ」
「そうか」
永倉の言葉に短く答え、あやめはすっくと立ち上がり……
「……銀、出るぞ。今回の攻撃、貴様だけが頼りだ」
「了解でさぁ、お嬢」
「……どうか、気をつけておくれやす」
くるりと踵を返して言ったあやめの背に、何を見たのか。永倉と百花はどこか哀しそうな表情で溜息を吐き出しながら、部屋を出て行く彼女の小さな背中を見送ったのでございました。
居待月が照らす闇の中。
新撰組屯所である八木邸にて、芹沢鴨は布団の中から月を見上げておりました。
新見が亡くなって以降、己の内で燻る「怒り」は、日に日に彼の理性を食い荒らし、気がつけば周囲が傷だらけになっている事が多くあります。
昨日など、呼んだ芸妓だけでなく同行した永倉、そしてこの間出逢った禿のあやめをも傷つけてしまっていたのです。
一体何が原因でそんな事になったのか。気持ちよく酒を呑んでいた事は覚えているのですが、ある瞬間を境に記憶はふつりと途切れておりました。
――俺は、どうしたと言うのだ――
日頃から持ち歩いている鉄扇に手を伸ばし、パチンパチンと開いては閉じ、閉じては開くを繰り返します。
確かに酒乱の気はございましたし、他人よりも腹を立てやすい性格なのも自覚しております。
しかし、記憶を失う程怒り狂うなど今までになかった事。それが、芹沢に得体の知れない恐怖を与えていたのでございます。
それに……眠ってしまったら、またしても新見の夢を見そうで怖いと言うのも。
――何故俺が、死者に怯えねばならんのだ――
心の中ではそう思いつつも、目を閉じればまた首から血を流す男の幻覚が見えるような気がして。芹沢はただただ月を見上げるだけでございました。
彼の耳に届くのは、隣で眠る女の寝息と、全てを洗い流すかのように降りしきる激しい雨音、そして己が鳴らす鉄扇の金属音。
それらが月の光に照らされ、薄く光る様は現実とは思えぬ程の優美さで……
しかしその瞬間。芹沢ははたと気付くのです。
……月と豪雨が同居する事など、まずありえないと。
それに気付いた瞬間、ぞくりと彼の背に冷たい物が走り、その大きな体を強張らせたのです。ぞくぞくと這い上がる、寒気に似た怖気。
隣で眠っていたはずの女の姿は、いつの間にか首から血を流す男の姿に変わっており、くつくつと嫌な笑い声を上げているのでした。
「昨日は危なかったですねぇ、先生? 子供を殺しかけるなんて」
「それ」の存在を認めたくないのか、芹沢は小さく息を呑むと、半ば武士としての本能だったのか、布団を跳ね除け枕元に置いていた自分の刀をとり、それを即座に抜き放ちます。
死んだはずの存在が目の前にいる以上、これは夢でございましょう。月の光を受けて、金色の糸の様な豪雨も、夢だからこその光景のはず。ですが、刀の感触や血の臭いは夢とは思えぬ程しっかりしており、芹沢の頭を混乱させるのです。
そんな彼の混乱に気付いているのか、「それ」は真っ直ぐに手を伸ばすと、芹沢の頬に手を添え……そして、囁くのでございます。
「逃がしませんよ。あなたは私の……玩具なのですから」
「だ、黙れっ!」
「それ」が与えてくる、底知れぬ恐怖を振り払うかのように、芹沢は虚勢混じりに怒鳴りつけると、抜いた刀を相手の裂けた喉めがけて振りぬいたのでございます。
……刹那。
ざくり、と嫌な音と感触が、刀を通して芹沢の手に伝わり。直後、何やら生温い物が彼の顔に勢い良く降りかかったかと思うと、目の前の存在が……そして景色が、すぅっと切り替わったのです。
天に輝いていたはずの居待月とその光は消えて周囲を灰色に染め、芹沢の刀を受けているのは先程まで寝ていたはずの女。それが驚いたように目を見開いたまま、芹沢に己の血を吹きつけながら息絶えておりました。
一瞬、何が起きたのか理解できず、芹沢は刀と女を交互に見やり……そしてようやく「自分が女を手にかけたのだ」と気付いた時、彼の耳元で声が聞こえたような気がしたのです。
……もう、闇に堕ちるしかないのですよ、と。
そしてそれを聞いた瞬間。「芹沢鴨」と言う一個人の自我は……完全に崩壊したのでございます。
「グゥ、ヲオオオオッ!」
黒衣に身を包んだあやめと、同じく黒衣に身を包んだ銀彌が、新撰組屯所である八木邸に侵入した時。真っ先に耳に入ったのは、何者かの咆哮でございました。
そして直後、彼女達の近くの部屋の障子が勢い良く吹き飛び、そこから何者かの血に塗れた芹沢鴨が姿を見せたのでした。
しかしその瞳の色は灰色に染まり、その目に映る物全てを端から持っている鉄扇で粉々に破壊していくのです。
「お嬢、あれって……」
「破壊魔。……既に自我をも壊した後、と言ったところだな」
「どうする? 今宵は満月じゃねぇから、『変身』も出来ねぇし刀も出せねぇ。お嬢的に、ちょいとばかし『ぴんち』って奴じゃねぇか?」
「だから貴様を連れてきたんだろう。何の為の猟犬だ」
「オレは猟犬じゃなくて、お嬢の番犬だろ!?」
「どちらでも大差無い」
言いながら、彼女達は部屋の外に出ようとする芹沢の……「破壊魔」の前に躍り出ると、それ以上進むのを阻むかのように足を払って相手を仰向けに転ばせたのでございます。
「グゥ……グヲヲオォッ!」
しかし、「闇の者」と化しているだけでなく、生来の身体能力も高いのでしょう。「破壊魔」はすぐさまその身を起こすと、視界に入った者……銀彌めがけて、闇に染まった鉄扇を振り下ろすのです。
ですが、一方の銀彌もそれを僅か半身ずらす事でかわすと、懐から手甲状の武器……「虎の爪」と呼ばれるそれを取り出し、即座に己の手に嵌めるのでした。
「へへっ。『破壊魔』とやり合うのは初めてだぜ」
「相手は頑健さが売りの『闇の者』だ。せいぜいその爪を壊されんよう気をつけろ」
「了解! ま、いざとなったら喉笛食いちぎってやりまさぁ」
ニィ、と口角を吊り上げて言いながら、銀彌は勢い良く床を蹴ると「破壊魔」の懐に飛び込んで相手の腕をその「爪」で引き裂きにかかります。
が、相手はそれを後ろに飛んでかわすと、低く唸りながら左拳を振り上げ、銀彌の顔面めがけて振り下ろします。
ですが銀彌もまた、その一撃を身を捩ってかわすのです。標的を失った拳は銀彌の脇ギリギリを掠めると、そのままの勢いで畳にめり込み、その下にある床板までみしりと悲鳴を上げさせるのでございました。
まさに一進一退の攻防。互いに間髪入れずに攻撃を繰り出しながらも、相手の攻撃は一切受けておりません。ただひたすらに、周囲の壊れる音が響くだけでございます。
その音を聞きつけたからなのか、それとも他の「用事」が済んだからなのか。廊下を駆ける複数の足音が響いたかと思うと、直後にはあやめの見知った4人の男が、明らかな殺意を身に纏い得物を抜いた状態で姿を見せたのでございます。
「鴨さん、覚悟……って、え!?」
「がむしんが贔屓にしてるトコの嬢ちゃんと男衆!? 何だってこんな所に居やがる!?」
「君達と同じだよ、沖田君、原田君。私は芹沢鴨を……そこに立つ『闇の者』を、殺しに来た」
まさかここにあやめと銀彌がいるとは思っていなかったのか。現れた4人……沖田、原田、土方、山南達は、眼前で繰り広げられている光景に驚いたように目を開くのでした。
そしてそんな彼らに、あやめは淡々と言葉を返し……そして、じっと芹沢を見つめて言葉を続けるのでございます。
「……銀、『破壊魔』に堕し易い『感情』は何だったかな?」
「んあ? 『憤怒』だろ? お嬢、流石にそれくらいはオレでも知ってるぜ?」
「そう、『憤怒』。『自身に対する怒り』が許容を越え、ヒトと言う器で支えきれなくなった際に、人は『破壊魔』と化す」
壊れる音の合間に、「破壊魔」の鉄扇と銀彌の「爪」がぶつかり合う音が響く中、あやめは自身の持つ、ごく普通の舞扇を取り出しながら、独り言のように言葉を続けます。
「己に対する怒りのやり場に困って八つ当たり的に他者をいたぶり、その事に対してまた自身へ怒る。負の連鎖だな。だからこそ厄介なのだよ、『破壊魔』と言う存在は」
扇の鮮やかな赤が、彼女の纏う黒と空気を染める灰色の中で映え、その動きに合わせるように紡がれた言葉は唄の様な抑揚がついて。まるで舞っているかのように見えた彼女の仕草に、思わず原田と沖田の口からは感嘆の溜息が漏れるのです。
その一方で、山南と土方はと申しますと、あやめ同様真っ直ぐに芹沢に視線を、そして己の刀の切っ先を向け、凛とした声で言い放つのでございます。
「それでも、やらなければならないのです。芹沢さんには申し訳ないですが」
「狂っちまった事を同情する気はねぇ。この人は、いずれ新撰組を駄目にする」
土方が言うと同時に、やってきた4人は「破壊魔」を……いえ、芹沢をぐるりと囲むと、まずは原田の槍が彼の右腿に深く突き立ちます。
「グッ!?」
恐らく予想していない場所からの攻撃だったのでしょう。低く唸ると、芹沢はその灰色の目を銀彌から原田へと向けなおし……その隙を突くように、今度は山南が左肩を、沖田が右肩を続けざまに薙ぎ、それに乗じた銀彌が、ダメ押しと言わんばかりに「爪」でその胸板を大きく引き裂いたのでございます。
芹沢の体からは鮮血が飛び散り、部屋を、そして相対する者達の肌を汚します。ですが、彼は痛みを感じていないのか、気にせず鉄扇と拳を振り回して、見える物を粉々に破壊していくのです。
「壊れろ……壊れ、ろ……全て、壊れろぉぉぉっ!」
「ふざけろ芹沢ァ! 壊れんのはテメェ1人で充分だ! 新撰組を巻き込むんじゃねぇよっ!」
芹沢の怒声に更に大きな声を返すと、土方は芹沢の懐に飛び込んで刀を構え……ですが、その刀が芹沢の体に届くよりも先に、芹沢が渾身の力を込めて投げた鉄扇が彼の額を直撃したのでございます。
その強烈な衝撃に、土方の意識は一瞬飛び、その間に芹沢は彼との距離を詰め、その脳天めがけて両の手で作った拳を振り下ろしたのです。
「しまっ……」
「歳三さん!」
振り下ろされる速度は早く、かわしきれないと悟った瞬間。
土方への攻撃を完遂させる前に、ゴッと言う鈍い音と共に芹沢の体が床に沈んだのでございます。
――何が、起きた?――
いきなり床に突っ伏した形になった芹沢の体を呆然と見やり、やがて土方は芹沢から生えるようにして立つ影へそろそろと視線を向けるのでございました。
大雨ゆえによく見えませんが、芹沢の上に乗っているのは小さな影。黒い衣を身に纏い、手元では赤い舞扇をひらひらと振っているそれは、ぎゅむ、と芹沢の背を踏みつけながらも1歩前に進み……
「君、相手が『闇の者』である事を失念していないか?」
その声に、そして闇に慣れた目に。嘆息混じりに言った影の正体があやめであると気付くと、土方は軽く眉を顰めて彼女を睨みつけ、怒鳴るように問いを放つのです。
「ガキ……お前、いつの間に!? 何で芹沢さんの上に乗ってやがる!?」
「人間は、自分の目線より上には意識が行きにくいのだ。……かくれんぼの極意だよ」
言いながら、彼女は暴れる芹沢からひょいと飛び降り、振り上げられた拳を舞扇で受け止めたのです。
ひどく哀しげな表情で。
「芹沢君。君はもう、私が何者であるかも忘れたか?」
「うおおお……あ……?」
「私を忘れるのは構わん。だが……ここにいる皆の事も、忘れてしまったか?」
あやめの姿を、そして自身を取り囲む土方達を認識したのでしょうか。微かに舞扇にかかる拳の力が緩んだように思えたのです。しかしそれも一瞬の事。すぐにあやめの扇はミシミシと小さな悲鳴を上げ始め、それを支えるあやめの腕もふるふると震えるのでございます。
これ以上は支えきれないと判断したのでしょう。彼女はギシリと悔しげに奥歯を噛み締めると、大きく後ろへ飛んで、芹沢の拳から逃れ、言葉を続けるのです。
「君は何を破壊したかった? 島原か? 呉服屋か? 長州藩士か? 新撰組か? 荒れる世か? …………それとも、自分自身か?」
逃げた彼女を追うように、芹沢はおうおうと吠え、問いには決して答えません。
答えの代わりに腕を振るい、周囲を、そして自分の体すらも破壊するように暴れるだけ。彼の拳が何かにぶつかる度に、山南達に斬りつけられた傷からは血が噴出し、周囲を染めるのです。
「もう、本当に自我を闇に喰われてしまったのだな」
伏目がちに落とした呟きは、雨に消されて誰の耳にも届かずに。
彼女は意を決したように顔を上げると、襲い掛かる芹沢を軽くいなし……
「人から堕した闇の者よ。貴様の止まった時間は、死を以って再び動かすと良い」
冷たさすら感じる目を「破壊魔」に向けて言い放つと、己の髪に挿していた簪をするりと抜き放ち……そしてトン、と軽い足音と共にその懐に飛び込むと同時に、先の簪を相手の胸……心の臓にあたる部分に、深々と付き立てたのでございます。
常人ならばその一突きで即座に絶命していた事でしょう。しかしあやめの前に立つのは「闇の者」へと堕したせいなのか、胸からは血飛沫を吹きながらも、苦しげな呻き声を上げ、己の内から沸く破壊衝動の命ずるまま、遮二無二暴れるのです。
それでも、やはり刺された部位が部位なだけに、「死」は近いのでしょう。彼の体は、徐々にではありますが闇に溶け始めております。
そんな彼に、何を感じたのか。土方は「芹沢」の前に立ち……そして、刀を構えて、静かに口を開いたのです。
「こんな奴でも、新撰組の筆頭局長だ。……身内の不始末は、身内がつける」
ちゃき、と刀が鳴り、その切っ先は先程あやめが簪を刺した所に固定され。
「芹沢鴨。局中法度に背いたとして処分する。其処もとの罪状は……士道、不覚悟」
そして、その言葉を言い終わるとほぼ同時に、土方の刀は、彼の胸に吸い込まれるようにして突き刺さり……「破壊魔」芹沢鴨の体は、ざらりと音を立てて、決壊したのでございました。
最期に、何故か笑んでいたように見えたのは、闇の見せた幻だったのか。既に影も形も無くなってしまった以上、それを確認する術はございませんが。
――それでも、最期くらいは笑って欲しいと願うのは……私の我儘かな――
軽く目を伏せ、そしてこの場から去ろうと踵を返した瞬間。
彼女の首筋に、冷たい刃が当てられたのでございます。それが、山南の持つ刃であると気付くと同時に、昼間心配そうに言っていた永倉の言葉を思い出したのです。
「土方達と鉢合わせしたら、間違いなく口封じに襲われる」と言う言葉を
「禿さん。貴女には申し訳ないのですが、ここで死んで頂かなくてはなりません」
――ふむ、永倉君の懸念は間違っていなかったな――
山南の言葉に、あやめは……そして沖田と原田に切っ先を向けられている銀彌も、全く気に留めた様子を見せません。それどころか呆れたような溜息を1つ吐き出すと、あやめはくるりと山南達の方へ振り返り……
「…………要はこの場に『私と銀はいなかった』と言う事にすれば良いのだろう? 簡単な事だ」
「おい、まさか『見なかった事にする』とか言うんじゃねぇだろうな? そいつは無理な相談だ。島原の女は信用できねぇ」
「案ずるな土方君、『見なかった事にする』のは私達の方では無い。君達が、私達の存在を忘れるのだよ。これからそう書き換えるからね」
ニヤリと、どこか悪人めいた笑みを浮かべるとあやめは掌を彼らの方へ向け……次の瞬間、雷に似た眩い光が、彼らの網膜を灼いたのでございます。
そして次に目を開けた時には、いつもよりも荒れた部屋が広がっておりました。
……先程の光が、あやめの「記憶改竄」によるものだと言う事も、そしてあやめと銀彌がいたと言う事実も忘れて……
文久3年文月、18日の深夜。
芹沢鴨をはじめとする芹沢派と呼ばれる一派は、その夜「長州の不逞浪士に暗殺された」のでございました。
*
京の街、どこぞの茶屋の中。2人の男が、並んで団子を頬張っておりました。
「おー、芹沢鴨が殺されたって? そう簡単にくたばるようにゃ見えなかったけどねぇ」
「ええ。表向きは尊攘派の不埒者に暗殺されたと言う話にしています」
やたらと訛りの強い男の言葉に、もう一方の男はずれた眼鏡を押し上げ、口元に笑みを湛えて言葉を返します。
「ですが実際は、会津からの指令による内部粛清です。ただし、少々異質な事も起こりましたが」
「内部粛清か。怖い組織やか、新撰組言うのは。人斬り集団と言う噂はまっことにかぁらんな」
「お褒めの言葉と受け取っておきます。ですが、あなたもお気をつけなさい。何が起こるかわかりません」
「ご忠告、みょうに。やけどあいとらじゃー俺は捕まえられんさ」
からからと笑いながら、訛りの強い男は眼鏡の男にそう言葉を返すと、ちらりと店の外に目を向けます。
そこには、「芹沢を殺した浪人」を探す浅葱色の羽織を纏う男達が鋭い目付きで歩いているのが見えるのです。
「ありゃあ真実を知らん平隊士かぇ? 存在しやーせん犯人を捜すらぁて、ご苦労な事よ」
「暗殺の真相を知っているのはごく一部ですからね」
「おんしもその『ごく一部』やお? 恐ろしい男ちや」
口では恐ろしいと言いながらも、訛りの強い男は然程怖がっている様子もなく、にこやかな笑みを浮かべている相手の顔を見つめます。
しかしやがてそれも飽きたのか、訛りの強い男は唐突に真剣な表情を浮かべ……
「やけど、気になるぜよ。おんしの言う、『ちっくと異質な事』と言うのが」
「そうですか?」
「ああ。おんし程異質な人はいないと思うぜよ。そのおんしが『異質』と言うらぁてのぉ」
そう言うと同時に、訛りの強い男の姿はまるで煙の如く掻き消えてしまったのでございます。
ですが眼鏡の男は特に驚いた様子も見せず、むしろ呆れたような溜息を1つ吐き出し……そして彼もまた、その場から煙の如く掻き消えたのでございました。