その1:文久三年、葉月
皆様。
この度は当作品をお目に止めて頂きまして、誠にありがとうございます。
当作品にお付き合い頂くに際して、二つほどお心に留め置き頂きたいことがございます。
まず最初に。
当作品は、キーワードにもあります通り、「エセ歴史物」でございます。
歴史上の出来事などに絡めた物語ではございますが、史実とは微塵も関係ございません。あくまでファンタジーですので、「そういう物だ」と思ってお付き合い頂けましたら幸いです。
次に。
この作品は、自作の短編、「花街の闇」(N5368X)の続編に当たります。
当作品からもお楽しみ頂ける様努力は致しますが、出来ましたらそちらからお付き合い下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。
それでは、皆様の貴重なお時間、当作品に頂けましたら幸いです。
文久三年、ジイジイと蝉が鳴き、蒸し暑さも一層酷く感じられる葉月も半ばの昼下がり。
京は島原の片隅に存在する揚屋、「縁屋」から少し離れた場所にある置屋では、一人の青年がぐったりとした様子で縁側に寝そべっておりました。
その脇では芸事帰りらしき芸妓が困ったような顔で彼を見下ろし、更にその後ろには彼女付きの禿の少女が冷たい視線を青年に送っております。
「あづい~、死ぬ~、マジ死ぬ~」
「銀彌はん、毎年それ言うてはりますなぁ」
「だってよぉ、水菊姐さん。本気でこれ死ねるって。何この蒸し暑さ。京はデカい蒸篭か?」
青年の名は銀彌。齢は十七、八と言ったところでございましょうか。銀色の髪は結われずバッサリ短く切られており、同じ年頃の青年に比べて背は飛びぬけて高いように思われます。普段なら鋭く睨みつけるような目付きをしているのでございますが、今は暑さ故にその目は薄く開けられているだけでございました。
彼の仕事は置屋に住む芸妓や舞妓達の着付けの手伝いなどの力仕事や、用心棒が主。最近は尊皇攘夷を掲げる不逞の輩達の横暴かつ身勝手な要求から、彼女達を守るのが主となりつつあるのでございます。
そしてその脇に佇む芸妓の名は水菊。齢20そこらと言ったところでございますが、その凛とした佇まいとしなやかな仕草、そして顔に浮くあどけなさの残る笑み故、島原でも名の通った芸妓でございます。無論、芸も一流と呼んで差し支えない腕前で、舞うも良し、三味を弾くも良し、話も上手と、彼女に懸想する男性は数多くおります。
そんな彼女の方は、芸妓の技なのでございましょうか。酷く蒸し暑いと言うのに、その顔には汗の玉一つ浮いてはおりません。
彼女だけでなく、島原にいる芸妓や舞妓は、皆顔に汗をかかぬ術を知っております。それは、汗をかけば施した白粉や紅が流れ、みっともないが故に編み出された技と言っても良いでしょう。
現に水菊の脇に佇む禿の少女も、漆黒の着物に身を包んでいると言うのに、全く汗をかいておりません。
ですが、顔に浮かんでいるのは不機嫌その物。転がる銀彌を見る目も、どこと無く忌々しげな物のような気がいたします。
彼女の名はあやめ。齢は十に届くか否かと言ったところ。ですがその愛らしい顔立ちと、共にいる水菊の可愛がりようから、末は水菊と同等、もしくはそれ以上の芸妓になるであろうと、世の男性から評価されております。
そんな彼女が、顔を顰め、睨むように銀彌を見下ろす様は、間違いなく普段は見る事の叶わぬ光景でございましょう。
彼女はすっと水菊の前に出ると、横たわる銀彌に向って歩を進め……
「こんな所で寝るな。通行の邪魔だ」
言いながら、彼女はそっと足を上げると、寝そべる銀彌の頭にその足を乗せ、ぎゅうと勢い良く踏みつけたのでございます。
おまけに乗せた足をグリグリと躙るではありませんか。
床に頭を押し付けられる形となった銀彌は、あやめの体重がかかる頭を無理矢理上げると、普段の精悍な面差しからは想像がつかない程、情けない顔で彼女を見上げ、抗議の声をあげたのでございます。
「ちょいちょいちょいちょい! 何でそんな不機嫌?」
「決まっている。暑いからだ。私はそれを我慢していると言うのに、貴様と来たらうだうだうだうだと。……もういっそ禿げろ。見ていて暑苦しい。何なら私がその鬱陶しい毛を刈ってやる」
「酷ぇっ! オレってば超短髪なのに!? これ以上刈られたら丸坊主なんだけど!」
「喧しい」
「むぎゅぅ」
汗をかいていないだけで、暑いと感じていない訳ではないのでしょう。
銀彌に向って心底苛立たしげにそう言うと、あやめは更に体重をかけるのでございました。
とは言え、所詮は十そこらの童女。銀彌には然程大きな痛手とはならないのでございますが。
そもそも京は、三方を山に囲まれた盆地でございます。斯様な地形故に、日の光によって生まれた熱は山に阻まれ逃げ場を失い、京に留まるのです。唯一開けている場も、風の吹き込む「南側」。つまり、風は熱を孕んだ空気を運び込みこそすれ、留まる熱気を追い出すような事はないのです。
同様な地形には、かつて源氏が幕府を開いた鎌倉がございますが、鎌倉との大きな相違は海の有無。南方に海を持つ鎌倉とは違い、京には海がございません。それ故、海風で冷やされると言う事も無いのでございます。
これが、「京が暑い」と言われる所以。その事を存じているのでしょう。銀彌は既に抵抗する気も失せたのか、あやめの為すがまま、ぐりぐりと頭を躙られつつ、呻くように呟くのでした。
「おかしいだろ京の地形。何でこんなトコに都なんて作ってんだよ馬鹿じゃねぇの昔の偉い奴」
「それに関しては同意してやるが、ここにいる以上は慣れろ。貴様何年この京で生活している」
「……あやめちゃん、言葉遣い。せめてお部屋に帰るまでは、気ぃつけんといけまへんえ?」
彼らのやり取りを微笑みながら見ていた水菊は、微かに困ったような口調でそうやんわりとあやめを窘めたのでございます。
その言葉で、ようやく自身の口調が禿らしからぬものであると気付いたのでございましょう。あやめははっとしたように己の口を押さえ、しょんぼりした様子で水菊を見上げると、銀彌の頭から足を下ろして深々と頭を下げたのでございました。
「すみまへん、お姉さん。……銀彌はんがその大きな図体で廊下を塞いでいてはるのが、あんまりにも邪魔どしから、つい」
遠目から見れば綺麗な笑顔を浮かべているようにも見えましょうが、近くに立つ水菊の目に映るあやめは、全く笑っていない目で銀彌を見下ろし……いえ、「見下し」ながら、答えを返したのでございます。
そしてその顔は未だぐったりと床の上に横たわっている銀彌の目にも映っているのでしょう。恨めしげな表情であやめを見上げ、うぅと威嚇するように低く唸るのです。
しかし二人の女性はそんな彼の視線を軽く流すと、そのまま己の部屋へと戻って行くのでございました。
ここで少々、今の京の情勢をお話させて頂きます。
この文久三年より遡る事六年の、安政五年。時の大老であらせられた井伊直弼公の判断により、3代将軍徳川家光公の御世より続いた「鎖国」が解かれ、欧米列強が次々とこの日本に入ってくるようになりました。
しかしながら、人は急激な変化に戸惑うもの。
幕府や一部の藩は、変化を受け入れ、そして自らも外に出て新たな変化に対応すべきと言う「開国」を唱える一方、朝廷や開国を受け入れられぬ藩は外来者である欧米列強を追い払い、今まで通りの平和を維持しようと言う「攘夷」を唱え始めたのでございます。
「攘夷」とは「夷を攘う」……即ち、「異民族を追い出す」という意でございます。
この攘夷を特に声高に掲げておりましたのは、長州藩でございました。彼らは「尊王攘夷」を掲げ、朝廷を取り立て、朝廷の許可無く「開国」に踏み切った幕府を許すなと公言しておりました。
一般に「尊攘派」と呼ばれた彼らは元号が文久へと変化した頃から、「尊王」……即ち朝廷重視の観点故なのか、続々と帝がおわす京へと集結し、「天誅」を称して、「開国」を唱える者をはじめ、開国派ではないが尊皇攘夷にも「同意しない」者達を、暗殺、あるいは脅迫していたのでございます。
特にこの文久三年に入ってからは、その動きがとみに活発になり、過激な思想を持った志士達が京の街を我が物顔で闊歩する有様。
奮うのが弁だけならば害はございませんが、如何せん彼らは弁だけでなく刀まで振るう始末。気に入らなければすぐさま刀を抜き、刀を……そして力を持たぬ女子供まで斬ると言う暴挙。
帝のお膝元でありながら、京の治安は酷く悪化しておりました。
そんな折、文久三年弥生、幕府の命によって京の治安維持を任された集団がございました。
彼らの名は「壬生浪士組」。元は別の目的で江戸から京へと上洛した浪士の集団でございましたが、この度は割愛致しましょう。
彼らは、京の町……特に人が集る祇園や伏見と言った繁華街を見回っては、先に述べましたような強硬な尊攘派志士……俗に不逞浪士と呼ばれる者達の捕縛を主な仕事としておりました。
しかし管轄が繁華街と言う、人目に付きやすい場所であったが為でございましょうか。浪士組の仕事は「捕縛」を主としているにも関わらず、町の人々の間では不逞浪士と変わらぬ「人斬り」、「壬生狼」と呼ばれて恐れられておりました。
しかしながら、いつの世も治安の乱れはそう簡単には正せぬもの。浪士組がいくら不逞浪士を捕縛しても、京の民の犠牲は減る事はございません。
天誅による暗殺、恐喝、そしてそれに便乗して行われる商家への押し借りや辻斬り。跳梁跋扈する者達は、未だ京で凶刃を振るい続け、そして京の民の心に恐怖と不安を植えつけ続けておりました。
そしてその恐怖の一端は、この島原にも深く根付いておりました。
特に、文月の末から起こっている「刺殺事件」には、島原に住まう芸妓達も……そして見回っている浪士組の面々も、頭を痛めておりました。
「はぁぁぁぁ」
「おいがむしん。折角の酒がまずくなるから、その深い溜息やめろって」
「そーだよ新さん。何でそんな深い溜息吐くかなぁ」
斯様に会話を交わしているのは、先に述べた壬生浪士組の面々。
日は落ち、代わりに白い光を放つ満月が天に昇って夜を照らすのを「縁屋」の座敷の一室で見上げながら、その三人の青年はぐいと酒を呷るのでございました。
「がむしん」と呼ばれ、溜息を吐いた青年の名は永倉新八。他の揚屋とは趣が異なる「縁屋」の、質素でありながらも質の高い料理や酒を好み、ちょくちょくこの店に顔を出す常連でございます。
普段ならこの縁屋には一人で来るのですが、今日は何故か彼の他にあと二人、何故か少しだけからかう様な表情で彼の脇に座っておりました。
一方は永倉と同い年くらいの精悍な顔つきの青年。脇に置かれている武器は長い槍でございます。背も高く、見目は間違いなく好青年と言った所でございましょう。
もう一方は永倉達よりも年下でしょうか。あどけなさ残る顔立ちではございますが、永倉達とは長い付き合いなのでしょう、特に気負った様子も無く接しております。
座敷にいるのがその三名のみでございますので、まだ逢状を出してからはそれほど時間も経っていないのでございましょう。
「変死体なんざ見たくもない。まして、身内もそれに殺されているのにって事になりゃぁ……」
「……ああ、それか……」
「殺されたの、左之さんの隊の奴だったんだっけ?」
「まぁな。……良い奴だったのになぁ」
今度は永倉と同年代の青年……左之、と呼ばれた彼が、深い溜息を吐き出し、沈痛な面持ちで手元の杯を見下ろすのでございます。
実は葉月の初旬、彼の部下である「佐々木愛次郎」なる青年が、その恋人である「あぐり」と共に変死体で見つかると言う痛ましい事件が起こったばかりでございました。
その奇異な傷口から、文月末からの「刺殺事件」の一つである事は明白なのですが、世はそうは思わぬのでしょう。市井では、その亡骸の奇異さの為なのか、「佐々木は暗殺されたのだ」とまことしやかな噂が流れておりました。
「出来ている傷が、刀傷だって言うならまだ理解できるんだ。不逞浪士に斬りかかられたとか、そう言う風に。だが今回は……」
「刀よりも更に細い物。新見さんと山南さん曰く、『釘の様な物』だとよ。あの壮絶に仲の悪い2人の意見が、珍しくも一致してるんだ。間違いは無ぇ。こなくそっ! どうやって釘の様な物で殺したって言うんだよ」
「って言うか、『様な物』って何。他に何かある? あの傷は完全に釘でしょ」
「左之が問題にしたいのは、釘で本当に人が殺せるかって事だろ、平助」
「いやまぁ、そーなんだけどさぁ」
永倉に返された言葉に対し、平助と呼ばれた最年少の青年は困ったように頬をかきながら答えを返すのでございました。
そう。最近起こる「刺殺事件」。これは刀による刺殺ではなく、何やら「釘の様な物」によって四肢と額、そして心の臓を貫かれると言う、想像するだにおぞましい方法で行われていたのでございます。
しかしながら、釘は近寄らねば打ち込む事など出来ませんし、仮に釘を打ち込む距離を取ったとしても、骨や筋に当たってしまい、最中で止まってしまうのが普通。まして貫くともなれば、余程の長さを持つ釘でなければ難しいでしょう。
到底人間業とも思えぬ所業に、浪士組の面々も頭を悩ませていたのでございます。
――こんな事ができるのは、やっぱり人間じゃない、よな……――
永倉が心の内でそう呟いた瞬間。座敷の襖がすっと小さな音を立て、彼らの前に小さな影が、ちょこんと姿を現したのでございました。
「お晩どす。永倉はん、お姉さんはもう少ししたら来はりますぅ」
姿や言葉から、禿の少女である事は、即座に理解できました。ですが、通常禿は座敷に上がる事はございません。恐らくは少し遅れると言う言伝をしに来たのでしょうが、それならば襖の向こうから伝えれば済むだけの事。
不思議に思う「左之」と「平助」を余所に、永倉はそれまで険しく歪めていた表情を少しだけ和らげると、彼女に向って来い来いと手招きをするのでございました。
「よぉあやめちゃん。いつも忙しいのに、悪いな。……それじゃあ、水菊さんが来るまで、話し相手になってくれよ」
「へえ、ほならお姉さんが来るまでの間だけ、お邪魔しますぅ。でも、うちは忙しい事なんてあらしまへんえ? それにしても、珍しいどすなぁ、永倉はんが他の方と一緒に来はるなんて」
「……1人で来ようと思ったのに、こいつらが勝手について来たんだ」
少女……あやめの、笑いながら放った言葉に、永倉はどこか不満そうな表情でちらりと2人を見ながら返すのでございました。
一方で2人はと申しますれば、どうやら永倉とあやめが兄妹のように見えたのでございましょう。どこか微笑ましく思いながら、やって来た彼女に向って笑むのでございました。
「地味な感じだけど、料理も酒も美味い。新さん、こんな良い所独り占めはずるいよ。あ、俺は藤堂平助って言うんだ。よろしく」
「平助の言う通りだな。……ああ、俺は原田左之助って言うんだ。仲間内からは左之、左之助と呼ばれてる」
「ここは俺の憩いの場なんだよお前らがいたら憩いにならないだろうが」
「永倉はん、そんな風に言わんといておくれやす。島原はどんな方でも歓迎しますえ。……藤堂はんに原田はんどすね。ご挨拶が遅れました。うちは水菊姉さんに付いている禿で、あやめ、言いますぅ。どうぞ、よろしゅう」
ちょこんと頭を下げ、「平助」こと藤堂と、「左之」こと原田に向けてあやめは改めて挨拶を致します。
その様子に、2人もほんわかと温かい気分になりながら、彼女に視線を送るのでございました。
「……それにしても、あやめちゃん1人で来たのか? 気をつけないと駄目だぜ?」
「そうそう。いくら禿の嬢ちゃんが勝手知ったる島原とは言え、最近は色々と物騒だからな」
「物騒言うたら、『釘磔』どすなぁ。でも、うちが狙われるとは思えまへんえ?」
「釘磔」と言うのは先に述べました「刺殺事件」の事を指しております。それは、亡骸がすべて地面に磔にされているように見える事からきた島原特有の呼び名でございました。
狙われているのは主に16、7頃の娘と、それと共にいた男でございますが、相手は釘で人を殺めるような危険な者。10前後のあやめが、「絶対に無事」と言う保証は無いのでございます。
その事を伝えたいのか、藤堂はじっとあやめの顔を覗き込むと、少しだけ険しい表情で彼女に言葉を紡ぐのでございました。
「それでも、危ないよ。君が被害者になる事だって、絶対に無いとは言えないんだから」
「……へえ。胆に銘じておきます。心配してくれて、おおきに」
にっこり笑ってあやめが答えると、あたかもそれを待っていたかのように、再度襖がすっと微かな音を立てて開き、待ち人……永倉が呼んだ贔屓の芸妓である水菊がその姿を現したのでございます。
彼女の後ろでは、物陰に隠れるようにして佇む銀彌の姿も確認できます。
「水菊どす。よろしゅう、お頼申しますぅ」
「よ、水菊さん。待ってたぜ」
「お晩どす、永倉はん。いつもご贔屓にして下さって嬉しいわぁ。今日はお仲間はんとご一緒なんどすねぇ」
「……うわぁ、びっじーん……」
「…………がむしんには、吊りあわない美女だな。勿論、がむしんが駄目な方で」
ふわりと笑った水菊に対し、心からそう思ったのでございましょう。どこか呆けたような表情を浮かべながらも、藤堂と原田はそれぞれに言の葉を紡ぐのでございました。
……その後ろで、あやめが妙に得意げな表情をしている事など、微塵も気付かずに。
「ほな、お姉さん。何かあったら呼んでおくれやす」
「ありがとう、あやめちゃん。あやめちゃんも、何かあったらすぐに呼ぶんよ」
「へえ」
ぺこりと再び頭を下げ、あやめは水菊と入れ替わるように襖の向こうへとその姿を消したのでございます。
それを見送るや、永倉はそれまで浮かべていた笑みを消すと、口の中を湿らせるように酒を呷り……そして三味を奏ではじめた水菊に向って、問いを向けたのでございました。
「水菊さん、知ってたら教えて欲しいんだけどさ」
「へぇ。何どすえ?」
「最近の『釘磔』……誰の仕業か、分ったりしないかな?」
真剣な表情で問う永倉に何を思ったのでございましょう。原田は呆れたような表情になり、そして藤堂は軽く首を傾げて、それぞれに永倉に視線を向けたのでございます。
「おいおいがむしん。いくら島原が情報の集る場所って言っても、そんな物まで分ったら苦労は……」
「それらしい話で良ければ」
「って分るんだ!?」
「誰、言うのははっきりしてまへん。でも……『お姉ちゃん』は鬼や、言うてますぅ」
たおやかな笑みを浮かべ、そして手元では三味を優美に鳴らしながら、水菊はさも当然の如く答えを返したのでございます。
ですが、その答えは現実味に欠けた比喩のようなもの。本当に下手人を知っているのかもしれないと思った原田と藤堂は、あからさまに落胆した様子を見せるのでございました。
唯一、永倉だけはその言葉の意味を考えているのでございましょう。軽く眉を顰め、心底憂鬱そうに溜息を1つ吐き出したのでございました。
「……そうか。鬼、か」
「まあ、確かにあんな事、鬼の所業って言われた方が納得だぜ。人のやる事じゃねぇ」
杯に視線を落とし、静かに呟く永倉とは対照的に、原田の方は心底憎々しげに吐き出し、勢い良く杯を呷るのでございます。
更にそんな2人を藤堂は苦笑気味に見つめつつも、水菊の奏でる三味の音に耳を傾け、料理を口に運ぶのでございました。
気まずい沈黙の中、黙々と奏でられる水菊の三味。その三味すらも、曲が終わったのかびぃんと弦が震える音も徐々に消えていく中。
水菊が三味から顔を上げると、外に浮く真円の月を見上げながら、謳うように言の葉を紡ぎだしたのでございます。
「今宵は美しき天満月。月の明るさに相反して、闇が最も濃ぅなる日ぃどす。皆様、闇が濃ぅなる丑の刻には、気をつけておくれやす」
と……
そして、夜も更け丑の刻にさしかかろうかと言う頃合。
昼の暑さはすっかり鳴りを潜め、肌寒いくらいの空気が、どんよりとわだかまっておりました。
「……相変わらず、この時間の空気は肌に纏わりつくようで気持ち悪いな……」
月明かりの元、そう呟くのは浪士組隊士の証である浅葱色の隊服を着た永倉。そして本来なら部下がいるはずの彼の脇には、部下の代わりとでも言うように、何故かあやめ1人だけが当然の如く歩いておりました。
彼らの手元には松明や提灯といった灯りは一切なく、月と星の光のみを頼りに歩いている様子でございます。
「……あやめちゃーん、俺今日死番だったんだけどなー……」
「ならば来なければ良かったのでは無いか、永倉君。付き添いは別に銀でも良かったのだが?」
横で愚痴を漏らす永倉に、あやめは廓言葉ではない……今朝方銀彌に対した時と同じ様な、不遜な物言いを返すのでございました。
おまけにその顔に浮かぶのは、見目の年齢に見合わぬ不敵な笑み。着ている物はいつもの禿の時に纏う様な音の鳴る袖ではなく、闇をそのまま布に仕立てたかのような漆黒の振袖でございました。
「それでも来たと言う事は、菊の『合言葉』に気付き、なおかつ『闇の者』と対峙しようと思ったからだろう?」
「一応、京の守護を務める浪士組の幹部だからな。京を騒がせた者の末路を、見届ける義務がある」
かちりと刀の鍔を鳴らし、永倉は真っ直ぐに前を向いて言葉を返したのでございます。
そんな彼の横顔を見やり、軽くあやめは笑うと……
「さて。それではこの辺で『誘う』とするか。……先程からつけてきている事だしな」
そう言うと同時に、彼女はトン、と軽い足音を立てて宙を舞ったのでございます。
その様はまるで月夜を踊る蝙蝠の様。あやめの小さな体は、宙で月の円と重なると、くるりとその場で一回転し……地に降り立った時、その姿は童女としてのものではなく、17、8の妙齢の女性の物へと変化していたのでございます。
黒く艶やかな髪は京の風に舞ってふわりと靡き、大きくパッチリとした目は、以前の面影を残しながらも色艶を帯びた血色へ変化し、口元からは犬歯と呼ぶには長すぎる牙が覗いております。そして身に纏う雰囲気は妖しさに満ち溢れておりました。
その「変身」を、永倉はかつて見た事があるのでございましょう。驚きよりも感心したような表情を浮かべ、ほうと1つ溜息を漏らすのでございました。
「……いやぁ……やっぱりその変身は見事だなぁ。……相変わらず体型は寂しいけど」
「…………永倉君、君、銀の悪い影響を受けていないかな? 私とて、好き好んで俎板な訳では無いのだが?」
「ちょっ! あやめちゃん! 首! 首絞まってる!!」
にっこりと。いっそ綺麗にも見える笑顔で言いながらも、あやめは永倉の襟首を掴み、ぎゅうと締め上げるのでございます。
恐らく、本人も自身の胸囲が乏しい事を気にしているのでございましょう。そこは所謂乙女心と言う物でございます。
しかし、唐突に。彼女は永倉から手を離すと、自身の後ろに広がる闇に目を向け……
「お出ましのようだぞ、永倉君」
その言葉と同時に、永倉の背にぞくりと粟立つような感覚が襲い掛かります。
それは、恐怖と呼ぶべきものでございましょう。無意識の内に恐怖の出所に視線を走らせ、己の腰に差す刀に手を当てるのです。
そんな彼の殺気に反応したのでございましょうか。闇から滲み出るようにして、1人の女性がその姿を現したのでございます。
ただ、女性の醸し出す雰囲気は尋常な物ではございません。艶を失った黒く長い髪は乱れ、髪の間から覗く目は憎悪で滾り、頭に乗せている五徳はあたかも角。一本歯の下駄を履いているはずなのに足音はせず、口に咥えている櫛は歯が折れ、牙の様にも見えるのでございます。
そして櫛を咥えているにもかかわらず、彼女の声ははっきりと永倉とあやめの耳に届くのでございました。
「酷い、酷い、酷い、酷い、酷い、酷い」
虚ろな瞳を真っ直ぐに永倉に固定し、彼女は手に持っている「それ」を構え、更に言葉を紡ぐのです。
「どうして私ではいけないの? どうして彼女を選んだの? あれ程将来を約束したのに」
そうは言われましても、永倉は目の前の女性を存じません。
人違いだと言いたいところではございますが、恐らく相手にはその声は届かないでしょう。まして、彼女の持つ「それ」は此度の「釘磔」の道具その物。……鉄鎚と五寸釘を持っているのです。
「憎い、憎い、憎い。彼が憎い。でも、彼を私から奪ったあの女は、もっと憎い!」
低く、憎悪の篭った声で。女性はくわっと目を見開くと、持っていた五寸釘を放り上げ、そして次の瞬間にはもう一方の手に持っていた鎚で釘の頭を叩き、2人に向けて飛ばしたのでございます。
その様はまるで弾丸。女の力とは思えぬ威力で打ち出された釘を、永倉は即座に抜いた刀で弾き落とすと、緊張した面持ちで横に立つあやめに声をかけるのでございます。
「……あやめちゃん、アレが……今回の下手人、『鬼』って奴か?」
「その通りだ。いつの世も、げに恐ろしきは女の情念。……君は『丑の刻参り』と言うのは知っているか?」
「『丑の刻参り』の事か? 藁人形に五寸釘打ち付けるって、アレの事なら聞きかじり程度には」
「読みは少し違うが、それだ。通常は7日間かけて完成させる呪詛だが、大抵は途中で誰かに見つかってしまい、失敗に終わる」
次々に打ち込まれてくる釘をかわしながら、2人は斯様な会話を交わすのでございました。
言われてみれば、確かに釘を打ち込む女性の姿は、俗に聞く「丑の刻参り」の際の姿。通常は五徳の上に蝋燭を立て、腰に護り刀、胸に鏡を提げるのが慣わしとも聞いておりますが、今の彼女にはその3点は見当たりません。
丑の刻に神社の御神木に向って、憎い相手に見立てた藁人形に、毎夜五寸釘を打ち込むと言う古くからの有名な呪法が、先に述べた「丑の刻参り」でございます。ただし、儀式の様を他者に見られれば、その呪いは自身に返って来るとも言われ、誰にも見られずに7晩かけて呪詛を完成させる事は、酷く難しいとも言われておりました。
「しかし、稀に執念で呪詛を完遂させる女もいてな。…………あれは完遂させた女の末路だよ」
「成功させたんなら、何であんな……」
「人を呪わば穴2つ。誰かを呪い、そして完成したとしても、7晩の間込めに込めた怨念は、1人の命では満足しない」
「呪った本人にも、その怨念が向くって事かい?」
「そうだ。その怨念は、対象が消えた事を認識出来なくする。呪いたい『たった1人』が、未だ自身の目の前に存在し、邪魔をしているような錯覚に陥る。それが……ヒトが鬼女へと『堕す』原因の殆どだ」
「妖怪に……『闇の者』になる為に、呪いをかけた訳じゃないだろうに」
執拗に釘を打ち込む女を、どこか哀れに思いながら、永倉は飛んでくる釘を弾き、そう小さく呟くのでございました。
世には、闇に魅入られ、人とは異なる存在……「妖怪」、「物の怪」、あるいは「闇の者」と呼ばれる者達が、人知れず存在おります。
生まれついての「闇の者」を「業を背負う者」を意味する「架人」と呼び、ヒトが何らかの原因で「闇の者」へと変じてしまった者を「堕した者」を意味する「堕人」と呼び分けるのでございます。
そして目の前に立つ「鬼」は後者である「堕人」であり、永倉の横でひょいひょいと釘を避けているあやめは「吸血鬼」と呼ばれる種の「架人」でございます。
かつてひょんな事から、永倉は彼女の正体を知り、そして手伝うようになっておりました。
……「宵闇太夫」と呼ばれる、島原の妖怪退治人である彼女の。
「死んで! 死んでよぉ! 私の邪魔をした罪を償ってよぉぉぉっ!」
髪を振り乱し、ひたすらに釘を打つ様はまさに丑の刻参りその物。恐らく鬼へと堕した彼女には、未だ呪詛は続いていると思っているのでございましょう。
ギラギラと憎悪で滾らせた目をあやめと永倉に向けながら、咆哮にも似た声で叫ぶのです。
そんな彼女に何を思うのか。あやめは軽く息を1つ吐き出すと、釘をかわしながらゆっくりと「鬼女」との距離を縮め、言葉を紡ぐのでございます。
「呪い、そしてそれを完遂させるだけの気概を持ちながら、どうして別の方へその情念を向けられなかったのか」
歩く度、彼女の前に見知らぬ赤い花弁が緋の絨毯となって道を作り、どこからともなくシャンシャンと清んだ鈴の音が響きます。
同時に、あやめの纏う着物からはぶわりと「黒」が広がり、周囲の空間を月の光さえ届かぬ深淵の闇で遮断したのでございます。
その、自身すらも見失いそうな闇故に。あやめの浮かべる表情は、永倉にはわかりません。ですが続く彼女の声はどこか哀しげに思えるのでございました。
「……いや。恋焦がれた者は、他の事に目を向ける事が適わんと言う事か」
その言葉と同時に、空間を覆っていた闇が、あやめの手の内に収束し……そして、漆黒の刀へと変じたのでございます。
闇を断つ為の更なる闇。それこそが、彼女が持つ絶対の力。
「呪ってやる。呪ってやる! 私の邪魔をする者、私を捨てる者、皆みぃんな呪ってやるぅぅぅ!!」
その力に、闇に堕した「鬼女」は恐怖を抱いたのでしょうか。彼女はそう叫びながら、それまで永倉にも打ち込んでいた五寸釘をあやめに集中させ始めます。
しかしながら、あやめはそれをひらりひらりとかわし続け……ついには、「鬼女」の前に降り立ち、五寸釘を持つ腕を切り落としたのでございます。
落とされた腕は地に落ちる前に闇と同化し、あやめの纏う着物へと吸い込まれるのです。一方で持っていた五寸釘はチリンと冷たい音を鳴らして地面に落ちるのでした。
「い……いやぁぁぁぁぁっ! 呪えない! 腕がなきゃ呪えないぃぃぃぃぃっ!!」
「人から堕した闇の者よ。貴様の止まった時間は、死を以って再び動かすと良い」
感情の読めぬ声で言うと同時に、彼女は大きくその刀を振り下ろし……「鬼女」の体を縦2つに断ち割ったのでございます。
刹那。「鬼女」は驚いたような……ですがどこか安心したような表情を浮かべると、ゆっくりと瞼を閉じ……そして大地に伏す直前、やはりその身は闇と化し、溶ける様に消え失せたのでございました。
それを見届け、永倉はふぅと深い安堵の溜息を吐き出すと、ぽんとあやめの肩を叩き……
「お疲れさん。……これでもう誰も『鬼女』のせいで傷付く事はない」
「ああ、そうだな。民も……そして彼女自身も」
「彼女自身?」
「ああ。……誰かを呪い続ける人生など、苦しいだけだから」
そう言って。
あやめは哀しげに笑うと、その身をいつもの禿姿に戻し、くるりと踵を返して京の闇へと消えるのでございました。
――「闇の者」を狩る「闇の者」。時間の止まった存在、か……――
……文久3年葉月の中頃。満月の白い光の下、消え行く小さな闇の少女の背中を見送りながら、永倉新八は思うのでございます。
彼女の止まった時間は、一体誰が、どのようにして動かすのであろうかと……