その10:文久四年、如月-壱
文久四年、如月の朔。麗かな陽光の下、巡視の最中であった藤堂と沖田の視界に、買い物帰りと思しきあやめの姿が入ったのでございます。
いつもは独りで歩いている彼女でございますが、今日に到っては何故か脇に白い毛並みの大きな犬を引き連れております。
「やぁ、可愛い生き物ちゃん」
「こんにちは、あやちゃん」
「まあ、こんにちはぁ、沖田はん、藤堂はん。見回り、お疲れ様どすぅ」
声をかけられた事でようやく彼女も沖田達の存在に気付いたのか、足を止めてにこりと笑うと、しゃらりと簪を鳴らして頭を下げるのです。
その横では、彼女に付いている犬が、同じ様に挨拶をするように、オンと一声鳴いたのでございます。
その声に応える様にしてその犬を見てみれば、目は吊り気味で口から覗く牙こそ凶悪な印象を持たせは致しますが、陽の光を弾く白……いいえ、白銀色の毛並みが、見る者を不思議と魅了するのでありました。
「可愛い生き物が、こんな綺麗な犬連れて並んで歩いているなんて……なんかもう、まとめて持って帰りたい」
「やめなよ、総。『持って帰りたい』とか、そう言う不穏な発言」
キラキラと輝かせた目をあやめと犬に向け、さらに両手を広げて抱きつかんとしている沖田を、藤堂は呆れの混じった表情で押し留めるのでございました。
ですが、彼もあやめが連れている犬に興味を抱いているのでございましょう。視線はその犬に固定されているのでございます。
「でもさ、総の言う通り、本当に綺麗な毛並みだよね。白って言うか、銀色で。……ねえ、あやちゃん。こいつ撫でても良いかな?」
「へえ、どうぞ」
あやめの許可を得て、藤堂は沖田から手を離すと、そそくさとその犬に手を伸ばして、その頭をそっと撫でたのでございます。
ふわりと柔らかな毛に掌が吸い込まれる心地良さと、生きているもの特有の暖かさに、図らずも藤堂は癒されていく己を感じるのでございます。
一方で犬の方も藤堂の手の感触が心地良いのか、鋭かった目をすっと嬉しそうに細め、その額を彼の手にこすり付けるのでございました。
「へぇ。強面な見た目に反して人懐っこいんだね、この犬」
「それに、ふわふわで手触り良い。……暖かいし、気持ち良いなぁ」
「でも、夏になる度に『暑いー、暑いー』言うて、ほんまに鬱陶しいんどすよ? 何年この京にいてはるんやて、毎年言うてますぅ」
夏場のその犬の行動を思い出してなのでございましょうか。あやめは心底楽しげに言った藤堂に対し、眉を顰めて言ったのです。そしてその言葉の意味を理解しているのか、犬の方はしょんぼりと頭を下げ、ウウ、と呻くような鳴き声を上げるのでした。
その仕草はまるで、仕方ないだろうと言いたげに。
「あははっ。そりゃあこんなにふさふさだったら、夏場は暑いよ。それにしても、可愛い生き物ちゃんも、綺麗な犬の方も、お互いの言葉が分るんだ?」
「まあ……このお人との付き合いは、長いどすから」
沖田の言葉に、あやめはにこにこと笑いながらも言葉を返します。
ですが、もしもこの場に水菊か百花、あるいは永倉がいたら気付いた事でしょう。彼女の笑顔の裏に潜む、疲労感のような物を。
「そんなに何年も飼ってるの? こんな綺麗な犬、見た事ないけど……」
「別に、うちが飼うてる言う訳と違うんどすえ。島原に居ついて、うちに一番馴れてる、言うだけで」
未だもふもふと犬の毛を撫でて問う藤堂に、あやめは答えを返しながらも犬の背を軽く撫でるのでございます。
ですが犬の方は、「飼ってくれているんじゃないの!?」と言わんばかりの目であやめを見上げ、そしてあやめはそんな目で見られている事を分っていながらも軽く流し……
「それに、このお人は犬と違いますんえ」
「え?」
「犬じゃないのか?」
「へえ」
驚いてきょとんと目を見開いた二人の隊士に、あやめはさも当然と言いたげに首を縦に振ると、犬……と思っていたその生物の顔を二人の方へ向け、とんでもない事を口にしたのでございます。
「このお人、狼さんどす」
にこにこと綺麗な笑顔で言ったあやめの言葉を肯定するように、その白銀の犬……いえ、狼は、同意するようにヲンと低く吠え声を返すのでございました。
確かに、狼だと言われればこの鋭い目付きも充分に納得が出来ます。狼は犬と比べて頬の筋肉が発達している為に、どうしても目が吊り上がってしまうのです。
ですが同時に、人には懐かず、群れで行動するはずの狼が、人の多い京……それも酒や白粉の匂いが充満しているであろう島原に、一匹で居ついていると言うのは、ひどく不自然なように思えるのも確かでございます。
「狼さんどすから、いつかは離れていかはるとは思いますし、群れに帰る、言う事かてありえますぅ」
あやめも当然、狼の性質を理解しているのでしょう。少しだけ寂しげに笑いながらそう言葉を紡ぐと、狼の背を撫でていた手をするりと上げたのでございます。
小さな手の感触が離れた事を、狼も寂しく思っているのでしょう。グゥ、と小さく唸り、あやめの顔を見上げるのでございました。
一方で藤堂と沖田もまた、そんな彼女達の心情に気付いているのか。苦笑めいた表情を浮かべると、狼を撫でていた時と同じ、優しい手つきであやめの髪を撫でたのでございました。
「うーん……何年も京に住み着いている時点で、その可能性は低いと思うよ」
「俺もそう思う。もし本当に群れに帰る気なら、とっくに帰ってるんじゃないかな?」
沖田と藤堂が言うと、狼はその通りとばかりに一声鳴くと、じっとあやめの顔を見上げたのでございます。
しかしあやめは、苦笑めいた表情を浮かべ……
「…………帰れるのならば、私の事など気にせず、帰れば良いと思うのだがな」
「ん? 何か言った?」
「いいえ、何にも」
あやめの漏らした呟きを聞き取る事は出来なかったのでございましょう。聞き返すように問うた藤堂に、彼女はニコリと偽りの笑みを返し、首を軽く横に振るのでした。
そんな彼女に違和感を覚えたのか、沖田は少しだけ不思議そうな表情を浮かべ、何かを言おうと口を開きかけたのでございますが……それは、あやめの言葉を信じたらしい藤堂によって遮られたのでございます。
「あーあ。もう少しこのふわふわに癒されていたいけど、俺も総も見回りの最中だし、そろそろ行くよ」
「そうだね。……それじゃあまたね、可愛い生き物ちゃん。それに、綺麗な銀狼君」
銀狼を撫でていた手を名残惜しそうに離しながら、藤堂はひらひらと手を振って歩き出し、それに続くように沖田も、どこか心配そうな表情を向けながらも京の雑踏の中へと消えていくのでございました。
そんな彼らの背を見送ると、狼は何やら不満げにあやめの顔を見上げ、低い唸り声を上げたではございませんか。
その顔を見るや、あやめは苦笑を浮かべ、素の口調で狼に向って言葉を投げたのでございます。
「何だ? その不満そうな顔は。言っておくが、アレは本心だぞ。私の事は気にせずに帰れば良い物を」
その言の葉の意味を、やはり狼は理解しているのでございましょうか。叱られた飼い犬のようにへたり、と尾を下げ、悲しそうな表情でフルフルと首を横に振るのでございました。
恐らくは、「帰らない」という意思表示なのでございましょう。そんな狼に向けて苦笑を浮かべると、あやめは一つだけ溜息を吐き……
「お前も随分と強情なものだ。まあ、そこがお前の長所でもあるのだがな」
そう言って、軽く狼の頭を撫でると、人の波を縫うようにして百花の待つ置屋へと歩いていくのでございました。
数刻後。狼との散歩を終えたあやめは、普段と同じように箒で「縁屋」の前を掃いておりました。
その周囲にあの狼の姿が見当たらない事から鑑みるに、恐らくは置屋に置いてきたのでございましょう。
あやめが一人、一心に箒を動かしていると……唐突に、自身の頭上に影が降りたでございます。いえ、影だけではございません。聞いた事のある声もまた、彼女の頭上から降ったのです。
「久し振りじゃ、いとさん。四月振りくらいかぇ?」
その声にあやめは顔を上げると、そこには昨年の暮れ頃に出会った、「箒を踏んだ男」が、ニコニコと笑みを浮かべて立っていたのでございます。
名は確か、才谷梅太郎。隠そうともしない方言から、土佐の出である事は明らかでございます。
「才谷はん? えらいお久し振りどすなぁ」
「『梅さん』と呼きくれと言うたやお?」
そう言うと、才谷は朗らかに笑いながらあやめの背をバシバシと叩くのでございます。
――掃除の途中なのだがな――
勢い良く叩かれ、迷惑だと思いつつも、あやめもまた「島原の女」。心の中では顔を顰め、迷惑だと才谷を罵りながらも、表面だけはあどけない笑みを浮かべて彼の顔を見上げるのでした。
「いやあ、藩からもんてきーやと命令が来ちゅうけれど、ほがな物は無視じゃ無視。今の日本、上のいう事を聞いちゅうばかりじゃーダメになる」
「怒られますえ?」
「気にしやーせん。ほがな狭量な藩主なら、こっちから見限るさ」
軽く笑いながらそう言うと、才谷はさも当然のように「縁屋」の中へと入っていったのでございます。
……ひょいとあやめを抱きかかえて。
一瞬の事に、あやめも目をぱちくりと数回瞬かせ、しかし次の瞬間にはきつく才谷を睨み付け、更には相手の頬に渾身の平手打ちをくらわせたのでございました。
バチン、と派手な音が響き、才谷の頬には綺麗にあやめの手形が残ります。
ですが、叩かれた才谷はただ面白そうに笑うだけで、彼女の張り手が堪えた様子は見られません。
「いやいや。はちきんないとさんじゃ。なかなか面白いぜよ」
「うちは面白くおまへん。下してください、今すぐ!」
「まあまあ。そう言わずに、ちっくと世間話をしたいばあなんやき」
「世間話なら店の前でも出来ます。ええから下してください! 今度は殴りますえ!?」
拳を固め、自身の息を吐きかけるあやめを見て、ようやく彼女が本気なのだと理解したのでしょう。
渋々と言った風に才谷は彼女の小さな体を床の上にそっと下しますと、実に残念そうな表情で彼女を見下ろすのでございました。
――本当に童女趣味なのか、この男は!――
初めて出逢った時に感じた懸念を再度思いながら、あからさまに警戒した表情で才谷を睨みつけるあやめとは対照的に、睨まれている方は相も変わらずどこか残念そうな表情を浮かべているだけでございます。
「何でほがーに睨んじゅうのか分らんけど、これ以上は嫌われたくないからの。残念やけど、ここで話そうか」
はあ、と溜息を一つ吐きだすと、才谷は近くの壁にもたれ掛かり、あやめの答えも聞かずに口を開いたのでございます。
「京にゃ狼が住んじゅう。おんしが飼っちゅう銀の狼に、壬生の狼……新撰組」
「……うちが狼はんを飼っとる事を、何故知ってはるんどすか?」
「ん? 簡単ちや。さっきおんしが狼と一緒におるがを見ちょったがから。……物陰で」
才谷はそう言うと、悪戯めいた笑みをあやめに向けたのでございます。
物陰で、というのはどこかに疚しいところがあるからなのか、と突っ込みたくなりますが、それを声にするよりも前に才谷の表情が真剣な物に変わったのです。
「やけどおんし、『黒い狼』の事は知っちゅうかい?」
「黒い狼、どすか?」
「おう。星のない夜みたいな色した狼が、一匹だけ歩きまいゆう」
黒い毛を持つ狼、というのは然程珍しくはございません。
しかし、あやめの側に控えていた「彼」ならばともかく、普通に考えれば狼が人里に下りてくる事は滅多にございません。下りてきたとしても、食料の危機に瀕した時程度のもの。確かに今は冬、如月の頭ではございますが、そろそろ梅も咲き、様々な命が芽吹いているのも事実。餌にありつけない、という可能性はごく僅かのように思えます。
そもそも、狼は犬と同じく集団で行動をする生き物でございますが、この近辺に狼の群れが住み着いているという話はとんと聞いた事がございません。では、「彼」と同じように群れからはぐれた狼なのでございましょうか。
そのように思考を巡らせていると、才谷はまるで内緒話をするかのようにあやめの耳に自身の口元を近付け、囁き声を落としたのでございます。
「その狼、ワシもちらりと見たんけんど、おんしが飼っちゅうのと良ぅく似ちゅうちや」
「似てはるて……どういう事どすやろ?」
「そのままよ。顔、体つき、それに身に纏う空気。そう言うた物が似ちゅうがじゃ。ま、狼の個体差らぁて、ワシにゃ分らん。今のもただの勘じゃ」
その言葉に、あやめは思わず自身の真横にある才谷の顔を横目で見やるのでございます。
才谷の言う通り、狼の個体差……それもぱっと見ただけの相手を区別するなど、簡単に出来る事ではございません。せいぜい、毛色の違い程度しか分からぬのが実情と言えましょう。
しかし、あやめの胸の内には何やら妙な予感めいた物が住み着いたのでございます。
――奴と似た狼……か――
何か思うところでもあるのか、あやめの表情は強張り、半ば睨みつけるように側にいた才谷の顔を見つめておりました。
その「強張った表情」が、才谷には「怒っている」と映ったのでございましょう。彼は慌てたようにあやめから離れると、その顔に申し訳なさそうな表情を浮かべ……
「うーん、はやちっくといとさんと話をしよったかったけど、怒らせてしもうたようじゃ。わりぃけど、今日はここでいぬるよ」
早口にそう言ったかと思えば、彼は宣言通り、そそくさとその場から立ち去ってしまったのでございます。
――別段、怒っていた訳ではないのだが――
思いつつも、己の表情が強張っているのは理解しているのでございましょう。口元には自嘲めいた笑みを浮かべつつ、あやめはふぅと一つ溜息を吐き出して壁に寄りかかり……
「もしも本当に奴と同じ種の狼だとすれば……少々面倒な事になりそうだな」
こつん、と己の額に拳を軽く当て、誰もいなくなった縁屋の中であやめはそう呟くのでございました。
よもやその「黒い狼」が、縁屋の外で、じっとそちらを睨みつけている事など知りもせずに……