第14話:眠る姫
執務室には時計の音だけがあった。
それ以外は、何も。
姫は書類に目を落とし、淡々と判を進めている。
文字は正確で、判断は速い。
迷いも、躊躇もない。
紙を揃える。
次の束を引き寄せる。
一瞬だけ、文字が滲んだ。
姫は瞬きをして、続きを読む。
指先が紙の端を押さえ損ね、わずかにずれる。
直す。
それだけ。
立ち上がる。
棚に戻すためだ。
一歩。
足が、止まった。
理由はない。
痛みも、めまいも、警告もない。
ただ、力が抜けた。
膝が折れ、身体が傾く。
椅子がわずかに動いた音だけが、部屋に残った。
姫は声を出さなかった。
何かを掴もうともしなかった。
そのまま、床に崩れた。
扉が開く。
レオンは中を見て、言葉を失った。
声を出さず、駆け寄る。
姫の名を呼ばない。
呼べば、起きないと認めることになる。
肩に触れる。
反応はない。
その時、ノクスが動いた。
いつもより高い位置に跳び、姫の胸元に乗る。
顔を覗き込み、じっと見つめる。
鳴かない。
触れもしない。
ただ、判断するように見ていた。
ノクスが目を閉じる。
何も起きない。
少なくとも、そう見えた。
魔法灯が、わずかに暗くなる。
反応板の光が、静かに沈む。
風の音が、消える。
城全体から、音が抜け落ちた。
レオンは気づいたが、説明できなかった。
何かが止まった、という感覚だけが残る。
ガイウスが来る。
状況を見るなり、即座に動く。
医務官を呼ぶ。
夜間指揮を止める。
城を静音体制に切り替える。
誰も反対しない。
命令は、もう必要なかった。
姫は運ばれる。
抱き上げられ、回廊を進む。
目は閉じたまま。
眉一つ、動かない。
王城の私室。
使われることのなかった寝台。
姫はそこに横たえられる。
医務官は診察を終え、短く言った。
「……異常です」
数値は崩れていない。
魔力も、精神反応も、基準内。
それでも、異常だった。
「睡眠遮断の限界です。
治療は……眠らせること」
薬は要らない。
魔法も要らない。
ただ、眠らせる。
ノクスが枕元に丸くなる。
それだけで、十分だった。
魔法灯が元の明るさに戻る。
城が、ゆっくりと動き出す。
姫は眠っていた。
眉間の緊張がほどけ、
呼吸は穏やか。
判断する顔ではない。
守る者でもない。
ただ、眠る人だった。
レオンが小さく言う。
「……やっと、止まったな」
ノクスは答えない。
ただ、その場を離れなかった。
城は静かだった。
それでも、この夜ほど
多くのものが守られた時間は、なかった。




