第2話:数字で守る城
戦務評議室は、朝から静かすぎた。
誰も雑談をしない。椅子を引く音すら、必要最小限だ。 地図、被害報告書、予算表が机の上に整然と並び、紙の白さだけが目立っている。
下級兵の一人が、無意識に喉を鳴らした。 その音に、自分で驚いて姿勢を正す。
——扉が開いた。
エリシア・リュミエールが入室する。
号令をかける前に、全員が立ち上がった。
「座りなさい。立つ時間が増えると、会議時間が減る」
慌てて全員が着席する。
エリシアは席に着くなり、誰の報告も待たずに口を開いた。
「前回侵入件数、一件。人的被害、ゼロ。建物損傷、ゼロ」
紙に視線を落としたまま、淡々と続ける。
「修繕費、ゼロ。作戦成功率、百パーセント」
数字が机に並べられるたび、誰かの背中が強張る。
「質問は?」
沈黙。
ロイドが口を開きかけ、やめた。
その沈黙を、ペンを落とした音が破った。
「……拾いなさい。五秒以内」
文官が慌ててペンを拾い、深く頭を下げる。
「城は、英雄で守るものじゃないわ」
エリシアは顔を上げ、全員を見渡した。
「数字よ。被害件数、費用、成功率。これが全て」
誰も反論しない。
「負傷者一名。訓練遅延と人員再配置が発生する」 「壁一枚。修繕費と税金が消える」
机を、指先で軽く叩く。
「被害が出なければ、全て成功。出た瞬間に失敗」
ロイドが、勇気を振り絞ったように口を開く。
「予防的に、巡回人数を増やす案が——」
「人件費はいくら増える?」
「……算出できていません」
「では却下」
即答だった。
ロイドはそれ以上、何も言えなかった。
その時、評議室の扉が、きぃ、と小さく開いた。
黒猫が一匹、すっと中に入ってくる。
「……猫?」
誰かが、思わず呟いた。
黒猫は迷いなく歩き、エリシアの机に跳び乗る。
「そこは書類が——」
エリシアは書類を一枚ずらしただけだった。
「危ないから、端に寄りなさい」
黒猫は尻尾を揺らし、当然のように居座る。
会議室の空気が、わずかに歪んだ。
「……被害想定シミュレーション、再提出」
黒猫が、にゃあ、と鳴いた。
「今のは反対意見じゃないわ」
部下たちは必死に視線を逸らす。
「被害ゼロを維持する。方法は問わない」
エリシアは言い切った。
「以上。数字は嘘をつかない」
解散。
部下たちは静かに立ち上がり、音を立てずに退出していく。
ロイドだけが一瞬、振り返ったが、何も言わずに出ていった。
評議室には、エリシアと黒猫だけが残る。
黒猫は机の上で丸くなり、喉を鳴らした。
「……猫は、気楽でいいわね」
その声は、誰に聞かせるでもなかった。




