璃央の憂鬱(2.5)
「どうぞ。俺は外で待ってる」
付き合いの長い晴滋は、とある病室のドアをスライドさせた。
「有り難う。晴滋」
御礼を言って花束を抱え直すと璃央は一歩また一歩と病室へ足を踏み入れた。
「…慎」
布団から這い出る無数の管。その全てが一人の人間に繋がれているとは考えたくない。
―薬品による内臓腑の悪性侵食―
それが彼、崇弥慎に下された診断。薬品の影響によって内臓が徐々に侵され、やがて全てを食い尽くす。
薬品、それが何なのか。どうしてその薬品の影響を受けることになったのか。
“全てが謎”
璃央はベッドに横たわる師を見た。
治療不可能。
そんな現実を逃避したくて目を逸らしかけるが、微かに聴こえる静かな寝息がそれを堪えさせる。
「辛いですか?」
あと何日、いや、あと何年待てば彼は苦しみから解放されるのだろうか。
来る前に買ってきた花束を生けるために花瓶に水を入れようと璃央が椅子から立ち上がった時だった。
「…………璃央」
「!!」
振り返ればそこには師の昔から変わらない人懐っこい笑みがあった。
「久しぶりだな」
「…………………はい。お久しぶりです」
「その間は何だ?俺に会いに来てくれたんじゃないのか?」
変わらない。でも、違和感がある。
「慎」
「ん~?」
「目、見えないんですか?」
答えをじっと待つ。やがて、慎は瞳を閉じた。
「あぁ」
あっさりと肯定する。なんで素直に言うんだろうか。
「真っ先に視力をやられてな」
―やがて全てを食い尽くす―
全て。どうして最初に視力を奪ったのだろうか。
残酷だ。
「慎。どうしてそうなったのですか?」
だからつい訊いてしまった。
慎は窓を向く。見えていないのだから向いているだけ。
「さぁ」
「『さぁ』?」
「さぁ、だよ」
「何か隠してます?」
「それ、俺が答えると思うか?」
当たり前のことを突かれて璃央は口を閉じた。
「いえ」
慎は考え込むように眉を寄せて目を閉じる。少しして慎は璃央を布団から覗かせた指で近付くよう示した。
「何ですか?」
椅子をベッドに寄せ、璃央は慎に顔を近付けた。慎の目は閉じたままでその行動の真理は計り知れない。
すると次に慎は指で真下の床を指し示した。
「?」
普通に璃央は下を向いた。その時、
ゴンッ
後頭部を殴られた。
「っ…!!」
勿論、見上げた先の慎にだ…
「って、何するんですか!!!!!!」
「アハハハハ。あ~、面白いって、アハハ、ハハハ…腹がっ、アハハハ」
慎は管が繋がっているのであまり身動きがとれず、必死に身を捩る。
あまりの笑いぶりにカチンといきかける。
「慎っ!!!」
だからつい―それはもうつい―でこぴんを喰らわせてしまった。
カクンと力なく傾いた慎の目が閉じられる。
その後の反応なし。
…………………………まずい?
「…慎?」
反応なし。
「でこぴんで…そんな!?私のでこぴんがまずかったんですか!?」
どうしよう。
「慎、慎!死んじゃ嫌ですよ!」
ポン
「勝手に殺すなよ」
慎は管の繋がれた腕を伸ばして璃央の頭に手を乗っけた。
「第一、でこぴんで死ぬ奴がいるか!」
そして、顔を上げた璃央の額にでこぴんを喰らわせた。
かなり痛い。
「慎。目、本当に見えないんですか?」
「さぁ。俺には秘密の1つや2つあった方がいいだろ?」
何がいいんだか。
「1つや2つどころじゃないです」
「アハハハ」
慎はまた腕を伸ばして楽しそうに璃央の頭を掻き回した。
「璃央が教師…か」
「私が教師って可笑しいですか?」
「いや~、あの泣き虫だった頃を思い出すと…」
慎は口を閉じる。
「何ですか?」
「…………ッ、ハハハ……アハハ、ハハハハ…」
いい加減慣れてきた。
璃央は慎の笑いが止まるのを無表情で待つ。
3分後。
「あー疲れた。…………………なぁ」
不意に慎が真面目な顔をする。
「はい?」
「息子達のこと宜しくな。三人が揃うと、半端ないからな」
息子達。
それは実の息子の洸祈と葵だけでなく千里も入る。血が繋がっていなくても慎にとってはかけがえのない大切な息子なのだ。
そんな慎の発言に璃央は心が温かくなり、笑みを溢した。
「はい」
「それじゃあ」
「俺の家に行くんだろ?」
立ち上がった璃央に慎が訊く。
「はい。入学式だっていうのに二人とも理由なしに休んだんですよ」
「そうか」
慎は怒らずに顔を綻ばせる。
「千里が寂しがってるだろうな」
一人、遼で荷物の紐を解いている頃だろう。
「多分」
いや、絶対かな。
「…ちょっと頼まれてくれるか?」
「いいですけど」
「三人に入学おめでとうって伝えてくれないか?電話でもいいんだが、何分照れ臭くてな」
照れ臭い。慎の口からその言葉が出るとは。
「分かりました」
「それと、紫紋にちゃんと休めよって伝えてくれ。真奈が心配してるんだ。俺達も心配でな。晴滋なんか……」
「?」
「あの性格だから」
初めて会った者には決まって厳しい印象を与える。が、実際は面倒みがよくて心配性のお父さんのようなものだ。
「はい」
今度こそ璃央はドアに手を掛けた。
「花、ありがとな。また来いよ。璃央、琉歌」
振り返る弟子に慎は手を振る。
「慎こそ色々とありがとうございます」
璃央は師匠に深く頭を下げる。
―本当にありがとうございます―
心の中だけで呟く。
一瞬、胸元に光るシルバーのネックレスが青白く光った。