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その4:文久三年、文月-参

 前川邸を出て少し歩いたところで。

 ポンと、あやめは背後から肩を叩かれたのでございます。

 気配も前触れも無く起こった唐突なそれに、あやめはびくりと体を大きく震わせ、反射的に睨みつけるように背後を振り返ると、そこには人の良さそうな笑みを浮かべた色白の男性の姿。

 浅葱色の地に、白で「誠」の文字が染め抜かれている隊服を着ている事から、(まご)う事なき新撰組の隊士でありましょう。

「ああ、失礼。驚かせてしまいましたね。そんなに警戒しないで下さい」

 睨むあやめに、相手は心底申し訳無さそうにそう言うと、彼女の髪……正確にはそこにささる簪に手を伸ばし、それをちょいちょいと弄ったのでございます。

 その仕草で、己の簪がずれていた事に気付いたのでございましょう。あやめは少しだけ目付きを和らげるとその男性の顔をじっと見つめるのでございます。

 齢30前後、背丈は芹沢や銀彌に比べれば高いとは申せませんが、柔和な笑みと隊士特有の凛とした雰囲気が相まって、人間的に大きな器を持っているように思えます。

 かけている眼鏡のせいか知的な印象も受け、羽織さえ着ていなければ寺子屋の先生に見えた事でございましょう。

「はい。これで元の可愛らしい禿さんになりましたよ」

「おおきに」

 ぺこりと頭を下げると、簪がシャンと音を立てたのが聞こえます。聞き慣れているはずのその音を聞くと、やはり先程まで簪がずれていたのだと実感できるのです。

 恐らく、芹沢に撫でられた際にずれたのでしょう。気に留めていなかったのは、外見も気にする島原の者としてはあまりよろしくない事でございます。

 情けないような恥ずかしいような気分になりながらも、あやめはそんな考えは顔に出さず、ただにっこりと笑うのでした。

「その帯の刺繍は、百花さんの所の禿さんですね。ちょうど時間が空いていますし、お送りしましょう」

「おおきに。……それにしても珍しおすなぁ、帯の刺繍だけでどこの子ぉか分るなんて」

「京の治安維持を任されている身ですから、全て把握するくらいの事はしませんと」

 島原の芸妓達の帯には、どこに属しているか分るように、それぞれの置屋毎に「紋」とも言える刺繍が施されております。

 ですが、島原の置屋の数は決して少なくはございません。普段から寝起きしている芸妓達ならともかく、京に来て数ヶ月程しか経たぬ新撰組の隊士が把握していると言うのは、かなりの努力と記憶力の賜物と申せましょう。

「……お兄はん、凄いお人どすなぁ……」

「ありがとうございます。記憶力が取り得のような物ですから」

 あやめの純粋な感嘆に、相手はふわりと笑うと、気恥ずかしげにずれた眼鏡を上げるのでした。

 その様子を見る限り、あまり好んで戦おうとする人物のようには見えません。ただ、見えぬだけであると言う事はあやめも重々理解しております。

 眼鏡を押し上げる手には、剣胼胝が出来ており、刀に置いている左手には抜刀の際に出来たらしい小さな傷が消えぬ痕となって残っているのですから。

「ああ、申し遅れました。私は山南敬介と申します。禿さんのお名前は?」

「うちは、あやめ言いますぅ。よろしゅうお頼申しますぅ」

「あやめさん……と言えば、日頃永倉君がお世話になっている禿さんですね。昨日は沖田君が可愛いと騒いでいました」

 言いながら、山南と名乗ったその男性は、ほんの少しだけ苦笑めいた表情を浮かべたのでございます。

 昨日の座敷での沖田の様子から考えて、本当に「騒いで」いたのでしょう。

 「小さい生き物」と言われるのは、齢400を越えるあやめにとって、正直屈辱ではございますが、事実なので何とも申せません。

 小さいからこそ人の警戒心が解かれているのも、事実なのですから。

「あやめさん」

「へえ? 何どすえ?」

「…………先程は、芹沢さんを慰めて下さって、ありがとうございます」

 唐突に紡がれた言葉に、あやめはきょとんと目を見開いて山南の顔を見上げます。

 いつから、どこから見ていたのか。肩を叩かれるまで気配も感じなかった事を考えると、やはり見た目通りの柔和なだけの男性では無いのでしょう。

 人の気配に敏いあやめが、彼の存在に気付けなかった。仮に山南があやめの「敵」に回っていたらと思うと、彼女の背に冷たい物が走ったのです。

「新見がいなくなった事で、芹沢さんも少しは落ち着いて下さると良いんですが……」

 小さく、あやめに聞かせるつもりではなかったらしいその一言に、彼女は鋭い棘のような物を感じ取りました。

 恐らく、他の者に対しては「さん」や「君」と敬称を付けているのに対して、新見だけは呼び捨てをしているからなのかもしれません。

――そう言えば、山南君と新見某は壮絶に仲が悪いと聞いた事があるな――

 いつだったか、原田がその様に言っていたのを、襖越しに聞いた記憶がございます。

 新見と言う人物がどう言った者だったのか、自ら首を斬ったと言う今となっては、確認のしようはございません。しかしながら、芹沢や山南の反応や、新撰組が「粛清」に向った事を考えれば、おのずとその人物が、あまり好ましいとは言えない存在であった事は想像に難くありません。

 昨夜の一部始終を覗き見ていた銀彌ですら、新見と係わり合いになるような事にならなくて良かったと、心底ほっとしたように言っていた程。

 自ら首を裂き、己の血を見て笑いながら倒れたと言う相手。亡骸は消えず、本日埋葬されると言う話でございますので、「闇の者」ではなかったのだと言う結論に達したのですが……

 それでも、何故かあやめの胸の内には、未だざらりとした感覚が残っているのです。

 そんな風に考え込んでいる内に、いつの間にかあやめと山南は置屋の前に辿り着いておりました。

「それでは、私はここで失礼します。お稽古は厳しいと思いますが、頑張って下さいね」

「へえ、おおきに。山南はんも、気をつけておくれやす」

「ありがとうございます」

 ふわりと穏やかな笑みを見せ、山南は軽くあやめの髪を撫でると、踵を返して八木邸へと戻っていったのでございました。



 欠けたる部分の無い月が、前川邸の縁側を照らし。その月を見上げながら、芹沢鴨は酒を呷っておりました。

 折角の中秋の名月であるにも関わらず、新見錦の埋葬をしたせいか、純粋に月と酒を楽しむ気にはなれません。

 それでも、昼間にあやめと出会えた事が良かったのか、荒れると言う事はございません。

 いつもは己の内で常に燻る怒りの炎も、今だけは穏やかに凪いでおりました。

 ですがそんな芹沢の心とは対照的に、秋の夜風が唐突に吹き始めたかと思うと、風が運んできたらしき雲が、(そら)に浮かぶ満ちた月を覆い隠したのでございます。月の放つ柔らかな光は雲の厚みに遮られ、周囲は寒気と闇、そして静寂に支配されたのです。

――ああ、折角の月が……――

 雲と言う無粋な邪魔が入った事に溜息を吐きながら、芹沢は手元の杯に残る酒を一息に呷ります。

 酒特有の仄かな辛味。そして喉を灼くような熱さ。一息に呷った事で酔いが回り始めたのか、芹沢の視界が、微かにぼやけるのです。

 闇が徐々に一箇所に固まり、それが人の形を為していく様に見え始めたではございませんか。

 最初は、もう酔ったのかと苦笑気味に思う程度でございました。ですが、闇がはっきりと人の姿を作り上げていくにつれ、芹沢の体に冷たい物が走ったのでございます。

 有り得ない、そんなはずは無い。そう思いながらも、芹沢はその人影から目を反らす事が出来ずにおります。

 闇が作り上げたのは、墨を流したような黒髪を持った、優男風の好青年。ですが奇異な事に、その青年の喉は裂け、そこから赤い液体が止め処なく流れ落ち、鉄錆のような臭いを周囲に撒き散らしているのです。

 ですが己の首の事など気に留めた様子もなく。「それ」は奇妙な笑みを顔に貼り付けて芹沢に視線を向けるのでございました。

「こんばんは、芹沢先生」

 裂けた喉のどこから声が出ているのか。……新見錦の姿をした「それ」は、いつも通り嫌な笑みを浮かべると、慇懃無礼な態度で一礼を致します。

 頭を下げた拍子に、彼の者の首からは、ぼたりと血が音を立てて地に落ち、紅葉とは異なる「赤」で土を染めるのでございます。

 その、あまりにも現実味に欠けた様に、芹沢は恐怖を覚えたのでございましょうか。酔いは醒め、口の中は乾き、そして己の中の血がざあっと音を立てて引いていく感覚。

 それでも、新撰組筆頭局長としての矜持からか、真っ直ぐに「それ」を睨み返すと、掠れた声で問うたのです。

「新見……貴様、死んだはずであろう!?」

「ええ。自ら首を裂きまして。……だからこそ、こうして先生の夢枕に立っているのではありませんか」

「夢、だと?」

 ニヤニヤと笑う新見の言葉をそのまま返し、芹沢は周囲を見回します。

 前川邸の縁側にいたはずなのに、首から血を流す男と自身の姿以外、いつの間にやら何一つ認識できぬ黒で染められておりました。

 前後左右は勿論、上下すらも曖昧な感覚は、夢と言われれば納得のいくもの。

 そう思えば幾分か安堵する反面、どうしてこんな夢を見ているのかと言う疑問も浮かぶのでございます。

――なんと酷い夢を見ている事か――

 芹沢の夢であるが為なのか、新見は口の端を思い切り吊り上げると、ゆっくりと芹沢に近付きながら言の葉を紡ぐのでございました。

「冷たいお方だ。私が死んでほっとした、などと」

 するりと。闇の中を滑る様にして、新見は芹沢の前に近寄ると、鼻の頭が付くほど近くまでその顔を芹沢に寄せたのです。

 瞬間、眩暈すら覚えるほど強烈な血の臭いが芹沢の嗅覚を蹂躙し、吐き出される生温かい息が体に纏わり付いて触覚を弄り、恨んでいるようで、しかしどこかそれを楽しんでいるような声が聴覚を支配し、そして血色に染まっている瞳が視覚を奪うのです。

 触れている部分は鼻頭だけだと言うのに、何者かに縛されたように芹沢の体は動かず、ただただ荒い呼吸を何度か繰り返すのみ。

 そんな芹沢に追い討ちをかけるかのように、新見はにたりと笑うと彼に囁きを落とすのでした。

「ずぅっとあなたに付いてきた私を見捨てて、今更あの甘ったるい近藤君達に擦り寄るおつもりですか? ……先生がそんなに酷い方だとは思いませんでした」

「な、あ……」

「どこへ逃げると言うんです? あなたにはもう、後が無いと言うのに」

 無意識の内に、芹沢の足は新見から距離をとろうと下がって行きます。ですが下がっても下がっても、逃がさないと言いたげに、新見は同じだけ歩を進め、芹沢を追い詰めるのでございました。

 そして「後が無い」と言う言葉をそのまま表現したかのように。急に視界が開けたと思うと同時に、芹沢の背後の地面が無い事に気付くのです。

 それはまるで断崖絶壁。しかし常ならば下に広がるのは地面か海のはずなのに、そこにあるのは底の無い闇でございます。

 揺ら揺らと蠢くそれは、芹沢が落ちるのを、今か今かと待ち構えているよう。

 そして目の前の存在は、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべ、芹沢の肩にその手を添えたのです。

 ……彼を、下へ突き落とす為に。

 そうだと気付いた時には既に遅く。トン、と言う軽い音と共に芹沢の身は宙を舞い……

「もう、闇に堕ちるしかないんですよ。先生」

 耳元で楽しげに響いた声に。

 芹沢が落ちながら感じたのは……誰かに対する「怒り」でございました。



 月は欠け、空に浮かぶは17日目の立待月(たちまちづき)。それを、いつもの「縁屋」ではなく「角屋」の廊下から眺めながら、あやめは追加の銚子を運んでおりました。

 今宵水菊を呼んだのは、芹沢鴨。彼は永倉を同行者に選び、水菊と他数名の芸妓を呼び、かなりの速度で銚子を空けておりました。

 慣れぬ店の中、禿であるあやめは右往左往しつつ、他の禿と協力しながら酒を運んでいたのでございます。

――酒が好きな男だとは聞いていたが、ここまでとは――

 半分呆れながらも、あやめが水菊の入る座敷の前に着いた、刹那。ゴッと言う鈍い音が中から響いたかと思うと、次の瞬間には襖を破って一人の芸妓が文字通り飛んできたのでございます。

 それが、水菊と共に呼ばれた芸妓の1人であると気付くと同時に、今度は切羽詰ったような永倉の声が飛んだのです。

「水菊さん!!」

「きゃあっ!」

 永倉の声に被るようにして、バシンと言う大きな音と、水菊の悲鳴が同時に上がったのでございます。

 飛んできた芸妓を助け起こしながらも、何事かと思い中に目をやれば。

 そこには、顔を真っ赤に染めて仁王立ちになっている芹沢の姿がございました。顔に浮かぶのは鬼神が如き憤怒の表情。

 芹沢の周辺は、あやめが到着するまでに大暴れでもしたのか、食器の類はひっくり返り飾ってあった掛け軸は破られ、そして芸妓達は皆苦しげに呻いているではございませんか。

「俺は! 新撰組筆頭局長、芹沢鴨であるぞ! 俺の言う事が聞けんと申すか!?」

 びりびりと空気を震わせて発せられた怒声に、中にいた芸妓をはじめ、周囲の座敷にいるらしき者達も緊張しているのが伝わります。

「芹沢さん! いくらなんでも今回のは無茶だって!」

「黙れ、永倉!! 一介の隊長格が、局長であるこの俺に指図するか!?」

「指図じゃない、一般論だって!」

「喧しい! 貴様など……壊れてしまえ」

「がっ!?」

 必死に宥めようとする永倉にさえも、芹沢は持っていた黒ずんだ色の鉄扇を振り下ろしてその頬を勢い良く張り、その勢いに負けた永倉の体が軽く飛んで床に叩きつけられます。

 恐らく他の芸妓達も同じ様に鉄扇で殴られたのでございましょう。男である永倉すら飛ぶ程の衝撃なのですから、芸妓が吹き飛ぶのは当然と言えましょう。

――酒乱、とは聞いていたがこれ程の物か!?――

 同じ事を水菊も思ったのでございましょうか。ゆっくりと身を起こしながらも、彼女は芹沢に真っ直ぐな視線を送ったのでございます。

 睨むと言う訳でもなく、哀れむでもなく。どちらかと言えば呆れの混じったような視線。あやめにはそう見えた視線を、しかし芹沢は睨んでいるとでも見えたのでございましょうか。ひくりとこめかみをひくつかせると、再度水菊に向って大きく鉄扇を振り上げたのでございます。

「何だ、その反抗的な目は。まだ仕置きが足らぬか!? ならば望み通り、徹底的に破壊してくれる!」

「菊!」

 芹沢の鉄扇が振り下ろされたのと、あやめがその線上に飛び込んだのはほぼ同時。

 彼女は芹沢と水菊の間にその身を滑り込ませると、自身が持つ普通の扇を使って芹沢の鉄扇の軌道を反らし、睨みつけるように芹沢の顔を見上げるのでございました。

「…………お姉さん達や永倉はんへの乱暴、これ以上は堪忍しておくれやす」

「小娘、貴様も俺の邪魔をするか」

 その言葉、向けられた視線、そして先程ずらした鉄扇その物の存在に。あやめははっと息を呑みました。

――彼は私を……いや、この場に居る全ての者を認識していない。それどころか……――

 向けられている視線はどこか虚ろ。「見えてはいる」のでございましょうが、「見ている」とは言い難いような印象。

 それは、大切な「何か」を失った者特有の瞳である事を、あやめは存じております。

 大切な人、大切な物、大切な感情。いずれかを失い、自身に失望し、世を疎ましく思った人間が浮かべる彩。そして、その彩を浮かべる者の末路もまた、彼女はよくよく存じておりました。

――この数日で、何が起こった。何故、気付けなかった――

 ギシリ、と悔しげに奥歯を噛み鳴らしつつも、あやめは極力抑えた声で言葉を紡ぐのでした。

「芹沢はんの邪魔はしてまへん。うちは、うちのお仕事をしているだけどす」

「何ぃ」

「うちの……禿のお仕事は、お姉さんのお世話どす。お世話の中には、お姉さんを怪我させん事も含まれとります」

「ならば、小娘。……貴様がまずは壊れるか!?」

 言葉と同時に、芹沢が繰り出したのは……鉄扇ではなく、蹴りでございました。

 てっきり鉄扇が来ると思っていただけに、反応の遅れたあやめの鳩尾に芹沢の足が綺麗に入り、彼女の小さな体は、壁に激突するまで勢い良く飛ぶのでございます。

「うっ……」

「弱き者が壊されるのを見るくらいならば、この俺が壊すまで。破壊が呼ぶ先が見たい。滅亡なのか……再生なのか」

 体をくの字に曲げ、ゲホゲホと咳き込むあやめに近寄ったかと思うと、芹沢はゆっくりと鉄扇を振り上げながらそう呟いたのでございます。

 相変わらず、何も映さぬ瞳を、彼女に向けたままで。

 しかし彼女は、それをじっと見つめると……口元に、ふと不敵な笑みを浮かべ、芹沢の目を真っ直ぐに見つめ返したのでございます。

 そして、芹沢の鉄扇があやめの頭めがけて振り下ろされたその時。

「…………君には出来まいよ」

 芹沢の鉄扇を反らそうともせず、あやめは斯様な呟きを落としたのです。

 その声を聞いた瞬間、芹沢は振り下ろした鉄扇をあやめの頭に当たる直前で止め、まじまじとあやめの顔を見返すではございませんか。

 見つめ返す芹沢の瞳がゆらりと揺れ、それまで何も映さなかった瞳が、徐々に「あやめ」と言う存在を認識し始めたのです。

 まるで今まで焦点が合っていなかったかのように数回瞬きを繰り返し……

「……あやめ? 俺は、今何を……」

 ようやくその目があやめを映したのでしょう。芹沢は心底不思議そうな表情を浮かべて周囲を見回し……そしてその惨状で、己のした事を思い出したのでございましょう。

 再度顔を真っ赤に染めて怒りの形相を浮かべると、あやめにくるりと背を向け……

「興が冷めた。帰る」

 短く、吐き出すようにそう言うと、芹沢はそのまま座敷から出て行ったのでございます。

 それまで場を支配していた緊張感が、ようやく緩み。それまで呆然と見ていた芸妓達は、今更のようにガタガタと震えだし、水菊と永倉は心配そうな表情であやめに駆け寄るのでした。

「あやめちゃん、大丈夫どすか? お怪我は!?」

「本当にすまない。芹沢さん、ああいう人で……不快だっただろ?」

「……菊に怪我を負わせた事は許し難いが、それはこの際横に置いておこう。問題はそこではない」

 俯き、どことなく震える声で。あやめはそのまま、言葉を続けます。

 永倉にとって……そして彼女にとっても、信じたくない言葉を。

「非常に言い難い事だが……芹沢鴨は、『闇の者』へと堕している」

 彼女のその言葉に、一瞬だけ沈黙が降り……しかし直後、永倉は慌てたように声を上げるのでした。

「ちょっ、ちょっと待ってくれ。そりゃあ、確かに言動に難のある人だけどさ、見て分るだろ? 芹沢さんはごく普通の人間だぜ? この前の『鬼女』や、『闇の腕』なんかとは全然違う!」

「人から堕した者は、確かに異形と化す事が多い。しかし、稀に人の形を保ったまま『闇の者』に化す存在もいる」

「じゃあ、根拠は!? 何を以って、芹沢さんが、そんな……」

「只人には見えんだろうが、彼は鉄扇に闇を纏わせ、威力を……破壊力を上げていた。皆がこの程度で済んだのは僥倖と言う他無い」

 僥倖と言いながらも、あやめの口調はいつもの淡々とした物ではなく哀しげで……だからこそ、永倉は知るのです。

 彼女の言葉に、偽りが無い事を。

 そして、彼女自身がそれを止められなかった事を悔んでいる事も。

「殺す、のか?」

「そうだ。既に彼の時は止まってしまっている。ひどく残念な事ではあるが、あまり長くは放置出来ん。……彼の為にも」

 襖が吹き飛んだ事で見える立待月を見上げながら。

 あやめはきつく拳を握って、苦しげにそう宣言したのでございました。


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