その3:文久三年、文月-弐
島原が一画、揚屋の「縁屋」。
中秋の名月まであと少しと言うその日、その座敷の一室では、今宵は一風変わった客が、一風変わった騒ぎ方をしておりました。
座敷におります「客」は、常連の永倉新八と、彼の同僚らしき2人の青年。
永倉がここにいるのは、既に日常茶飯事と化している事ですが、変わっているのは彼に付いて来た者でございました。
一方は眉間に皺を幾つも刻んだ、永倉より2、3年上と思しき青年。島原に来ているにも関わらず、あまり酒を召さず、また芸妓である水菊の舞にも興味無さそうな表情を浮かべ、窓辺で煙管をふかしております。
そしてもう一方は先日永倉と共に来た藤堂平助と同い年くらいの青年。こちらは藤堂に比べて背がやや高く、人並みにこの座敷を楽しんでいる様子でございました。
苦虫を噛み潰したような顔をしている年長者とは対照的に、最年少の青年はその腕の内に、芸妓の水菊……ではなく、それに付いてきていた禿のあやめを抱きかかえ、幸せそうな表情を浮かべているではございませんか。
「ちっちゃい! 可愛い! 何この生き物、腕の中にすっぽりとか、凄まじく可愛いよ新八さん!! 何で今までこんな可愛い生き物紹介してくれなかったの!? 歳三さんもそう思いますよね!?」
「……思わねぇよ」
「まあ、あやめちゃんが可愛いのは認める。……だがな、総司。普通は芸妓の姐さんとか、酒とかを楽しむ場だと思うんだよ、島原って」
「まあ、少なくとも禿のガキを抱きかかえて可愛がるような場所じゃぁねえな」
ぷかりと煙を吐き出しながら、歳三と呼ばれた年長者は、冷たい視線を総司と呼ばれた青年に送るのでございます。
年長者の方の名は土方歳三。新撰組の「鬼の副長」と名高い一方で、その端正な顔立ちから京の街の女性にも人気が高く、こと島原においては、1度は彼に呼んでもらいたいと言う芸妓も数多く存在している中、本人は全く意に介せず、「仕事の鬼」とさえ言われております。
そしてあやめを抱え、ずっと頬擦りしている彼の名は沖田総司。永倉同様、新撰組の幹部隊士であり、腕も隊の中で1、2を争うとさえ言われております。隊の中では無類の子供好きとも言われ、よく近所の子供と遊んでいると言う話を耳にするのでございますが……
「歳三さん! この子屯所に連れて帰りましょう! 可愛いです!」
「あ? 駄目に決まってんだろうが。何言ってんだ寝言は寝て言え」
「えぇぇぇぇぇぇぇっ!? 何で駄目なんですか歳三さぁん。こんな可愛らしい生き物、連れて帰らないなんて罪ですよ、罪!! 局中法度に反します!」
「いや、むしろ連れて帰る方が局中法度的に不味…………おい総司! お前少し力緩めろ! あやめちゃん死ぬからっ!」
「あ」
永倉に言われて見下ろせば、沖田の腕に囚われているあやめは、顔を蒼白く変色させて白目を剥き、更には口から小さくも苦しげな声を漏らしております。
そこでようやく自身の腕に込めた力が強すぎた事に気付いたのでしょう。沖田はさっと顔を青褪めると、即座にあやめの体を放したのでございました。
「うわぁぁぁん、ゴメン! 僕、加減を知らないからつい!」
「ほ……本気で殺されるかと……思いましたえ?」
解放された事でようやく全身に血と酸素が行き渡ったのか、あやめは畳に膝を付くと、ゲホゲホと咳き込み、涙目で沖田を見つめながら言葉を返すのでございます。
無論、「闇の者」である彼女の体は、通常の禿よりは頑強に出来ております。しかしながら、それでも身体は見目通りの童女である事には相違ございません。大の大人……それも日頃より鍛錬を積む、新撰組の幹部格の男に力いっぱい抱擁されれば、呼吸困難にもなろうと言う物。
あやめが置かれていた状況は、「死にはしないが、死ぬほど苦しい」と言えましょう。
「本当にごめんね。ちっちゃい生き物を見ると、我を忘れちゃうんだよ、僕」
はは、と照れたように笑いながら、沖田は未だ咳き込んでいるあやめの頭を軽く撫でて言うのでした。
恐らく彼にとって、あやめの存在は犬猫と同じ様な感覚なのでございましょう。
「いや、いつも加減を知らねぇだろ、お前」
「あ、歳三さん酷い。加減してるから、いつもちゃんと不逞浪士を斬らずに生かしているんじゃないですか。何も考えずに殺していたら、新見さんと同じです。それは先生にも敬介さんにも嫌われるので、しません」
紫煙と共に吐き出された土方の言葉に、沖田は頬を膨らませながら答えを返します。
その言葉……正確には「新見」と言う名に反応したのか、舞を終え、永倉に酌をしていた水菊が軽く眉を顰めたのでございました。
「こんな事、新撰組の方に言うのは良くないてわかってますけど……新見はんて、島原でも有名な乱暴なお方どすやろ? 一緒にお稽古習ぅてる子ぉが、昨日も新見はんに殴られたぁ言うて頬を腫らしてましたえ」
その水菊の言葉を聞いた瞬間。客である3人の纏う空気が、ピンと張り詰めたのでございます。
その事に気付きながらも、そこは島原の人間。彼らの放つ緊張感に気圧される事なく、いつも通りの艶やかな表情を浮かべ、水菊は他の2人にも酒を注ぎ、あやめも座敷の隅で空いた徳利の数を数えるなどして、それに気付かぬフリをするのでございました。
花街は様々な情報が集る場所。ですがそこに住まう者達が、自分でその情報を生かすような事は滅多に致しません。それは彼女達が、芸で身を立てている者だからと言うのもございますが、それ以上に情報が持つ恐ろしさを知っているからでございます。
見知った情報を生かすも殺すも己次第。生かせば花街と言う苦界から逃れる術にもなるやも知れませんが、大抵の場合は失敗して己に返ってきてしまうのです。
失敗の代償は様々ですが、それがどんな物であれ、割に合わぬ事は明白。
島原の外の事には首を突っ込まず、相手が誰であれ聞かれた情報は小出しにする。それが花街と言う名の「檻」の中で生きるヒトの、暗黙の掟。
その事は永倉達も存じているのでしょう。気付かぬフリをしている水菊に視線を向け、さりげなさを装いながら問いを投げたのでございます。
「なあ水菊さん。それはどこでの話か分るか?」
「へぇ、祇園新地にあります、『山緒』言う料亭の前やて聞いてますぅ」
「『山緒』か……」
苦いのは煙草か、それとも水菊の言葉か。
彼女の答えに、土方は更に苦々しい表情を浮かべ、再び煙と共に言葉を吐き出すのでございます。
「……芸妓さんが殴られたのが昨日と言う事は……まだそこにいるかもしれませんね」
「ああ。総司、永倉。戻るぞ」
「了解。……悪いな水菊さん、あやめちゃん。折角置屋から来てもらったのに」
「はぁい。またね、ちっちゃい生き物ちゃん」
土方の短い命令に返しながら、永倉は申し訳なさそうな、そして沖田はどこか楽しそうな表情を浮かべ、それぞれ座敷から去っていくのでございました。
その背を見送りながら。あやめは何か、奇妙な予感めいた物を覚えるのでございます。
胸焼けのような、眩暈のような……嫌な感覚を。
「……銀」
己のその感覚を信じたのでしょうか。彼女はすっと窓辺によると、呟くような声で銀彌の名を呼んだのでございます。
常人では聞き取れぬであろうその声は、しかし窓の下、「縁屋」の入り口に立っていた銀彌の耳に届いたのか、彼は声に応える様に顔を上げると、そのままひょいと座敷の窓の外……日除け代わりの屋根の上へと飛び上がったのでした。
「どうした、お嬢?」
「恐らく、新撰組は新見某を処刑する気だろう。……悪いが『山緒』に行って来てくれないか?」
「それは構わねぇけど……」
「お姉ちゃん、何ぞ気になる事でもありますのんえ?」
帰り支度を整えながらも、あやめの言葉を聞いていたのでしょう。水菊が不安そうな目で彼女の顔を覗きながら、口ごもる銀彌に代わる様に問いを続けるのです。
それに対し、あやめも軽く眉を寄せ……
「……念の為だ、新見某の『死亡』を確認してきて欲しい」
「それってつまり……新見はんが、『闇の者』かも知れんて事どすか?」
「あくまで私の予感だ。確証は無い」
水菊に返したあやめの言葉に、銀彌はふと口の端を吊り上げ……
「了解。オレはお嬢の番犬だからな」
そう短く言葉を返すと、そのままくるりと背を向け、長身からは予想も付かぬ身軽さで屋根から屋根へと飛び移り……あっと言う間にその姿は見えなくなったのでございます。
その様は、天領のお庭番もかくやと言わんばかりの速さ。残っているのは彼の持つ銀の髪が弾いた小望月の光の軌跡のみ。
――杞憂であれば良いのだが――
心の内で呟きながら、晴れぬ表情で闇に消えた銀彌を見送るのでございました。
永倉達が「縁屋」を出てから数刻後。
料亭「山緒」の一室は、噎せ返る程の血の臭いに満ちておりました。
踏み込んだ時には既に幾人かの浪士が血に塗れて息絶えており、その真ん中では返り血に塗れた新見が、高らかな笑い声を上げて立っていたのでございます。
その彼が、踏み込んできた者……土方、沖田、藤堂、原田、そして永倉の姿を見止めると、特に驚いた様子もなく、いっそ穏やかさすら感じる笑みを浮かべたのでございます。
「こんばんは。君達も遊びに来たのですか? しかし申し訳ありません、既に獲物は全て狩ってしまいました」
獲物と言うのは、彼の足元に転がる数多の亡骸の事でございましょうか。新見はニマリと奇妙な笑みを浮かべながらも、傍に転がる亡骸の顔を軽く蹴って、彼らの方へと向けたのでございます。
向けられているのは苦悶に満ちた表情。嬲り殺しにされたのか、腕は助けを求めるように前に伸びてはいる物の、どの亡骸も肘から先はそこから離れた場所に散っております。
彼らの足も、膝から下は別の場所へ切り離されており、部屋の隅で山と積まれているではございませんか。
不逞浪士とは言え、ここまでされなければならぬ理由は無いはず。更に言えば、新見の足元に積まれた屍の山が不逞浪士であると言う確証もない。もしかすると、ただの浪人であった可能性は否定しきれないのでございます。
そんな残虐な振る舞いを起こした彼に、何を思ったのか。新見を除く皆の面から、表情らしい表情が消え、その代わりに体から殺気を迸らせるのでございます。
「……獲物、ねぇ。それならまだいるぜ。……あんたがよぉ」
槍を構え、真っ直ぐに相手を見やりながら原田が言い。
「やっぱり俺、新見さんとは話が合わないや」
刀を抜き、揺ら揺らと上半身を揺らしながら藤堂が呟き。
「僕は平助とちょっと違うかな。新見さんって、いつも血の臭いをさせてるから……嫌いだよ」
柄に手を当てたまま、沖田は小さく吐き捨て。
「イカレてる、と言った方が良いんだろうな。あんたの場合」
鞘に手を当てた状態で、永倉が苦々しい声を出し。
「……新見錦。局中法度に背いたとして処分する。其処もとの罪状は『士道不覚悟』。今ここで切腹するか、それとも斬首か。好きな方を選べ」
そして仁王立ちになっている土方が、事務的に告げたのでございます。
一方で告げられた方は……何故か嬉しげに目を細めると、くつくつと喉の奥で笑い……
「やれやれ。もう少し勝手気儘にやれるかと思っていたんだけどねぇ……残念、ここまでと言う事か」
己が手に付いた「どこかの誰か」の血を軽く舐めながら、彼は恐れた様子も見せず、ただ楽しげにそう言ったのでございます。
手に持っている刀を構える様子もなく、まるで悪戯を怒られた子供のように、ひょいと肩を竦めて。
「新撰組は、あんたの玩具じゃねぇんだよ」
「いいや。玩具だよ。私が血を見る為に存在する玩具だ」
ニィと口と目を弓のような形に歪ませながら、新見は土方の言葉にそう返します。
その顔は、永倉の言う通り「イカレている」と表現するのが最も相応しいと思える程の歪み具合。返り血に塗れているせいなのか、余計にそう見えるのかもしれません。血を見る事を「遊び」と称すその様は、永倉が見てきた「闇の者」……「堕人」を連想させます。
ですが、永倉が出会ってきた「堕人」のように理性を失しているようには見えません。理性がありながらも、血を好む。典型的な辻斬りと言っても過言では無いでしょう。
ただ性質の悪い事に、その「辻斬り」が公的に認められる組織である「新撰組」に属していると言うだけで。
「ま、良いさ。充分遊んだと言って良い。それじゃあここらで、君らの望み通り、新見錦の人生の幕引きとしようかな」
それと同時に、彼は手の中にある刀を何の躊躇いもなく付きたてたのでございます。
……己の首に。
「……自分で、首を斬ろう。ごんな風に……ね」
首に対して垂直。真正面から見て漢数字の一を書くかのように突き刺された刀。
よもや自身の首を貫くとは思っていなかったのでございましょう。土方達はぎょっと目を見開き、口の端から血を流す新見の顔をまじまじと見つめる事しか出来なかったのでございます。
刀は完全に彼の気道を貫いており、そのまま前に押し出せば、確実に頚動脈を断ち切って彼の中に流れる血潮を噴出させる事でしょう。
それでも新見の顔に浮かぶ狂気めいた笑みは、消えるどころかますます楽しげに歪むのです。
――自分で、自分を……斬首するって言うのかよ……!?――
切腹か、斬首。選べと言ったのは土方でございましたが、通常「自害」と言えば切腹が主。戦国の世では非力な女は喉を突いたと言われておりますが、それでも「斬る」訳ではございません。
その異様な光景に、身じろぎ1つ取れぬ面々に向かい、新見はこれでもかと言わんばかりに目と口を細め……そして一息に、刀を前に押し出したのでございます。
瞬間、彼の首から紅い水が吹き上がって天井を濡らし、その主は背後に倒れながらも、その「紅」を恍惚の表情で見やり……
「ああ……実に美じい……血の色だ……」
倒れる直前。
そう呟いて……新見錦は動かなくなったのでございます。
……文久3年、文月の14日の事でございました……
新見錦が亡くなった翌日。
「お使い」と言う名の「散歩」に出ていたあやめは、またしても新撰組の屯所である前川邸の前を歩いておりました。
深い理由があった訳ではございません。単純に帰り道だったと言うだけでございます。
無論、新見の死が新撰組に及ぼす影響が気になった事は確かでございますが、所詮は組織内の問題。あやめが気にしたところで、何があると言う訳でもございません。
そして、前川邸の前を通り過ぎようとした瞬間。彼女の前に、大柄で体躯の良い男性……芹沢が姿を見せたのでございました。
互いに互いの存在を認識していなかったのでございましょう。一瞬ぎょっとしたように目を見開き、しかし次の瞬間には、やはり互いにふと目元を緩ませて挨拶を交わすのでございました。
「おお、童……確か名はあやめ、だったか。久しいな」
「お久しゅう、芹沢はん。……どないしはりましたん? 何ぞ顔色、悪いどすえ?」
見上げた先にある芹沢の顔は、以前出合った時とは比べ物にならぬ程、精彩を欠いておりました。
目の下には隈、顔は土気色。一応食事は取っているのか、頬がこけていると言う事はございませんが、足元は随分とふらついております。
酔っていると言う可能性も無くは無いのですが、あやめの鼻には酒気を感じ取る事は出来ません。
純粋に、ふらついているのだと理解すると、彼女は心配そうに声をかけたのでございます。
「何か、悩み事どすか? うちで良ければ、相談に乗りますえ? これでも島原の女、口は堅い方どすえ」
「……俺の腹心である新見君が、昨夜……亡くなった」
「……切腹されたて、聞いてますぅ」
「流石に、島原の女。情報が早い」
彼女の言葉に何を思ったのか。芹沢はポツリと、吐き出すように言の葉を紡ぎだすのでございました。
新見が「亡くなった」と言うのは、あやめも聞き及んでおります。そして新撰組の公表している「切腹」が事実では無い事も。
自害は自害でございますが、実際は己の首を切り裂いたのだと、昨夜「山緒」に潜ませていた銀彌からそう報告を受けております。
「俺の腹心だ。本来なら、その死を嘆き、悲しむべきなのだろう。……だがなあやめ、俺はそうは思わなかったのだ」
前川邸に入り、その縁側に向いながら。
彼はあやめにだけ聞こえるような小さな声で、独り言のように言葉を続けるのです。
「俺はそれを聞いた瞬間…………ほっとした」
縁側に座り、そして自身の膝の上にあやめを座らせて。彼女の髪を軽く撫でながら、芹沢は暗い表情で呟きを落とすのでございます。
一方であやめは、何も言わず、芹沢の為すがまま、その声に耳を傾けます。
聞いてくれているだけで充分なのか、芹沢は何の反応も返さない彼女を不快に思うでもなく、ぽつぽつと、降り始めの雨のように断続的に言葉を漏らし続けるのでした。
「酷い話だ。腹心、腰巾着、そのように扱っておりながら、俺は心の中で彼の存在に恐怖していた。だから、だろうか。……死んだと聞いた時に感じたのは安堵だ」
そう言って、あやめと初めて出会った時に見た新見の笑みを思い出したのか、芹沢は一瞬だけその身を震わせると、きつく目を閉じて瞼の奥に潜む幻を、耳の奥に残る厭らしい声を、消し去ろうと頭を振るのです。
既にこの世から消えた、亡霊だと自身に言い聞かせて。
それでも、そう言い聞かせる自分に後ろめたい物を感じているのでしょうか。芹沢は弱々しい笑みを浮かべると、どこか自嘲めいた色を含んだ声で、言葉を吐き出すのです。
「…………俺が壊れる前に、奴が壊れてくれて……嬉しいとさえ思ってしまった」
そこまで聞いて。あやめはようやくその口を開いたのでございました。
「……ほっとしてるの、悪い事やて思うてはるんどすか?」
「それはそうだろう。死者を貶めるような真似はあってはならないと、俺は思っておる。仮に表面だけであったとしても、俺を慕っていた相手なら、特に」
「そうやって背負い込んでたら、ぽっきり折れてしまいますえ? それこそ、芹沢はんが壊れてしまうよぉな気ぃがします」
ぽんぽんと、今度はあやめが芹沢の頭を撫でながら、言葉を返します。
芹沢が見た彼女の顔は、優しげで……しかしそれでいてどこか寂しげな、何とも言えぬ表情。それは、およそ齢10の子供が浮かべられる物ではなく……酸いも甘いも噛み分けた者が浮かべるそれであるように見えるのでございました。
「怖い物が無ぅなったら、ほっとするのは当たり前の事どす。少なくとも、うちはそうや。だから、少なくともうちは、芹沢はんの事、怒ったり責めたりしまへんえ」
相手の方が子供なのに、まるで自分の方が子供に返ったかのような錯覚に陥りながら、芹沢は彼女の言葉を噛み締めます。
子供ゆえに真っ直ぐな様にも、茨の人生を歩んできたが故の様にも聞こえる、その言葉を。
――怖い物がなくなったら、ほっとするのは当たり前、か――
「そうか……そう、だな。少し、気が楽になった」
そう言うと、芹沢はふと口元に柔らかい笑みを浮かべて、彼女の髪を再度撫でるのでございます。
そして、自身の膝から彼女をゆっくりと下ろすと、どこか晴れやかな表情で立ち上がり……
「今日は新見君を埋葬せねばならんので、送れんが……また遊びに来い、あやめ。八木の子供も、お前と遊ぶのを楽しみにしておった」
「へえ。また、是非に」
芹沢の言葉に、ぺこりと頭を下げ……そして、あやめは「縁屋」へと戻って行くのでございました。
……そんな彼女の後姿をじっと見つめる何者かの気配に、全く気付く事なく……