帰路(6)
「ここでずっと娘さんを待ってたんやな」
棺。
漆黒の棺。
ローレン・リゼッティアの棺。
月日でくすんだ棺が纏うリボンは雨でその泥を流して薔薇の真紅を見せていた。
赤と黒。
情熱と孤独。
会話が聞こえた。
濡れて冷えきった由宇麻は屋根の上は探検したことなかったことを思い、疼きぼやける頭を押さえながらずるずると這うように進んだ。
すると、今まで煙突で隠れていた所から赤い何かが見え隠れする。
「何や?……っぅう!!」
擦りむいた膝が屋根の突起にぶつかり、肉が抉れた。思わず膝を抱えて転がる。
「大丈夫かい?由宇麻」
澄みきった声。
由宇麻の視界にブーツの爪先が入る。見上げれば金髪の青年が心配そうに見下げていた。
「誰?…いや…この声は…」
知ってる声。
お兄様
リオ様
リオ
「…リオ君?」
「ご名答。由宇麻」
夢に出てきたリオと呼ばれていた者の声。
リオはその輝く金髪を揺らして由宇麻の傍にしゃがみこんだ。
「…濡れて…おらへんな。まるで…君は……お化けか?」
濡れていない。良く見れば雨は通りすぎていた。
実体じゃない。
「お化け?あぁ、ゴーストか。私は違うよ。そう…えっと…生霊?思念体?みたいな」
「どっちも……俺には…お化けやっ」
肘に力を入れ、由宇麻は先に進むことにした。
赤いリボン。
黒い箱。
否…
黒い棺。
「叔父様の棺」
リオはその透明な手で棺を撫でる。
「ローレン・リゼッティア…さん…やな」
棺に刻まれたRolenの文字。
この屋敷の主の名。
由宇麻は煙突に背中を凭れると、激しく打ち付ける雨を降らす空を見上げた。
「ご名答。由宇麻」
リオは音のない拍手をして棺に寄り添うように座る。
「それで…何で…リオ君は俺の…前に…現れ…たん?」
「現れたんじゃないよ。待ってたんだよ」
「待ってた?」
「叔父様を縛り付ける鎖を解いて欲しくて」
縛り付ける鎖…
リオ君が現れ、願うことは…
「娘さん?」
「………………そう」
「娘さんに…会いたいやろ?」
「ご名答…いや…その通りだ」
憂いを含んだ瞳でその棺の名に接吻をする。その姿を複雑な表情で由宇麻は見るのだった。
「娘さん…フローラちゃん…」
「もういないよ」
本当に辛そうな、泣きそうな顔でリオは空を仰ぐ。
「そうか…亡くなったんやな」
意識の薄れる頭で由宇麻も空を仰いだ。幼い少女独特の高音域の声、柔らかく全てを赦してくれそうな声、女神のような彼女の声が聞こえては消える。
「俺…は…どない…すれば…ええん?」
「由宇麻の中の子の力を借りたいんだ」
君は必要ない。
そう言われた気がして由宇麻は凭れるのをやめて屋根に寝転がった。
「ええよ…心臓…発作起こして……死ぬ前に…彩樹君の力…使って……」
―由宇麻…駄目だ。早く家に帰るんだ。じゃないと―
「お願いや…彩樹君」
―ぼくは…―
「な?リオ君…ローレンさん…それに…フローラちゃんの…為に」
―じゃあ、約束だよ?ぼくが彼に力を貸したら君は家に帰るんだよ?―
「……約束…や」
ゆっくりと瞼が閉じる由宇麻。すると、瞳を揺らして彼はむっくりと起き上がった。
「彩樹君、いや、カミサマ…」
「今すぐ解放してやるよ。それがぼくの仕事だから」
肉が抉れ、血の流れる膝に手を当てた彩樹は紅くなった指で棺に陣を描く。
「人間は血肉を代償にしなくてはいけない。カミサマと違って難儀だ」
「カミサマが何故普通の人間と共にいるんだい?」
ピタと動きを止めた彩樹は目を不思議そうに見開いた。
「普通?この子が?」
「魔力も持たない普通の―」
「何故魔力を持っていない?」
そう彩樹はリオに問い掛ける。
「全ての人間は多少なりとも魔力を持つ。しかし、この子には魔力がない。零なんだよ」
「………」
「まぁ、ぼくはこの子の願いに惹かれてともにいる。この子の強い強い願いに…それだけ」
陣を描き上げた彩樹はスッとその手のひらでそれを撫でた。優しく。優しく。
「………さぁ、ここからはあんたの仕事だ」
「?」
「あんたの妹の死を。この棺の主が娘の思い出の世界に残りたいと願うか、娘に会えるか分からない世界に逝きたいと願うか。あんた次第だよ」
リオは戸惑ったようだ。その姿に彩樹は明らかな不機嫌顔をして、身長の高いリオを見上げた。
「この子の前でその顔やめてくれない?それ、この子が嫌がる顔」
「す、すまない」
家族愛。
由宇麻が忌み嫌う感情。
リオはぐっと息を呑んだ。
「あんたの叔父はここにいる。好きに説得して」
「………………分かった」
少女は遥か遠い故郷で永遠の眠りについた。
彼女だけの愛する騎士に抱かれて…
「叔父様、フローラはもうこの世界にはいません。空へと旅立ちました」
リオは無表情で言葉を紡いでいく。
「ここに居てもフローラが愛した世界は見えない。叔父様、貴方の愛する娘が待っています。だから…」
もう休んで下さい。
心地好い風が二人の間をすり抜ける。彩樹はふっと息を吐くと、空を仰いだ。リオも同じように空を仰ぐ。
「行ったよ。アレンを頼んだってさ」
どんよりとした曇り空に微かに光が見えた気がした。
「良かった」
すると、リオから本物の笑みが溢れる。
…………………………………。
ちらりと見て顔を叛けた彩樹は胸を押さえて煙突に凭れた。
「彩樹君?」
「なぁ、あんたは未来をみるんだろ?」
荒い吐息で訊ねる。
「そうだよ」
「なら、由宇麻は?」
「彩樹君は何を訊きたい?」
細めた瞳が辛そうにする彩樹を捉えた。
「………………由宇麻は…何を望んでいる?」
二度目。
「僕の魔法は僕の意思では発動できない。ただ彼は死を望んでいた。君が由宇麻君に出会う前、彼は死を何よりも望んでいた。だけど今は違う。分かっているのだろう?」
「ぼくはたとえ由宇麻が認め、求めてもあの男は許さない。絶対に。あいつのせいであの方も由宇麻も何度も苦しんでいる。だからぼくは…」
「時間を止めた。だけど由宇麻君はいつだってあの子といるときは幸せだった」
分かってるんだ。
「最後の鎖が消えた。過去は現在に戻る。あんたも消える。最後に教えてやるよ。この子の願い…」
欲しいから壊す。それだけや。
あの男を欲しいと願う由宇麻は壊してくれる。
「司野由宇麻がきっと終わらす。ぼくはそう信じてる」
一気にその様相を変え、本来の姿になった屋敷で彩樹は薄くなるリオに言う。
「できたらいいね。僕は叔父様に頼まれたことをするだけ。僕からも最後に…ありがとう」
本当にできたらいいのに。
掴めない体で由宇麻の体を抱き締めたリオは完全にその姿を消した。