第12話:数字に残らないもの
王城第三会議室は、いつもより空いていた。
長机の端に座る姫の前には、紙が三枚。どれも同じ結論を指している。
「――以上です」
ガイウスが報告を終える。声は平板で、数字は整っていた。
「被害件数、前月比で二割減。
対応時間も短縮されています。
第十話以降、死者は……出ていません」
最後の一文が、わずかに間を空けて告げられた。
姫は頷いた。
「良好ね。想定通り」
指先で書類を揃える。紙の端がきれいに重なった。
「巡回頻度は現状維持。
予算再配分は第三案で。
報告、以上?」
「……はい」
会議はそれで終わった。
誰も異を唱えず、誰も安堵の声を上げない。
全てが、正しかったからだ。
廊下に出ると、ガイウスが一歩遅れて口を開いた。
「姫」
「何」
「……数字の外の話です」
姫は足を止めなかった。
「“数字の外”は、報告書にしづらいわね」
「承知しています。ただ――」
一瞬、言葉を探す間。
「現場が、静かすぎます」
姫は立ち止まった。振り返らない。
「恐怖?」
「いいえ」
「不満?」
「それとも違う」
ガイウスは眉を寄せた。
「……沈んでいる、という表現が一番近いかと」
姫はしばらく黙った。
「記録に残らない空気は、対処不能よ」
それは拒絶ではなく、事実の確認だった。
「了解しました」
ガイウスはそれ以上言わなかった。
言えなかった、と言うべきかもしれない。
医務室は薬草の匂いがした。
ノクスが勝手知ったる様子で椅子に飛び乗る。
「……連れてきた覚えはないのだけれど」
小さく言うと、ノクスはしっぽを一度振った。
医務官は書類をめくり、姫を見上げる。
「睡眠時間、短いですね」
「支障はないわ」
「食事量も減っています」
「裁可中は食べません」
脈拍、瞳孔、反応速度。
どれも基準値内。
「結論として――」
医務官は言葉を選んだ。
「明確な異常はありません。
記録上は、問題なしです」
姫は頷いた。
「そう」
問題がない。
それは、安心できる言葉のはずだった。
なのに、どこかで逃げ道が塞がれた気がした。
執務室へ戻る途中、レオンが壁にもたれていた。
「珍しいな」
「偶然よ」
「……重なって見えてるか?」
姫は一拍遅れて答えた。
「今回は違う」
即答ではなかった。
「同じ過ちは、繰り返していない」
「そうか」
レオンはそれ以上踏み込まなかった。
ただ、通りすがりに言う。
「“違う”と説明できる時ほど、似てる場合もある」
姫は足を止めなかった。
夜。
旧資料庫の灯りが一つだけ点いている。
姫は埃を払うこともなく、古い記録を開いた。
あの事件。
判断は迅速で、理屈は完璧だった。
救えた多数。
零れ落ちた、少数。
当時の自分の文字が、冷静に理由を書いている。
――最適解であった。
今と、同じだ。
姫は頁を閉じた。
胸が痛むわけではない。
涙も出ない。
ただ、思った。
(私は……慣れてしまったのではないか)
同じ構造を見ても、感情が動かない。
それが正しさの証明なのか、欠落なのか。
分からない。
分からないこと自体が、怖かった。
机に手をつくと、温もりが触れた。
ノクスだった。
何も言わず、ただそこにいる。
姫は深く息を吐いた。
初めて、意識して。
「……戻りましょう」
ノクスは静かに降りた。
執務室。
山のような書類。
姫はいつも通り、正確に裁可を進める。
(私は、間違っていない)
判断は合理的。
結果も出ている。
(でも……足りていない)
数字で守れるものは、守っている。
それでも、指の隙間から落ちるものがある。
それを拾えない自分を、
責める気にはなれない。
――それが、一番怖い。
新しい報告書が届く。
数字は良好。
問題なし。
備考欄に、小さな一行。
「例外事案、未整理」
姫は、その紙を取ったまま、動かない。
裁可の印は、押されなかった。
部屋は静かだった。
静かすぎるほどに。
そしてその沈黙の中で、
姫の精神は、限界の縁に静かに近づいていた。




