その2:文久三年、文月-壱
文久3年、残暑の厳しい長月の頭の昼下がり。
買い物帰りのあやめは、図らずも永倉のいる壬生浪士組……いえ、「新撰組」の屯所の前を通りがかったのでございます。
「八月十八日の御政変」と呼ばれる、会津、薩摩の二藩を中心とした公武合体派と呼ばれる面々が、京や朝廷に蔓延っていた、長州藩をはじめとする尊皇攘夷派の面々を追放すると言う大きな事件が、「鬼女」を倒した数日後に起こったのでございます。
それに際し、「会津藩お預かり」と言う立場であった浪士組も、会津藩側として参加。その際の功績を認められ、「新撰組」なる名を会津公より賜ったのだと聞いております。
「ようやく永倉君達も認められたと言う事か。……だが、400年ぶりの激動の時代。幕府が、そして新撰組がそれを乗り越えられるかまでは……流石に読めん」
微かに眉を顰めつつ、彼女はそう小さな呟きを落とすと、己の置屋に向って再度歩を進めるのでございました。
彼女の言葉で察せられるとは存じますが、あやめは見目こそ10やそこらに見えますが、その実400年を越える年月を渡っております。
生まれながらの「闇の者」達は、ある程度までは人と同じ様に歳を重ねるのでございますが、その成長……「時間」が止まるのでございますが、あやめの「時間」が止まったのは今の見目の通り10の頃でございました。
それ故、彼女はこれ以上成長する事はなく、その事が彼女の唯一の悩み。
――止まるなら、もう少しこう……菊のような大人の女になってから止まれば良かった物を――
等と、いつも己の侘しい体を見下ろしながら思うのでございます。
子供であるが故に得をする事も多々ございますが、そこはやはり女性と言うべきでしょうか、女らしい体つきに憧れを抱くのは、致し方ない事と申せましょう。
何よりも不便なのは、成長しない事を怪しまれぬよう、定期的に彼女と関わった者の記憶を改竄しなければならない事でございます。
生まれながらの「吸血鬼」である彼女には、ヒトにあらざる者特有の特異な力が、幾つか備わっております。そのうちの1つは満月の夜にのみ行える「変身」。そして別の1つが「他人の記憶操作」でございました。
「いつまで経っても子供のまま」、「少量とは言え人の血を啜って生きる者」……それらの「事実」は、何も知らぬ者にしてみれば不気味極まりない出来事。そして人間は己の理解を超える者に対して、とことん無慈悲な仕打ちが出来る生物でございます。
いくら人間を護ろうとも、気味悪がられる事は彼女とて本意ではございません。故に、彼女は一部の例外を除いて、定期的に島原に住まう者達を中心に彼らの記憶を改竄。常に「あやめは数年前に島原に売られた禿」と思い込ませるようにしているのでございます。
一部の例外と言うのは、彼女の事情を知り、その上で彼女を受け入れてくれる者……姉芸妓の水菊や、置屋の「母」である百花、そして新撰組の永倉などがそれに当たります。
他にも稀に、「記憶操作を受け付けない者」もおり、あやめも過去に幾人か、そう言う体質の人間と出会っております。置屋の男衆である銀彌も、この「記憶操作を受け付けない者」でございます。
――何にせよ、子供のままと言うのも厄介な事だ――
ふぅと深い溜息を吐き出しながらも、彼女はころころと下駄を鳴らしながら新撰組の屯所が1つである八木邸の前を通り過ぎ、更にその隣に建つもう1つの屯所である前川邸の前に差し掛かったその時。
「おい、そこの童、こっちに来い」
前川邸の中より、低く威厳のある声が響いてきたのでございます。
その声の方を向けば、そこには齢30後半頃、大柄で体格の良い男性が不敵にも見える笑みを浮かべ、手に持つ鉄扇で誰かを招いております。前川邸にいると言う事は、家人なのかあるいは新撰組の関係者か。腰に差している刀や、彼の持つ威厳から鑑みるに、恐らくは後者でございましょう。
彼の足元には、幾人かの子供がわらわらと群がっており、彼の人物の体を、まるで相撲でも取るかのようにぐいぐいと押しております。それでもピクリとも動かぬのは、流石と言うべきでございましょうか。
とは言え、あやめには彼の人物に呼ばれる理由がございません。自分の他に誰か子供でもいるのかと思い、きょろきょろと周囲を見回しますが、彼女の周囲には子供どころか猫の子一匹おりません。
「……うちの事どすか?」
きょとんとした表情を浮かべ、思わず問うたあやめに、彼の人物は鷹揚に頷きを返すと、持っていた鉄扇をバチンと鳴らして広げ、楽しげな表情を浮かべるのでした。
「そうだ。その格好から察するに、島原の禿か。使いの帰りか?」
「へえ、そうどす」
「そうかそうか。良し、ちょっと遊んでいけ」
――何がどう「良し」なのだ?――
「早よ帰らんと、お母さんに叱られてしまいますぅ」
心の中で冷静なツッコミを入れながらも、面では困ったような形を作ってやんわりと断りを入れます。
しかしながら、相手はその困惑の表情など意に介さぬかの如く、はっはっはとその大きな体を揺すって高らかに笑い飛ばすのでした。
「なぁに、叱られるようなら、俺が一緒に謝ってやる。子供は遊ぶのが仕事だ」
「芹沢ぁ、今度はかくれんぼしよーぜ!」
「おぉ、構わんぞ。では、俺が鬼をやろう。……ほれ童、お前も早く来て隠れろ」
言うが早いか、芹沢と呼ばれたその男はあやめの体を軽々と抱き上げると、強引に前川邸の庭へと引きずり込んだのでございます。
子供とは言え、曲がりなりにも花街である島原の禿。着ている物には仕掛けと呼ばれる飾りも多く、抱え上げるには少々重く出来ております。それを軽く持ち上げたと言うのは、流石は新撰組の一員と言えましょう。
しかも、芹沢にじゃれ付いていた子供達は既に隠れ始め、芹沢も庭の真ん中であやめを下ろすと、ぽんと軽くあやめの背を叩いて隠れるように促すのでございました。
「隠れる範囲はこの前川邸の庭の中のみだ。荷物は預かってやるから、早く隠れろ」
言いながら、芹沢は半ばひったくるようにしてあやめの手の中にあった荷物を奪い、おまけにそれを抱えたまま目を瞑り、数を数えはじめるではございませんか。
――これはもう、参加せねばならんようだな――
心の中でのみそっと嘆息を漏らしながら、あやめは諦めたようにきょろきょろと周囲を見回し、己が隠れる場所を探したのでございました。
それから半刻程経ち。やや陽の傾き始めた道を、芹沢とあやめは並んで歩いておりました。
あやめの荷物は芹沢が片手で持ち、空いている手であやめの手をつないでいるその様子は、まるで親子のよう。顔に浮かぶ表情は、とても楽しげで……しかしほんの少しだけ、悔しげな色も混じっているようにも見受けられます。
それもそのはず。芹沢は最後まで、隠れたあやめを見つけ出す事が出来ず、結局は彼女に降参したのですから。
「この俺が見つけられんとは。楽しかったが、酷く悔しいぞ。他の童達も、お前を見つける事は適わなかった。……結局、どこに隠れておった? 本当に庭におったのか?」
「へえ。うち、松の木ぃの上に隠れておりましたんえ」
「なんと。木に登ったと言うのか!? はっはっは、やんちゃな禿もいたものだ」
「お母さんには内緒にしておいておくれやす」
しぃと人指し指を自身の口元に当てて言うあやめに、芹沢も目を細めて鷹揚に頷きを返します。
島原に住む女は、芸で人を楽しませる事を生業としております。故に、その身につけるべきは優美さとたおやかさ。木に登るなどと言うお転婆な真似は、そうそう致しません。
まして彼女達の着物は木登りには向いていない、華美で動き難いもの。その着物を汚しもせずに隠れ果せたと言う事は、随分と登り慣れているのであろう事は即座に察せられます。
「知ってはります? 人は、自分の目線より上って、あんまり探さんのどすえ。せやからうち、芹沢はんよりも高い場所を探して、松の木ぃの枝登ったんどす」
「成程。参考になる。今度からは上も気にするとしよう。……お前はそうやって芸事から逃げているのだな?」
「……いけずな事、言わんといて下さい。うちはちゃぁんとお稽古してますえ」
「はっはっは。冗談だ。お前が稽古をきちんとこなしているのは、握った手にある胼胝からも分る」
言うと同時に、あやめの手を握る力が、ほんの少しだけ強くなるのを感じます。しかしそれは、決して悪い印象は与えず……むしろ本当に、子を護る親のように、力強く、そして温かみのある力の込め方でございました。
一方であやめも、芹沢の手にある胼胝に気付きます。同時に、その手に残る無数の傷にも。
刀を握り、戦ってきた者でなければ斯様な胼胝は出来ません。長い年月の中、そう言った傷の持ち主を幾度となく見てきた彼女にとって、芹沢の手の感触は、どこか懐かしさを感じさせるのでございました。
「島原の女とは言え、お前もまだ子供だ。稽古も必要だが、偶には今日のように思いきり遊べば良い」
「『子供は遊ぶのが仕事』やからどすか?」
「その通りだ。そして大人の仕事は、子供の遊びを護る事だ。だが、それが出来ん大人が多い。……この俺も含めてな」
最後の一言に、暗い印象を抱いたのでございましょうか。それまで前を見ていたあやめが、訝しげに芹沢の顔を見上げるのです。
ですが、俯いている彼の顔は、夕日のせいで影になって読み取る事は出来ません。ただ、微かに悔しげに顰められた眉が、辛うじて見える程度でございました。
それ以上、何かを口に出す事は憚られたのか。2人は無言のまま、橙に染まる道を歩き……そして、彼女の住まう置屋の前まで到着したのでございます。
そこに立っていたのは、間もなく50に手が届くか否かと言った年齢の女性。地味ながらも品のある着物を着こなし、優美な立ち姿から、かつてはさぞ名の通った芸妓であったであろう事を思わせます。
艶のある表情は不安げに歪められ、そしてあやめの姿を見た瞬間、安堵の色が広がり……直後、キッと眦を吊り上げると、その女性はあやめの前で膝を折って視線を合わせ、鋭い口調で言の葉を紡いだのでございました。
「ああ、遅かったやないの。心配したんえ、あやめ!」
「ごめんなさい、お母さん」
そう。この女性こそ、置屋の「お母さん」。芸妓としての名は百花と言い、年季が明け、置屋の母となった今でもその名を使っております。
本当の名は、己が花柳界から完全に身を引く時まで使わない。その意思を貫く為でございました。
己が抱える芸妓や舞妓、そして禿達を立派に独り立ちさせる事を目的としている為、「芸事に、そして自身に厳しく、他人には優しい女性」……それが百花の人柄を示すのに最も適した言葉でございます。
その事を芹沢は知っているのでしょうか。百花に向ってばつの悪そうな表情を浮かべ、言葉を紡ぐのでした。
「すまんな女将。俺が無理を言って引き止めていたのだ。その童が悪い訳では無い。だから、叱ってやるな」
「……ふぅ。心配はしてましたけど、怒ってはおりまへんえ」
呆れの混じった溜息を吐き出しながら、今度は眉を八の字に下げて百花は芹沢に返します。
その表情に安堵したのか、芹沢はふ、と口の端を吊り上げると、もっていた荷をあやめに渡してから踵を返し……
「ではな。……童、時間があればまた来い。勝ち逃げは許さんぞ」
ひらひらと手を振りながら、芹沢はそう言って夕陽に向って歩んでいったのでございます。
普段なら燃えている様に見えるはずの道は、しかし今日に限っていやに紅く……まるで芹沢が血の道を歩み、そして芹沢自身も血に染まっているかの様に見せていたのでございました。
しかしその後姿も、やがては消え去り……それを確認するや、百花はあやめの手から荷物を受け取って己の私室に通すと、恭しく頭を下げ、そして口を開いたのです。
「……お戻りやす。まさかあの芹沢はんに捕まってはるとは、思いまへんどした。あやめ姉さん、よぉ無傷で帰って来れましたなぁ」
「彼に何かあるのか?」
「あのお人は、浪士組……いえ、新撰組の筆頭局長、芹沢鴨その人どすえ」
百花の告げたその名に、あやめの眉がピクリと跳ね上がります。直後に浮かぶのは、あまり好意的とは言い難い表情。
苦々しいような、困惑したような……そんな顔でございます。
「……『芹沢』と言うのは、どこかで聞いた事のある名だと思ったら。水無月に『角屋』を7日間の営業停止処分に追い込んだとか言う、『恐怖の筆頭局長』か」
芹沢鴨。
あやめの知る限り、その人物の悪評は留まる所を知りません。
商家に対する恐喝紛いの資金集め、大坂で起こした力士達と乱闘を起こして相手側に死傷者を出させ、先にあやめが言った「角屋」なる揚屋では、宴会の最中に大暴れした挙句7日間の営業停止処分を言い渡すと言った暴挙にまで出る始末。
間違いなく、新撰組の悪評の一端は、彼が担っていると言っても過言ではございませんでした。
「しかし、先程の彼を見る限り、そう言う事をしそうな男には思えないがな」
「お酒が入ると危ないて、もっぱらの噂どす」
酒乱と言う事でございましょう。確かに彼のあの大きな体躯では、酔って暴れた際の被害は甚大なものであろうと、容易に予想できます。
実際に「角屋」は営業停止を命ぜられております事から、噂とは言えそれ程大きな誇張は含まれてはいないのでございましょう。
そして、自身の酒乱癖を理解しているからこそ、彼は言ったのでしょう。「自分も含めて、子供の遊びを護る事が出来ない大人が多い」と。
「……ただ……これは色んな揚屋の楼主はんから聞いた話どすけど、一概に芹沢はんだけが悪い、言う訳と違うみたいどす」
「ほう?」
「勿論、芹沢はんの酒乱はとんでもない物どすけど……実は芹沢はんの腰巾着に、新見、言うお人がいてはって、このお人、見目は優男風やのに、とても乱暴なお人やて」
「……成程、芹沢君に、その新見某とやらが罪を着せている事も多々ある、と言う訳だな」
呆れたような溜息混じりに吐き出したあやめに、百花はこくりと頷きを返し……そして直後、それまで浮かべていた「あやめの協力者」から、「置屋のお母さん」の顔に変え、彼女の顔を覗き込んで言うのでございました。
「あやめ、『お説教』はここまでどす。早よ水菊のところへ戻って、支度してきなさい」
「へえ。ほんまにごめんなさい、お母さん」
ぺこりと頭を下げ、あやめもまた「帰ってくるのが遅くなって叱られた禿」を演じ……その部屋を後にするのでございました。
*
その日の夜。空に上る二日月を見上げながら、芹沢鴨は前川邸の縁側で独り酒を嗜んでおりました。
思い出すのは昼に出逢った、あやめと呼ばれた禿の少女。
幼い頃から島原と言う苦界に身を置いているのか、年齢に相応しくない、妙に老成した雰囲気を纏う彼女に、芹沢は不思議な感情を抱いておりました。
負けず嫌いである芹沢が、かくれんぼとは言え敗北を喫しながら、あまり腹が立たないのは、彼女に対して友情めいた感情を抱いているからでございましょうか。
――齢10前後の子供に対しての友情、か――
己の考えに、思わず苦笑を浮かべながらも、芹沢はぐいと酒を呷るのでございます。
――だが、何故だろうな。……悪くは無い――
ほろ酔い気分とはこう言う事を言うのでございましょうか。自然と口の端には、先までとは全く異なる種の笑みが浮かび、それにつられるように微かな笑い声も漏れるのでございました。
恐らくは、不覚にも「楽しい」と……そう思ったからかもしれません。子供達と遊んだ時間も、そしてそれを思い出して酒を呷る「今」も。
――こんなに心が和いだのは、いつ以来だろうな――
市井の噂、そして普段の彼からは想像もつかない程穏やかな表情を浮かべ、再度空の月を見上げた刹那。
唐突に、芹沢の背後から声が上がったのでございました。
「随分とご機嫌がよろしいですね、芹沢先生」
「……新見か」
振り返り、声の主を確認すれば。そこには芹沢にとって見慣れた顔の青年が、奇妙な笑みを顔に貼り付けて立っておりました。
28と聞いておりますが、見目は齢23、4。切れ長の目に、墨を流したような黒髪。一見すると優男の好青年に見えますが、着ている物には咲いたばかりと思しき赤い血の花。誰かを斬った帰りなのでございましょうか、その体からは吐き気がする程に濃厚な血の臭いが漂っております。薄闇ゆえに見辛くはありますが、おそらく顔も返り血そのままになっている事でございましょう。
新見錦と呼ばれている彼は、この新撰組の副長。元は芹沢や、試衛館派の近藤勇と同じ局長だったのですが、水無月にあった「浪士組再編」の際、彼の粗暴さ故に局長から副長へと降格させられたのでございます。しかしその後も特に気にした様子もなく、勝手気ままに振舞っては、京の街へ強請り集りを繰り返していると、芹沢は聞いております。
そんな彼の登場に気分を害されたのでございましょうか。芹沢は隠す事なく顔を顰めると、低い声で言葉を吐き出すのでございました。
「……また誰かを斬ったのか。新撰組は捕縛第一と言ったはずだが?」
「不逞浪士の抵抗が激しかったので、捕縛は無理と判断して殺しました。緊急措置と言う奴ですよ」
「君は随分と、『緊急措置』の頻度が高いようだな。……毎日では『緊急』とは言えまい」
「恐怖を植えつけるのは大切ですよ? 叛乱分子達も萎縮してくれますし。まあ、『御政変』以降、尊攘派は自棄になっているのか、こちらが新撰組をわかれば、無駄に斬りかかって来ますがね。正当防衛ですよ」
クックと喉の奥で笑いながら、新見は自身の頬に付いていた返り血を拭い、それをぺろりと舐め上げるのです。
その様子に、芹沢の肌がぞくりと粟立ちます。それは嫌悪もございますが……同時に恐怖も感じておりました。……新見錦なる男の存在を、本能的に危険だと理解していたからかもしれません。
そんな芹沢の様子に気付いていないのか、彼はさも当然のように芹沢の横に腰を下ろすと、その血に塗れた顔を彼に寄せ、囁くように言葉を紡ぐのでございました。
「甘い顔をしていらっしゃる。いつもの威厳が台無しだ。反吐が出そうな程の甘い顔をするのは、近藤局長だけで充分」
月と同じくらい細められた目は芹沢の顔をじっと見つめ、闇と同じ色をした口からはチラチラと赤い舌が蛇のように蠢き、そして近付いてきたが故に彼の体からは血の臭いが更に強く鼻腔を荒らすのです。
生理的嫌悪からか、無条件で苛立たしさを覚える新見の存在に、芹沢は反射的に持っていた鉄扇の先で、彼の額をぐいと押します。ですが、新見の顔はびくともせず、その位置に固定されたまま。
鉄扇の存在など有っても無くても変わらないと言いたげに、新見は更に言葉を続けるのでございます。
「それに、隊士の1人から聞きましたよ。今日は子供達とかくれんぼをして、1人最後まで見つけられなかったそうですねぇ。大丈夫なんですか? それって、『子供を護る』を信条にしていらっしゃる芹沢先生としては、問題では」
「……何が言いたい?」
「見つからなかった子供が、実は井戸に落ちていたら? 不埒者にかどわかされていたら? 復讐に来た不逞浪士に斬り殺されていたら? …………監督不行届き、ですよね?」
その言葉を聞いた瞬間、芹沢はその大きな体をピクリと跳ねさせます。
確かに、新見の挙げた可能性も、全く無いとは言い切れなかったはずでございます。
新撰組の屯所だから安全だと、そう思い込んでいた事も確かです。ですが、新撰組の屯所であるが故の危険も、また存在している。……その事を失念していたのは、事実でございました。
そんな芹沢の様子に満足したのか、新見は喉の奥で再度クックと笑うと、すっと立ち上がって言うのでした。
「子供を護る? ……どうせ先生は、何をしても上手く行かない星の下に生まれておいでなのですから、無駄な足掻きはお止しになった方が身の為ですよ」
「……新見……貴様、この俺を愚弄するか!?」
「おや、怒らせてしまいましたか。では、私は退散いたしましょう」
飛んでくる芹沢の怒号など気に留めた様子も無く、新見はひょいと肩を竦めると、そのままスタスタと自室へと戻っていくのでございました。
後に残されたのは、苛立たしげに酒を呷る芹沢と、彼の醸し出すピリリとした空気。そして、新見の残した鮮血の残り香。
――何故俺は、いつも上手くやれんのだ……!――
呑み始めた頃に感じていた温かな気持ちはすっかり冷え。
芹沢鴨の心に残るは、苛立ちのみでございました。
……そして、そんな彼を。
去ったはずの新見錦が、物影からこっそりと覗いておりました。
「……芹沢鴨。君は怒り狂って破壊の限りを尽すと良い。そして、堕ちてくれ。私の目的の為に」
呟く彼の顔に浮かんでいるのは、血に塗れた姿に見合わぬ穏やかな微笑。ですが言葉の中身は、決して穏やかとは言えぬ物。
「フフ。ああ、君が堕ちた後が楽しみだよ。……実に、ね」
彼のその呟きを聞いていた者はなく。唯一、空に浮かぶ道化の目のように細い月だけが、その狂った言葉を静かに聞いていたのでありました。