王太子の追放
1. 婚約破棄
「コルネリア・ブラバンデル! 俺はお前との婚約を破棄する!」
大聖堂の宴会場を揺るがすような大声で言い放つと、百人はくだらない貴族たちが一斉に息をのんだ。煌びやかなシャンデリアの下、エーヴェ国との通商条約締結を祝う晩餐会は一瞬にして静寂に包まれる。
俺の隣には、金で雇った旅芸人の娘、ミナが立っている。派手なドレスを着せられて居心地悪そうに身を縮めているが、大女優よろしく怯えるふりだけは完璧だ。
「俺の心はすでにこの娘、ミナにある。王族の義務など知ったことか!」
我ながら大根役者だな、と思う。
視線の先には、俺の婚約者――いや、元婚約者となったコルネリアが立っていた。二十歳。ブラバンデル公爵家の令嬢であり、国中の誰よりも優秀な政務能力を持つ美しき娘だ。彼女はショックを受けたように紫の瞳を微かに揺らしたものの、一切の涙を見せなかった。淑やかに胸に手を当て、完璧な貴族の礼を返してくる。
「……承知いたしました、アレックス殿下。お申し出、謹んでお受けいたします」
声は一筋も揺れていなかった。だが、俺には見えた。彼女の右手の親指が、人差し指の節を強く握り締めているのを。傷を負った時に痛みを耐える、彼女の昔からの癖だ。
すまない、コルネリア。お前が俺を恨んでくれるような人間であれば、事はもう少し簡単だったのだが。
心の中で呟き、俺はミナの手を取ってざわめく民衆に背を向けた。
――半年前、王妃である母が亡くなった。俺の母は国境を守るクラウフェルト辺境伯家からローデヴェイク王家へ嫁いできた人だった。クラウフェルトは国の防壁として長年重宝されていたが、今回エーヴェとの平和条約が結ばれたことで、一転して「武力を持ちすぎた王家を脅かし得る勢力」と成り下がったのだ。
焦ったクラウフェルトは孫である俺をブラバンデル家から引き剥がし、自勢力から新たな婚約者を選び出して王家との繋がりと権力を維持しようとした。その矛先がコルネリアに向き始めていた。俺がこれを退けても、あるいはクラウフェルトを支持しても、俺が王になる頃には血みどろの権力闘争が起きる。
そして俺はコルネリアの父であるブラバンデル公爵と裏で手を組んだ。
『殿下、汚名を被ってくださるか。あなたは生きている限りクラウフェルトの剣であり盾なのです』
『このまま死ねというのか? 泥沼の争いになるぞ。それくらいは俺にも分かる』
『まさか。ただ、王太子の座を退く……そうするに足る罪を犯していただきたい』
公爵はそう言った。それはつまり何かして処刑されろという話に聞こえるが、やり手の公爵が差し出してきた案なのだ、俺の想像するよりもよほど複雑な裏があるに違いない。謀りごとについては分からずとも、この男の頭脳は信頼できる。コルネリアの父なのだから。
俺はもともと武人だった。幼い頃から政務はからっきしで、書類仕事の山を見ると頭が痛くなる。そういう俺を隣で支え続けてくれたのは、異母弟のマルセルだった。あいつは私生児だが、独力で帝王学を身につけ、人脈を築き上げ、俺の補佐の座へとのぼり詰めたのだ。その出生にもかかわらず公私にわたって俺の至らぬ部分を補ってくれた。
そこでふと思いつく。
『マルセルを王太子にするのか?』
そうなればクラウフェルトは剣と盾を失うことになる。マルセルには後ろ盾がないが、すでに宮廷の実務を担う実力と名声を持っている。俺が王太子の座を失うようなことでもあれば、父はマルセルを認知せざるを得ないだろう。あいつは俺よりもずっと政務に向いている。誰も不服はあるまい。
もう一つ、重要なことがある。マルセルは本が好きだ。執務室にも邸宅にも古今東西の本が溢れている。よく俺の後ろをくっついて歩いていたあいつは、コルネリアに憧れて勉学に励んだのだ。
宮廷という場所にありながら俺たちは幸か不幸か兄弟仲がすこぶるよかった。だからマルセルは、己の想いを本棚の奥に仕舞い込んで俺に尽くす道を選んだ。
俺には向いていないことがいろいろとあった。本当なら全部放り出してどこか異国で傭兵でもやっていたいものだ。そんな無責任な男が王になるのも、コルネリアの夫になるのも、間違っている。
2. 令嬢の失恋
通商条約締結の祝いよりも婚約破棄の衝動ばかりが残された晩餐会の翌朝、わたくしは自室の鏡に映る顔をじっと見つめていた。廊下からは侍女たちの遠慮がちでいて好奇心に塗れた囁き声が聞こえる。
「あのコルネリア様が捨てられただなんて」
「公の場で恥を晒してまで別れたいとは、殿下もよほど追いつめられてらしたのね」
「剣や政務ばかりで、可愛げがなかったから……」
砂時計をひっくり返した。今だけ。今だけは静かに泣く時間を自分に与えよう。
「失礼ですわね。わたくしに可愛げがないのは否定できませんけれど、政務能力は父上譲りの本物ですのに」
誰もいない部屋で呟く声がやけに大きく聞こえて虚しい。でも、それが原因だったのかもしれない。わたくしは確かに殿下を支えるために力を尽くしたけれど、殿下にそれを求められたことはなかったのですもの。
落ちていく砂を見つめながら、十年前の記憶が蘇る。
十歳の冬、初めてお会いしたアレックス殿下は、剣の稽古で流れた汗を拭いながら「その歳で政の本を読むのか。俺にはできん。素晴らしいな」と笑ってくださった。寒気を払い、春を呼んでくるような笑顔だった。
それから三年と経たぬ間に、陛下と父上によってわたくしたちの婚約の取り決めが交わされた。すでに頼もしい青年の顔になりつつあったアレックス殿下は、真剣な瞳でわたくしを見つめた。
『コルネリア。俺は不器用だ。正直に言って、婦女子の好むような恋だの愛だのはさっぱり分からん。だが、夫となるからにはお前への誠実さを誓うよ』
『充分ですわ』
アレックス殿下はそのままで構わない。恋は、わたくしがこれから育てればいいのですもの。
そう、十年かけて、大事に、大事に育ててきたはずだった。殿下が苦手な政務をすべて支えられるよう、国庫の仕組みも、税制の裏側も、妻として必要なことは余さず学んだ。彼が王になる時、そしていずれこの世を去る時まで、わたくしが彼の一番の味方でいると決めていた。
アレックス殿下は確かに宮廷を悠々と闊歩できるほどの策略家ではなかったけれど、たとえ彼が道を誤って地獄へ落ちるとしても、わたくしはどこまでも一緒に行きたいと思っていた。
なのに、地獄の入り口で置いていかれてしまった。
砂時計の砂が落ち切る。わたくしは息を吐き、冷たい水で顔を洗った。泣くのは終わりにしなければならない。殿下には愛しいお相手ができたのだから、わたくしの未練を押しつけてはならない。
窓の外が夕焼けに染まると、わたくしはお父様の書斎に呼ばれた。
「コルネリア。王家に以下の請求を行う。アレックス殿下の廃嫡、および追放。そしてマルセル殿の王位継承権の認定と、お前との婚約だ」
「お、お父様! それはあまりに酷すぎますわ。廃嫡……追放だなんて!」
「よく考えなさい。殿下は婚約者であるお前を裏切ったのだ。あまつさえ、祝宴の場で公然とお前を侮辱した。ひいてはブラバンデル家への侮辱だ」
お父様が冷たく言い放ち、わたくしは何も言い返せなかった。外交を有利に運ぶための文句はたくさん学んできたはずなのに、何も言葉が出てこない。
「そもそも、王太子でもなければ我が家と釣り合う家はもう我が国にない。陛下としても、アレックス殿下をこのままにはできまい。穴を埋められるのはマルセル殿だけだ。よい機会だったのだよ」
王家の傍流にして、国内で唯一の公爵家。わたくしたちの婚約は生まれた時から決まっていた。アレックス殿下とわたくしの、ではなく、ローデヴェイク王家とブラバンデル公爵家の婚約だった。
唇に痛みを感じて、無意識に噛みしめていたことに気づく。
「わたくしに魅力が足りなかったのでしょうか。殿下に想い人がおられること、少しも気づきませんでした」
ぽつりと漏らした言葉に、お父様は苦虫を嚙み潰したように窓の外へ視線を逸らした。
「お前は一途な良い娘だよ。しかし、どうにも尽くしすぎる。王太子の妻となり、王の妻となるのなら、共に地獄へ落ちてはならぬのだ。お前があの婚約破棄の場で、殿下を叱責できるほどであれば……」
お父様はそれ以上、何も語らなかった。
殿下の不貞を責めるほど強く、あるいは詰るほど弱くあれば、よかったのだろうか。だとすれば、どちらにしてもわたくしはアレックス殿下の隣に相応しくなかったのだと思う。
翌朝、わたくしは東棟の執務室へと向かった。王太子の代わりに書類の山に埋もれていたマルセル様が、わたくしを見て弾かれたように顔を上げる。
「コルネリア様! どうされました。兄上は……その、正式な沙汰を待って謹慎中ですが」
「マルセル様。公爵からお話は聞いておられますか」
わたくしがまっすぐに彼を見つめると、マルセル様の手からペンがぽとりと落ちた。
「兄上のことでしょうか。それとも、私とあなたのことでしょうか」
「どちらもです。……捨てられたばかりの娘とでも、結婚していただけますか?」
長い沈黙のあと、彼は泣きそうな声で答える。
「私でよろしければ、喜んでお受けいたします」
3. 兄弟
「喜んでお受けいたします」
そう答えた瞬間、胸の中で歓喜と共に猛烈な罪悪感が溢れ出した。私は兄上からすべてを奪う盗人だ、と。
私の母はしがない宮廷のメイドで、私が幼い頃に病死した。王妃陛下との間に第二子を授からず、ステファン陛下もよほど焦っていたようだと噂話の中で当時のことを聞かされた。私は宮廷に引き取られたが、王妃陛下の手前、認知されることはなかった。
そんな日陰者として生きてきた私にも腹違いの兄上は分け隔てなく接してくださった。
兄上は教科書を開くとすぐに教師から逃げ出す人だったが、誰よりも情に厚かった。
『マルセル、俺は書を見ると目が滑るんだ。頼む、助けてくれ!』
そうして兄上の勉学を手伝っているうちに、私は帝王学を身につけることができた。妙な輩に担ぎ上げられて兄上との争いが生まれぬよう、社交界に気を配っているうちに人脈も築かれた。やがて私が十五歳になる頃には、兄上は私を補佐官に抜擢し、確固たる居場所を与えてくれたのだ。
私はいつも兄上のそばにいた。いつも兄上の後を追っていた。だから、彼らが婚約してからもずっと、コルネリア様のことを見ていた。
彼女が図書館に寄贈した政務の覚書を擦り切れるまで読み耽り、彼女が好むという本を調べては、自らの解釈を挟んで彼女へ送り届けてみたりもした。やがて彼女から時には反論の、また時には賛同の論文が返ってくるようになった。甘さなど欠片もない関係。当然だ。彼女は兄上の許嫁であり、未来の王妃なのだから。私はそれでも満足だった。
なのに――。
ブラバンデル公爵の要請は驚くほど速やかに陛下のもとへ届き、兄上の処分はたったの三日でくだされた。廃嫡、国外追放。王太子の地位を軽んじ、高貴な令嬢を公然と辱めたにしては軽い。だが、アレックス・ローデヴェイクを知る者ならば、誰もがあの日の出来事に違和感を抱くに違いなかった。
「兄上、なぜですか。たとえ想い人ができたとしても、あなたなら正直にコルネリア様に打ち明けたはずです。なぜあのようなことを」
「うるさいぞ、マルセル」
兄上はいつもの大雑把な笑みを浮かべて、私の肩を強く叩いた。
「いいじゃないか。俺みたいな脳味噌まで筋肉でできてる男が王になったら、国境の連中に利用されて国が傾く。その前に色恋沙汰で愚かさを示せたのだ、まだしも上出来だろう」
「コルネリア様はどうなるのですか!」
「それはお前が考えろ」
兄上はふと表情を和らげると私に背を向け、大股で城門の外へと歩き出した。
「すでに家族みたいなもんだったから難しいかもしれんが、お前たちならいい夫婦にはなれるだろう。惚れてもらえるかは、お前次第だ」
「あ……兄上……っ!」
「気合を入れろよ」
頬が一気に熱くなる。それきり兄上は一度も振り返らなかった。
4. 傭兵
「アレックス、火が消えそうよ」
「おう、すまん」
国境を越え、自由都市の近くのキャンプ地。俺はシチューの入った椀を片手に、もう片方の手で焚き火に薪を放り込んだ。隣ではミナが干し肉を齧りながら興味深そうに俺を見ている。
「ほんとに良かったの? 黙ってりゃ王様になれるはずだったのに、ろくな報酬もなくこんな地べたで寝起きする生活になっちゃってさ」
「体が沈んで窒息しそうなほど柔らかいベッドより寝心地がいいぞ。俺にはこの剣を好きなように振り回せるだけの、広い空の下が性に合ってる」
ここに到る道中、襲ってきた賊を一網打尽にしてやったら、街道の商隊から「隊長!」と崇められ、いくらかの金になった。そこで思った。ああ、剣一本で食っていく傭兵暮らしも悪くない。
「……で、元婚約者の彼女さんには、本音を言わなくて良かったの? よっぽど傷ついてたよ。あの子なんにも悪くないのにね」
「ああ。だから、お前を雇わねばならなかった。ただ俺が愚かなだけでは、コルネリアは一緒に破滅してしまう」
「だったら『お前を嫌いになったから別れてくれ』って言やあいいじゃないか」
「宮廷というのは、そう単純に済まんのだ。それにコルネリアに嫌いになるような悪いところはない」
「ふぅん。馬鹿みたい」
「だから出てきたわけだ。いや、厳密には追放されたのだが」
ミナは呆れたように息を吐くと、荷物から酒瓶を取り出して呷った。豪快だ。
「ま、いいさ。あんたはこれからただのアレックスだ。あたしは雇われの相棒。……あ、ちなみに夫婦のほうが宿代が安くなるから、次からは夫婦のふりしようよ」
「それは詐欺じゃないのか?」
「じゃ、結婚しちまえばいいわよ」
「「えらく簡単に言うな」
「庶民なんてそう単純にいくものよ」
思わず笑って、そのまま雄大な星空を見上げる。今頃、王都では新しい時代が始まっている頃だろうか。
5. 新しい春
アレックス殿下が姿を消してから約半年。王都の大聖堂で、わたくしとマルセル様の婚礼の儀式が執り行われた。民衆は「王冠より恋を選んで逃げた愚かな前王太子」と「国を救った聡明な新王太子」の物語を面白おかしく語り合っている。わたくしは自分がその渦中にあることを未だ実感できずにいた。
式を終え、私室で二人きりになった夜。マルセル様は緊張した面持ちで一枚の古い紙をわたくしに見せてくれた。
「これは……わたくしの筆跡ですね」
「はい。十三歳の時、あなたが寄贈された『税制改革の覚書』です。私はこれを見てあなたという人に心を奪われました。ずっとあなたに追いつきたかった。兄上を支えることで、あなたを支え続けたかった」
そしてマルセル様は深々と頭を下げた。アレックス殿下の地位を奪ってここにいることを。
「私に兄上の代わりはできません。ですから、兄上と違う形で、あなたを幸せにすると誓います」
十三歳の時。わたくしがアレックス殿下と初めて出会って以来、彼の妻となるために努力してきた最初の成果。それをマルセル様はずっと追いかけてきたという。
まだマルセル様に恋をできてはいない。でも、妻となったからには誠実にありたい。かつてアレックス殿下が仰ったことが胸に浮かぶ。彼もわたくしに対してこんな気持ちだったのかと思えば、笑ってしまいたいような、泣きたいような気持になる。
「わたくし、夫を他の方の代わりにするほどふしだらではありませんことよ」
「っは、はい! すみません、そんなつもりでは……」
途端におろおろと慌て始めるマルセル様を見て、つい心からの笑みが漏れる。
「マルセル様、これからわたくしたち、一緒に新しい物語を書き綴っていきましょう。本当は……ちょっぴり甘いロマンスにも興味があったのです」
そう言うと、マルセル様はこれ以上ないほど顔を真っ赤にしてしまった。
東の窓から、春の兆しを含んだ風が吹き込んでくる。どこか遠いところにいても、きっとあの人が豪快に笑っている気配がした。
裏切りから始まったこの場所で、わたくしたちは今日、新たな一歩を踏み出したのだった。




