通信中…
夏盛り。
今日は台風の影響で朝からどしゃ降りだ。天気予報によると明日からは蝉をも茹だる暑さになるとか。
現在午後6時59分。営業終了時刻まであと1分。
あと30秒…
カランッ
ドアについている飾りが鳴った。
「すみません。もう営業時間を過ぎているんですが」
実際にはまだ営業時間を過ぎていないのだが、たったの30秒。話をするとなると営業時間を過ぎる。なら、これくらいの齟齬は許容範囲だろう。
洸祈はジーンズに半袖のパーカーといったお得意の格好で応接室のドアから顔を除かせた。
入り口に佇む黒い影。
そいつは疲れたように頭を垂れて立っていた。
「水、くれへん?」
「………………………は?」
「いやー、ありがとな。風呂まで借りてもうて」
水を一口飲むと、関西弁の男は白兎を胸に抱いて屈託のない笑顔を振り撒いた。
水が欲しいと言ったので一応、客として店に入れたら琉雨に「あれじゃあ風邪を引きます」と、風呂に入らせるよう言われた。洸祈は琉雨がそう言うならと見知らずのこの男を風呂場に案内し、小さくなって着れなくなった自分の古着を貸した。古着を貸したのはこの男、成人しているようだが身長は低く、小柄だったからだ。
「てか、水垂れてる。ちゃんと髪拭けよ!お前の来訪で濡れた応接室の床、俺が拭いたんだぞ!また拭かせる気か!?」
また一滴、髪から垂れた水は白兎の頭に落ちた。白兎はふるふると頭を揺らす。
「ほんまやな。兎さんごめんな~」
白兎に謝る間にも水は床に滴り落ちる。
………………………!!!!
「拭けって言ってんだろーが!!」
洸祈は礼儀を忘れて―既に忘れていたが―怒鳴ると、男の首にかかっていたタオルを掴んで無理矢理枯れ草色のその頭を拭いた。
「せっかちさんなや~、崇弥は」
男は気持ちよいのか猫のよに目を細めて言う。
「せっかちってなぁ!……?何で俺の名前知ってんだ!?」
「俺、司野由宇麻言うんや」
なんの脈絡もなく男は自己紹介をした。
「だから?」
白兎はピンと耳を立てて洸祈の方を向く。しかし、洸祈は首を傾けるだけだ。
「この人でなし!」
聞くが早いかこの男、由宇麻は洸祈を睨目上げた。
「はぁ?」
洸祈が睨み返す。
「うっ」
洸祈の眼光の鋭さに怯んだ由宇麻はその瞳を揺らした。下唇を咬み、眉を寄せて……
まずい、こいつ泣きそうだ。
洸祈は身を堅くしたが由宇麻はぐっと息を呑んで堪えた風であった。
肩を震わす由宇麻から白兎は脱け出すと洸祈のジーンズに顔を擦り付けて洸祈の興味を牽こうとした。
「分からへんの」と、ぼやく由宇麻を置いて洸祈は白兎を持ち上げる。
「お前、こいつ知ってんのか?」
洸祈は白兎に小声で話し掛ける。
「ここのお向かいさんが司野です」
白兎は少女の可愛らしい声で答えた。断っておくが普通の兎は喋らない。
「司野?…で、俺を知っているわけか。そして、俺がこいつを知らないから逆ギレしたと」
「…多分」
真実を話すと白兎は洸祈の護鳥の琉雨だ。
琉雨は耳を垂れて前足を動かした。
「何?」
「あの人、ルーのこととっても強く抱き締めるんです~。ルー、死んじゃいますっ」
白兎の紅い目を見ても分からないが、琉雨も多分涙目だ。
「じゃあ2階に居ればいいだろ?」
「久々のお客様ですし、近所付き合いが下手な旦那様の為にもルーはお向かいさんがどんな人かもっと見てたいです」
「随分の言い様だな。…分かったよ。俺の膝に居ろ」
「はひ!」
洸祈愛用の揺り椅子に座ると白兎がその膝に乗った。
問題はこいつだ。
「あ~、お向かいさん?立ってないで座ったらどうですか?」
「なんや知ってたんかいな。俺だけ崇弥を知ってるなんて悲しいもんなー」
その表情の切り替えが早いこと。
由宇麻はパッと顔を輝かせると、ばふっとソファーに腰掛けた。洸祈は小さく溜め息を吐くと顔を上げて由宇麻を見据え、
「水与えましたし、依頼料置いてお引き取りを」
手のひらを由宇麻に向けた。
「酷いで!水一杯やんか!」
「水一杯でも無料じゃないんだ」
…………………………………。
「崇弥のケチ!」
「旦那様!いくらなんでも!!」
二つの声が重なった。
…………………………………。
「誰の声や?」
「琉雨!このバカっ!!」
「ひゃう~ごめんなさい、旦那様ぁ~!」
「兎さん?」
「琉雨ですっ」
バレてしまったからにはしょうがない。琉雨は本来の姿で挨拶した。
ウェーブのかかった焦げ茶色の髪を肩にかかるかかからないかの辺りで切った手のひらサイズの少女。
その背中には淡い青色の羽が生えていた。
「崇弥の隠し子?」
由宇麻が真面目な顔をして洸祈を見た。
「んなわけあるか!!琉雨は俺と契約している魔獣だ!」
洸祈は由宇麻に掴みかからん勢いで怒鳴った。
「旦那様、喧嘩は駄目ですよー!」
「そうや。琉雨ちゃんの言う通りや」
「っ!!この野郎!」
本気で掴みかかる洸祈に、にへらと笑って由宇麻はまあまあと宥めた。
「なぁ、崇弥は酒飲めるん?」
「何を急に」
由宇麻の話は切り替えが早い。
「今日は酒飲みたい気分なんねん。付き合ってくれへん?」
「俺は未成年だ。悪いな」
下から見上げて懇願する由宇麻を洸祈はひらひらと手を振って出口を示した。
帰れ。洸祈の無言のアピールだ。
「崇弥って未成年だったん!?」
「だから、帰れ」
何を言っても冷たい洸祈に由宇麻は可愛らしく頬を膨らました。口出しの出来ない琉雨は洸祈の肩に止まって洸祈を見つめる。
「何でそんなに冷たいんや?俺は仲良くしたいのに」
「俺はお前が嫌いなんだよ」
一言。由宇麻は目を見開いた。
「旦那様っ!!」
琉雨が抗議の目を向けてくる。洸祈はそれを無視してポケットから紙を取り出した。
「お前、公務員だろ?それも労働課監査部。何しに来たんだよ」
それを読み上げる洸祈の声は酷く冷たい。
「俺の名刺…」
「濡れた服から頂いた」
「何で」
「先に俺の質問に答えろよ。何しに来たんだよ」
洸祈は揺り椅子から立ち上がると、由宇麻の前に立った。
「何って…なんにも」
怯えきった顔で由宇麻は縮こまる。
「単刀直入に訊く」
バンとソファーの椅子に由宇麻の手を叩きつけると間近から由宇麻を睨み付けて言った。
「お前はジャッジメントか?」
「………………政府代理人?」
「あぁ。お前は政府代理人か?」
ぎりっと強く由宇麻の手を握ると由宇麻は顔をしかめた。
「旦那様!それは拷問と一緒です!!」
「煩い、琉雨。こいつが政府代理人なら、これくらいしないと吐かない」
「もし、違かったら!!」
洸祈の腰にしがみつく小さな琉雨は必死に止めようとする。
「酒に付き合ってやるよ」
「あんまり乗り気せえへんな…」
由宇麻は痛みに堪えながら苦笑する。
「下手な嘘はやめろよ。簡単に分かるんだから」
「どうやって?」
由宇麻は洸祈を挑発する。
「お前を拉致って政府に身代金要求する」
「それで?」
「お前がもし、普通の公務員だったら政府は結果的にはお前を見捨てる。逆にお前がもし、政府代理人だったら政府はお前を取り返そうと金を用意するか情報漏洩防止のためにお前を殺すかしてくる」
「崇弥が殺されるかもしれへんで」
「あんな奴等に俺は殺せない。第一、俺が弱かったら政府は交換条件に俺に仕事を依頼してこないさ」
見えない政府を洸祈は嘲笑う。
「交換条件!?」
「あ…」
洸祈はつい勢いで言ってはならないことを言ってしまった。
「忘れろ」
「無理な命令やな。うっかり誰かに喋っちゃうかも」
「…お前っ!!」
「隙ありや!!」
「っ!?」
感情に流されやすい洸祈の隙を突いて由宇麻は手首を捻って逆に洸祈の手を掴むとソファーに組臥せた。
「ひゃう、旦那様!」
「俺は労働課監査部所属の司野由宇麻。俺の仕事は色んな会社行って、衛生管理等々の監査項目を埋めることや。その際、違法があればそれなりの対処をする。抵抗するようであれば、実力行使も対処の一つや。分かったか!?崇弥!」
「わ、分かった」
由宇麻はその童顔で洸祈を睨み付ける。洸祈はその剣幕に押されて頷いた。
「そして、俺がここに来た理由は喉が渇いていたからと、崇弥達と仲良くなるためや。酒に付き合ってくれるんやろ?」
「俺はまだお前を“政府代理人じゃない”とは認めてない」
「用心深いやっちゃなぁ。そんな性格やとモテへんで」
「30になっても未だに独身のお前に言われたくない。どうせ、彼女いないんだろ?」
由宇麻の表情が強張った。
「何で30やて分かるんや」
「名刺に書いてあった」
「歳まで入ってへんで!」
「本当に?」
由宇麻は考える素振りを見せると、確認しようとして名刺の入った財布を…
「財布!」
「返すから手を放せ」
洸祈は掴まれている手を動かす。
「じゃあ、俺は政府代理人じゃないってこと認めてや」
「財布はいいのかよ」
どうせ財布を取るんだろ?そういった質問だ。しかし、由宇麻は洸祈の予想に反した。
「いい。崇弥が俺は政府代理人じゃないと認める方が重要や」
由宇麻は頭を振る。
「何でそこまで拘るんだよ」
「仲良くなりたいからや」
由宇麻の手が洸祈の腕を強く掴む。
「痛い」
「さっき俺にやったやんけ。認めるか?」
「認められるか」
強情者。由宇麻はむっと不機嫌に言う。
「じゃあ、俺の生い立ちから話せばいいん?…両親の離婚も、お爺ちゃんが育ててくれたことも、そのお爺ちゃんが亡くなったことも、今更になって両親が俺に家くれたことも」
「やめろ!…やめるんだ」
洸祈は一度語調を荒げるとやがて懇願するように由宇麻を見上げた。
「そうです!やめて下さい!!今の由宇麻さん、辛そうです」
琉雨が洸祈の胸の上に乗って叫ぶ。由宇麻は歪んだ顔を二人に向けるだけだ。
「悪かった。本当はお前の財布の中身を見た時からお前が政府代理人じゃないとは思ってたんだ」
「なら何で」
「俺は良く知らない人間を信用は出来ない」
洸祈はきっぱりと言い切る。
「お向かいやんけ」
「“お向かい”なだけだろ?違うか?お前の名前も仕事も姿も声も重さも喋り方も力も今知った。だから、俺は今、お前を認めたんだ」
由宇麻は洸祈から手を放すとちょこんとソファーの隅に座った。一人うんうんと頷くと体を起こした洸祈の方を向いた。
「仲良くしてくれるん?」
「交換条件のこと忘れるならな」
「忘れられんけど…」
「おい!」
「完全には誰だって忘れられんやろ」
まぁ、そうだ。
「だけど、詮索はしないし、誰にも喋らへん。これでええやろ?で、仲良くしてくれるん?」
財布をパーカーのポケットから出して投げ、その問いに洸祈はわざと意地悪をして返した。
「下心がないならな。言っとくが琉雨は外見は可愛いくても中身は野獣だからな」
「はう!野獣!?ルーは野獣じゃないですっ!!!」
洸祈に襟首を掴まれた琉雨はばたばたと手足、羽を動かした。
「ほら、野獣だろ」
「ち~が~う~」
「琉雨ちゃんは八方美人さんや」
由宇麻が満開の笑顔を見せる。洸祈と琉雨は目を見合わせた。
「誇張し過ぎで逆に貶しているように見えるぞ、司野」
洸祈はにやりと笑った。