陽季(2)
バンッ
「あの女っ!!!!」
テーブルに拳を叩き付けると陽季は呻いた。
「陽坊、落ち着けって」
「落ち着いてる!!」
水の入ったコップを双灯は置く。それを掴むと陽季は一気に飲み干した。
飲みきれなかった水が一筋の線を首筋に残す。
用心屋2階。リビング。
陽季と双灯の二人はここで洸祈を待っていた。
洸祈はというとシャワーだ。
「体洗ってきていいですか?」
それは無意識から出た言葉だったのだろう。
「あ、あぁ。洗ってきなよ」
何も言えないでいる陽季の代わりに双灯が慌てて答えた。洸祈は陽季が呆然としているのに首を傾げた。
陽季はその視線を無視してベッドから降りる。
「ドアの修理費は後で出すから。リビングで待ってる」
そして二人に背中を向けて部屋を出ていった。
「くそっ!!」
双灯には陽季が怒る理由が分かる。
洸祈のあの言葉。
『体洗ってきていいですか?』
首筋に見えた噛まれた痕。
洸祈はずっと自らの体を抱いていた。多分痕はそれだけではないはずだ。
あれを付けたのは陽季じゃないのは分かる。(陽季はあんな下品なことはしない。多分)陽季は別にそれに対して“女”に怒っているのではない。確かに、どうしようもないくらいムカついているだろう。片想いの長かった陽季だから“殴ってやる”ぐらいは思っているかもしれない。陽季は喧嘩上等の厄介者だ。
陽季が“女”に対して怒っているのは洸祈の敬語だ。月華鈴にいた頃の洸祈は敬語を使っていた。
だから別段おかしくないのだ。双灯に対して言った言葉なら…
『体洗ってきていいですか?』
洸祈は陽季を真っ正面から見て尋ねた。あれがわざとなら彼は全ての観客を魅了する陽季以上の役者だ。
「あいつが俺に敬語なんて」
そう、これが真の理由。
「約束したのに」
その昔約束した後は一度も洸祈は陽季に敬語を使っていない。
洸祈が陽季に敬語を使った。
きっとこの一言では現せないぐらい複雑なのだろう。
洸祈はある日、陽季に連れてこられた。陽季は何処からどうして連れてきたのか。双灯だけでなく、双蘭も菊菜も弥生も胡鳥も知らないのだ。
連れてこられた洸祈の目は死んでいた。
それしか知らないのだ。
「約束…したのに」
顔を歪める陽季。
強気の陽季は洸祈のことになると途端に崩れる。それほどまでに一途で真剣なのだ。
双灯はこれ以上暗くならないようにと話題を振ってみた。
「お前のことだから洸祈君に付き添うなんて言って風呂まで付いてくと思ったぜ」
我ながら馬鹿げた話題を振ってしまった。と双灯は今更後悔。
「俺が居ると目一杯泣けないからな」
「そっか」
陽季らしい。
「でも、双灯が言うなら…」
「やめろ、このド変態」
陽季らしい。
「待たせてごめんなさい」
ジーンズにパーカー姿の洸祈がリビングに入ってきた。
「いや、別に問題ないさ。とても有意義な会話をしていたからな。でも、髪濡れたままだと風邪引くよ?」
「頭冷やしたいですから」
「でもなぁ」
頭から水滴を落とす洸祈に双灯は困る。
「風邪引いたらもっと熱くなる」
そう言うと陽季は洸祈の首にかかったタオルを奪って無理矢理頭を拭いた。洸祈はきょとんとした顔でされるがままだ。
「洸祈君、大丈夫か?」
「何がですか?」
「……………………」
双灯は押し黙る。何処か出会ったころの洸祈と話しているようで…
ぞっとしてしまった。
「行くぞ。双灯、車は公園に置いてきたんだろ?」
そう、双灯は陽季を用心屋の前で降ろし、道のど真ん中に大型車を置くわけにはいかないので近くの公園の駐車場に停めてきたのだ。そのため双灯は来るのが遅れ、二人のキスを見るはめになったのだが。
「あぁ。行くか」
その言葉を聞くと陽季は部屋の電気を消し、洸祈の手を引いて部屋を出た。
その間も彼はぼんやりしていた。
突然だった。
「うぅっ!……っぁああ!!」
冬空の下へ出た時だった。
右肩を掴んで洸祈はその場に踞る。
「なん…で………っ!!!」
絶望した声。
「洸祈!?どうした!」
「洸祈君!?」
呼び掛けに彼は応えず、呻き声を上げる。
「どうしたんだ!!」
「どないしたんや!」
関西弁。
スーツ姿の男―にしては小さいが―は手にした鞄をその場に投げて洸祈に走り寄った。彼は、
「司野由宇麻さん!」
用心屋の向かいの家の主、司野由宇麻だった。
「夕霧!」
と、
「っうぅ………琉雨っ…っ」
「崇弥!またかいな!」
「またって…」
狼狽える陽季をほっとくと由宇麻はポケットからハンカチを取り出して丸めると洸祈に顔を上げさせた。
見てるこっちも辛くなるような顔。
「崇弥、ハンカチ噛んでた方が楽やで。声圧し殺さんでええんやから」
「琉雨……琉雨っ!!!………」
微かに開いた瞳は何も映さない。陽季も双灯もただただ二人を見るだけだ。
「ほら、噛みや。琉雨ちゃんは居らんけど俺が居るから」
洸祈は視線を由宇麻の差し出すハンカチに向けると噛んだ。そして、膝を立てた由宇麻にもたれ掛かるように抱き付いた。
由宇麻は洸祈の背中を優しく叩く。
「頑張れ、頑張れ。直ぐ収まるからな。琉雨ちゃんに沢山、色んなもん残してやるんやろ?崇弥、頑張れ。少しの辛抱や」
物凄い力で抱き付いているのが見ている二人には分かる。由宇麻は痛みに必死に耐えて洸祈に話し掛け続ける。
意識が飛びそうになるギリギリのところでビクッと洸祈は体を震わせると叫んだ。
「うっ!!!!!!!………」
すると腕の力が抜け、地面にぱたりと落ちる。
口からはハンカチが落ち、由宇麻に全体重を預けるように脱力した。
支えきれずに由宇麻は冷たいアスファルトに尻餅を付く。
「……偉いな。流石、崇弥や。だてにやんちゃな皆をまとめてるだけあるわな」
疲れきった顔に安堵の表情。
由宇麻は少し早い呼吸を繰り返して目を閉じる洸祈に笑いかけた。
「洸祈っ…」
洸祈の横で膝をつく陽季は悲痛な顔をする。
「夕霧、こんな遅くにどないしたん?保護者の付き添いありでも夜中の未成年者の外出はさけなあかんのに…」
「洸祈は…」
「時々あるんや。理由は分からへんし、知ろうとも思わへん。詮索はしない約束やからな。それに、崇弥は話したくないようやから」
陽季はそれが突然のことじゃないと知り、一先ずは安堵した。勿論、右肩のことはそれで心が痛むが。
「ちょっと夕霧手伝ってぇな」
動かぬ陽季。
「俺が」と双灯が動こうと…
「双灯は車。俺が司野さんに頼まれた」
パッと陽季は洸祈を背中から抱き上げた。
「はいはい。…陽坊、誰だって全てを知っているわけじゃない。分からないことだってある」
「何だよ」
「ま、そーゆーことだ」
双灯は手をひらひらと振って公園へ歩いて行った。
「あの人、大人やな」
洸祈の下から這い出た由宇麻はほぅと息を吐いた。
「はぁ?」
「要約すると…夕霧、俺に妬いちゃいかんよ」
「…………するかっ!言っとくけどな…俺は…洸祈と……そのっ…」
「やっぱかわええな~」
ぎゅっと洸祈を抱く陽季を洸祈諸とも抱いた。
「な、何するんだよ!」
「皆大好きや。みーんな!」
無邪気な笑顔。
こんな顔する大人がいたんだと陽季は驚く。
「へ?どうしたんだよ」
「大好きやから…大好きやから………」
「司野さん?」
「いつまでも笑っていたいな」
温かい人だ。