第15話:それでも決断する
朝の回廊は、音が少なかった。
足音はある。警備兵もいる。
それでも、何かが意図的に削ぎ落とされたような静けさが漂っている。
姫は歩いていた。
背筋は伸び、視線は前。いつもと変わらない。
ただ、歩幅が半拍だけ短い。
肩の上ではノクスが動かず、体温だけがじんわりと伝わってくる。
重い、とは思わない。ただ、そこにいることを強く意識させられる。
小評議室の扉が閉まる。
レオンが右、ガイウスが正面。
三人と一匹。
机の中央に地図が広げられた。
「城外南西、二十五里」
ガイウスが淡々と報告する。
「小集落周辺で、低位モンスターの発生が確認されています。数は少数。ですが――」
地図の一点を指す。
「地形が悪い。林と岩場が多く、視界が取れません」
姫は頷く。
促すような仕草はしない。ただ、聞いている。
「従来通りの被害ゼロ対応であれば」
ガイウスは言葉を切り、数字を示す。
「大部隊投入が必要です。確実性は高い」
「その分、城と他地域が薄くなる」
姫が続ける。
「はい。ですが、前例は守られます」
“前例”。
その単語が、机の上に落ちる。
レオンは地図を見ていた。
しばらくして、ぽつりと言う。
「……この規模で、そこまでやるのか」
ガイウスが眉を動かす。
「被害ゼロが方針です」
「方針は分かってる」
レオンは視線を上げない。
「ただ、守るものが多すぎる」
姫は二人を見比べない。
書類に目を落とす。だが、文字は追っていない。
ペン先が、止まる。
室内の空気が、わずかに張り詰めた。
ノクスの尻尾が、一度だけ揺れる。
「選択肢は二つ」
姫が口を開く。声は平坦だ。
「従来通り。もしくは、限定対応」
ガイウスが即座に応じる。
「限定対応は、被害の可能性を残します」
「ええ」
否定しない。
そこに、間が生まれる。
姫は指で数字をなぞる。
成功率、損耗率、配置図。
「被害想定は最小。失敗確率は低い」
いつもの分析。
いつもの判断材料。
レオンは黙っている。
止める準備だけを、している。
姫は最後に顔を上げた。
「その被害が出た場合」
一拍。
「現地責任は、私が引き受ける」
沈黙。
ガイウスの視線が、はっきりと動いた。
「……それは、前提条件にありませんでした」
「だから追加したのよ」
淡々とした返答。
だが、そこにいつもの刺はない。
「姫」
ガイウスは慎重に言葉を選ぶ。
「それでも、被害が出る可能性を残す、と?」
「残すわ」
即答だった。
「可能性を消すために、別の可能性を切り捨てるのはやめる」
数字の話ではない。
ガイウスはそれを理解する。
記録官としてではなく、現場を知る者として。
「……記録には残ります」
「構わない」
姫は椅子に深く座り直す。
「限定対応。条件付き」
「指揮官を一名増員。撤退基準を明文化。失敗時の責任は――」
一瞬、言葉を切る。
「――私名義」
レオンが、ようやく顔を上げた。
姫を見る。
止める理由を探す視線。
見つからない。
短く、頷いた。
会議はそれで終わった。
誰も「正しかった」と言わない。
誰も安堵しない。
ノクスが小さく鳴く。
それだけが、音だった。
姫は立ち上がり、扉へ向かう。
その途中、一瞬だけ目を閉じる。
疲労ではない。
迷いでもない。
ただ、重さを受け止めるための、一拍。
扉が開く。
回廊の空気が流れ込む。
姫は歩き出す。
短い歩幅のまま、しかし止まらずに。
それでも、決断する者として。




