残暑(2)
―アナタの代わりになってあげたい―
「あれ、洸?」
「ちぃ起きたか」
「うん」
ここは洸祈の部屋。本の匂い、木の匂い。蛍光灯が眩しい。
千里は不協和音を奏でる頭を無理矢理無視して上体を起こす。咄嗟の行動のせいか平衡感覚がとれずに前のめりに突っ伏した。
すーと背中の汗が退く。
「僕風邪でもひいたの?」
「今更か。ほら、これで汗でも拭いとけ」
洸祈は千里の顔の横に畳んだ黒地のタオルを置いた。
―寒い?熱い?何でも言って―
「う~ん。洸ー、熱い。額のこれ替えてよ」
「風邪治れば暑くなくなる。替えてやるから寄越せ」
「はい。ねぇ…喉渇いた。熱い!」
生暖かくなった冷却シートを受け取ると近くにあった脚の短い机の上の箱から新しいのを取り出した。
「スポーツドリンクならそこにある。勝手に飲め」
洸祈はベッドに元から付いている棚の上に乗るペットボトルを指差した。千里はゆっくりと頭を上げてペットボトルの蓋を回すと直ぐに飲み干した。
「熱いんだけど」
「あー分かったよ。クーラー点けてやる。だけど、タオルケットちゃんと掛けろよ」
我が儘な千里に溜め息をつくと仕返しと言わんばかりに洸祈は冷却シートを一気に貼り付けた。
「ひゃ、冷たい!…え~矢駄よぉ。それじゃ意味ないよ、あーつーいー」
「うるせー。頭寒足熱だ。風邪治らなくなるぞ」
肩を掴んで千里を寝かせる。世話の掛かる奴だ。
「あ、今何時?」
虚ろな目をした千里が立ち上がった洸祈を見上げる。
「5時」
「お腹すいたー」
「7時に起こしてやるからそれまで寝てろ」
「ふぁーい」
カチッ
スイッチが切れ、カーテンを閉めた室内が薄暗くなる。
バタン
洸祈が部屋を出た音だ。
「一人、か。暇だなぁ、熱いし」
爪先を布団から出してみる。涼しい。が、ぞくりと悪寒を感じて引っ込めた。熱い。
目が暗闇に慣れてきた。
「洸のベッドだ。洸の匂いがするー。お日様の匂い」
千里はいつの間にか寝ていた。
―絶対に守るから―
「ちぃ。起きろー」
「あれ?7時なんだ」
「食欲なくても食べろ」
洸祈は素早くテーブルに湯気の揺れるお粥を置く。千里はそろそろとベッドから這い出ると床に座った。
「頂きます」
美味しい。絶妙な塩加減だ。
「何?もしかして食べたいの?」
洸祈はただただ千里を見ていた。
「んなわけあるか。顔色良くなったなと」
「うん。頭ふらふらするけど楽になった」
「そっか。明日中に完全に治せよ。皆心配している」
「照れるねー。今日中に治すから安心して」
綺麗に食べると手を合わせて箸を置いた。
「ん。もう寝ろ」
食器片手にベッドを指差した。命令系だが病人には適切な対応だ。
「寝るんだぞ」ならば千里は絶対寝ない。我が儘言って起き続ける。
命令系が千里が聞き入れるボーダーラインだ。
「はぁ~い」
陽気に返事をしてくる。今だけ由宇麻みたいだと洸祈は思った。
―泣かないで、笑顔を見せて―
「…母さん」
何で言ったのだろうか。
柔らかい手のひらが恋しいと思ってしまったからだろうか。それか熱で頭が可笑しくなったのかもしれない。
「洸祈だけど」
目を開けた千里の前に洸祈がいる。薄暗い室内で彼の表情は疲れているように見えた。
「寝てないの?」
「寝れないんだから気にすんな」
嘘つき。早寝早起き、昼寝好きのくせに。
「僕の部屋使ってよ」
「暑いから矢駄ね」
「風邪ひくよ」
「ここで寝るから安心しろ」
「心配してないよ。洸は無茶はしても無理はしないと思ってるから」
「そ、心配御無用」
…………………。
「ねぇ、洸ー」
「何?」
「ボクの母さんも昔……父さんがいなくなる前、こうして看病してくれたんだよ」
背を向ける洸祈は何を思っているんだろう。
「会う度に母さんは泣いてる。弱いんだ」
「ちぃ、違う」
洸祈ははっきりとそう言った。
「お前の母親は弱くない」
「どうして!!」
「それが当然だからだ。長年寄り添っていた大切な人がいなくなって悲しくならない人間なんていない。悲しい時に泣いて何が悪い」
「でも、ずっと泣いているのは父さんの死を振り切れないからだ!」
“父さんの死”得体の知れない物が押し寄せてくる感覚に襲われる。
「振り切れないのが悪いのか?お前は振り切れていると言えるのか?」
底の見えない深海へと沈む。手を伸ばすことも、足掻くことも出来ない。
「っ!!!!」
「人の死は忘れてはいけないんだ」
洸祈はこちらを向かない。
「僕は忘れてなんかいない」
半ば躍起になって答えた。頭が熱い。
「振り切るってのは振り返らないってことだろ?良いんだよ、振り切らなくて。感情があるんだから泣いたって怒ったって良いんだ」
「……かっこつけたって…さっきまでの全部寝言だからな!」
ばふっ
熱いのを承知で頭までタオルケットを引き上げた。
「…ちぃ、近い内に実家に顔出せよ」
「煩い、分かってるよ。…ありがと」
さっきまでの全部寝言。つまり裏を返せば後は本音。
「どういたしまして」
千里は目尻の水滴をそっと拭った。
「…熱で涙腺が馬鹿になったんだよ」
暗闇で呟く。誰かに鼻で笑われた気がした。
「おー千里おはよう」
「千里さんおはようですー」
「千兄ちゃんおはよう」
「お、はよ~。あお、琉雨ちゃん、呉」
千里がリビングに向かうと三人は既に座っていた。
「もう大丈夫なんですかー?」
「熱は退いたよ。頭も心なしか以前よりすっきりしてるし」
「風邪さまさまだね」
葵が可笑しそうに首を竦めた。それを見て呉が偲び笑いをする。
「あれ、洸は?」
「自分の部屋じゃなかったの?」
「僕が起きた時にはいなかったから」
「ルー心配です。下にいるかもしれないので見てきますね」
ルーは少女の姿でリビングを出ていった。
「俺、ここの階の部屋全部見てきます」
そう言って呉も席を外そうとした時だ
「大変ですー」
下に降りたはずの琉雨が息を切らしてリビングに飛び込んできた。と、随分とお疲れのご様子で由宇麻が現れた。
「琉雨ちゃん疲れ知らずやな。崇弥がこき使うせいか?」
「朝から由宇麻だ」
「ホントだ~。病み上がりに由宇麻だ」
「なんや。大層深い意味がありそうやないの」
由宇麻が口を引き吊らせながら葵と千里を睨んで言う。
「それよりも旦那様が!」
「どうしたんですか?」
呉が行儀正しく話を促す。
「せやった。崇弥なら俺の家に居るで」
「由宇麻のところに!?」
葵が大層驚く。
「せや。朝方3時頃に押し掛けて来よったんや」
「どうして…」
千里は洸祈に何かしてしまったと思って沈んだ顔をした。
「頭痛いゆーてな、風邪かもしれんから皆に移したくないゆーて俺の家に。俺に移ることは何も言わずにや!…黙って言われたけど、ちょっと癪やったからな。それに崇弥が何も言わずに消えたら心配するやろ」
洸祈は風邪を移すまいと由宇麻の所に行ったのだ。
「それで今洸祈は」
「風邪みたいやな。大丈夫や。公務員、司野由宇麻、崇弥を手厚く看病してやる。市民へのサービスは俺の仕事や」
由宇麻は同年代の平均的身長とは掛け離れた小柄な体で胸を張った。
頼りない。しかし、
「洸がそう言ったのなら待たなきゃだね」
「待つか」
葵は呆れた様子で息を吐く。
「旦那様何もなかったみたいな顔で帰ってくるんですね。旦那様らしいです」
「帰ってきたら洸兄ちゃんに沢山遊んでもらわなきゃ」
翌日、何もなかったように帰ってきた洸祈は用心屋従業員に笑われたのは言うまでもない。
話が洩れたと察知した洸祈は由宇麻の下に殴り込みに行ったのだった。
「司野!!!!」
「崇弥、それ八つ当たりやで!」
…―良かった。お疲れ様、千里―…