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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

一握りのマグロ ―現代に蘇ったクリシュナ―

作者: 田中裕太

現代に蘇ったクリシュナ。困窮したバラモンは学生時代の親友クリシュナに援助して貰おうと王になったクリシュナに一握りのマグロを持って会いに行くが...

第一章 団地の台所


 団地の台所には、冬の湿り気が張りついていた。

 換気扇は油に鈍く覆われ、低い唸りを上げながらも空気をほとんど動かさない。壁紙は長年の蒸気に蝕まれて黄ばみ、角には薄い黴が地図のように広がっている。流し台の上には使い古された鍋、取っ手の塗装が剥げたフライパン、欠けた茶碗。どれも日々の戦いを物語る小さな遺物のようだった。


 ちゃぶ台の上には、一冊の家計簿が開かれていた。罫線に赤く刻まれた数字は、まるで出血の跡のように真を睨み返す。鉛筆の芯の擦れ跡が何度も修正され、消しゴムでこすられた紙は毛羽立ち、ひとつの生活の呻吟をそのままに写していた。


「……もう、無理なのです」

 妻は鉛筆を握ったまま、かすれた声で呟いた。まぶたの下に滲む影は、眠れぬ夜の積み重ねを物語っていた。

「子どもたちに、冬の服を買えない。靴下の穴も繕えない。このままでは……どうしても、あの方に」


 ――あの方。

 妻が口にするまでもなく、真にはすぐに思い浮かんだ。黒木慎。大学時代を共に過ごした友であり、今や世界的に知られる環境活動家だった。テレビの画面に映る彼は、群衆を前に胸を張り、地球の未来を語りかける。その姿は炎のようにまぶしく、拍手と歓声が常に伴っていた。


 けれど真にとって彼は、近づくことをためらわせるほどの光そのものだった。

 友であるはずなのに、いや友であるからこそ、頼ることは屈辱に等しかった。自分は研究に挫折し、今は団地の片隅で細々と非常勤を掛け持ちし、家族を支えるのに精一杯。かたや黒木は、世界を舞台に人々を動かし、未来を拓こうとしている。


 その差は、時に友情を越えて「断崖」に見えた。


 しかし、ちゃぶ台越しに見た妻の目の潤みが、真の逡巡を押し流した。

 それは涙ではなかった。涙の手前でかろうじて留まる透明な水。だがその奥には、母として子どもを守れぬことへの罪悪感と、妻として夫に重荷を背負わせる悔しさと、すべてを呑み込んでしまいそうな暗い渦が潜んでいた。


 真はその渦を見てしまった。

 そして、心の奥底でかすかに響く声を聞いた。

 ――立て、須田真。

 それは神話の号令でもあり、かつて学生時代に黒木と語り合った理想の残響でもあった。


 彼は目を伏せ、家計簿の赤字を指でなぞった。指先が震えた。

「……分かった。会おう。黒木に」


 その瞬間、団地の狭い台所が、ひとつの戦場のように思えた。

 貧しさと誇り、友情と挫折、未来と過去が交差する狭い空間。ちゃぶ台の上の家計簿は、まるで古代の羊皮紙のように、これからの戦いを記す予言書となっていた。


第二章 妻の贈り物


 翌朝の団地には、冬の曇天が低く垂れ込めていた。

 風は鋭い刃のように、ベランダに干された洗濯物を打ちつけ、金属製の物干し竿が鈍い音を立てた。団地の一角に立つ木々の枝は葉を失い、わずかな小鳥すら姿を隠した。


 妻は外套の襟を立て、ゆっくりと外へ出た。

 足取りは決して軽くはなかった。だがその背には「母」という名の、見えない翼があった。


 彼女は近所の家をひとつずつ訪ね歩いた。

 「余りものがあれば」と口にするのは、どれほどの羞恥だっただろう。けれど声を押し殺して頼むたび、台所から出てくるのは冷凍庫の奥に眠っていた寿司ネタの端や、解凍に失敗した切り落としのマグロの小片だった。


 人々は「大したものじゃないけれど」と笑った。

 その笑いは、決して侮りではなく、同じ暮らしの底を知る者たちの連帯の色を帯びていた。団地に生きる者たちの小さな相互扶助。その温もりが、寒風の中で妻の手を支えた。


 新聞紙に包み重ねていくと、それらはやがて、手のひらに収まるひとつの小さな塊になった。

 ――一握りのマグロ。

 それは豪華なご馳走ではなかった。けれど、数多の家の台所から滲み出た思いやりと、妻自身の羞恥を超える勇気が凝縮されていた。


 帰宅した妻は、その新聞紙の包みをちゃぶ台の前に差し出した。

「これしか……用意できなかったのです」


 須田真はしばし黙した。

 新聞紙を開くと、乾きかけた赤身が、小さな火のようにそこに宿っていた。その赤は、ただの魚肉の色ではなかった。

 彼の目には、それが血のようにも、灯火のようにも、未来を支える祈りのようにも見えた。


 真はそれを古びた鞄に収めた。

 まるで一族の魂を運ぶように、慎重に、そして深く頭を垂れながら。


 団地の狭い部屋の空気が、ふと澄んだように感じられた。

 それは決して希望の光ではなく、もっと静かなもの――嵐の中で燃え残る最後の薪火。だがその炎こそが、これから須田真を歩ませる唯一の力だった。


第三章 回想


 電車の揺れに身を任せながら、須田真は古びた鞄の重さを膝に感じていた。

 中にあるのは、たった一握りのマグロ。だがそれは彼にとって、過去と現在と未来を結びつける錨のようだった。


 窓外を流れる冬の町並みは灰色に沈んでいる。工場の煙突から立ち昇る煙、交差点を急ぎ足で渡るサラリーマン、そして無数のスマホの光。

 その光景は、いつしか彼の記憶を呼び覚ました。



 大学の学食。油で濁ったカレーの匂いが漂う昼下がり。

 長机に並んで座った黒木慎は、突如、スプーンを脇に置き、笑いながら言った。


「真。学食のカレーはな、スプーンなんかじゃなくて、手で食うもんだぞ」


 そう言うや否や、彼はまだ熱いカレーを指先ですくい上げ、口に放り込んだ。

 周囲の学生たちからどっと笑い声が上がった。


「馬鹿かおまえ!」

 真は呆れ顔でそう言ったが、その胸の奥には、不可思議な明るさが灯っていた。

 灰色に沈みがちな日常の只中で、慎の突拍子もない振る舞いは、光のように鮮烈だった。


 ――あの日の笑い声は、今も耳に残っている。



 また別の夜、静まり返ったキャンパスのベンチで、ふたりは語り合った。

 片手にニーチェの本、もう片手には冷めたコーヒーを握りしめて。


「人は理想を失えば、ただの歯車になる」

 慎の声は、冬の空に響く鐘のように高らかだった。


「理想だけじゃ腹は満たされない」

 真は応じた。その言葉は自嘲ではなく、現実に立脚した静かな祈りのような響きを帯びていた。


 二人の声は衝突しながらも、不思議と補い合っていた。

 炎と土。理想と現実。翼と根。

 互いに相反するものを持ちながら、どちらも欠けては成り立たない対話だった。



 しかし道は、やがて分かれた。

 慎は活動家として世界へ飛び立ち、喝采を浴び、国際会議の壇上に立つようになった。

 真は研究室に残り、数理モデルや統計を扱いながらも、安定した職に就けず、非常勤講師とアルバイトをつなぐ日々に沈んでいった。


 それでも、友情の火は心の奥で消えなかった。

 いや、むしろ現実に押し潰されるほど、その火はなおのこと小さく、だが確かに燃え続けたのだ。


 ――あの日、手で食べたカレーの熱さ。

 ――夜のキャンパスに響いた議論の声。


 すべてが、彼の胸に重なり、そして今、この小さなマグロの塊に託されていた。


 電車は次の駅に滑り込み、ドアが開く。

 冷気が流れ込み、真の背筋を震わせた。だが彼は鞄を抱きしめ、心にひとつだけ確かな言葉を刻んだ。


 ――会わねばならぬ。黒木慎に。

 たとえその眩しさに焼かれようとも。


第四章 回想・慎


 その夜、黒木慎はベルリンのホテルの一室にいた。

 世界環境サミットの講演を終え、喝采を浴びたばかりの身体は、まだ聴衆の熱を宿していた。

 しかし、窓辺に立ち、街の灯を見下ろした瞬間、胸の奥に広がるのは空虚だった。


 ――歓声は、波のように押し寄せ、そして退いていく。

 掌に残るものは、砂のように儚い。


 慎はスーツのポケットからスマートフォンを取り出した。

 SNSには、彼の演説の一部を切り抜いた動画が拡散されていた。

 「英雄」と讃えるコメントが数千と並ぶ。だが同時に、鋭い矢のような言葉も飛んでいた。


 ――偽善者。資本の操り人形。

 ――テレビ用のパフォーマンスだ。

 ――本当に世界を変えられると思っているのか。


 その文字列をスクロールする指先に、知らず力がこもる。

 画面の向こうにいるのは、顔の見えぬ群衆。

 かつてインドの叙事詩に登場した王カンサが人々を苦しめたように、現代では「炎上」という無数の影が、ひとりの人間を追い詰めていく。


 慎は低く呟いた。

「……現代のカンサは、この掌の中に潜むのか」



 だが、その影の中で、彼の記憶は必ずひとつの光を呼び起こす。


 ――夜明けのキャンパス。

 長時間の討論に疲れ果て、石畳に腰を下ろした自分に、真が差し出した肩。


「慎。理想を語るのもいい。けど、人はパンがなければ死ぬんだ」


 その声は、あの時の自分を支える唯一の現実だった。

 もし真がいなければ、自分の言葉は空中分解し、ただの虚妄に崩れ去っていたに違いない。



 それから幾年。

 慎は世界を巡った。

 干ばつに苦しむアフリカの村で井戸を掘り、インドの小さな学校に教科書を届け、国連の会議場で先進国の首脳たちに声を荒げて訴えた。


 けれど、そのどの場面にも、影のように「須田真」の存在があった。

 己の理想を支える重石。

 見えないところで、炎を燃やすための薪をくべ続けてくれた友。


 だからこそ、年月を経てもなお、再会できずにいることが、影のように胸を覆っていた。

 喝采の中にあっても、孤独が消えない理由はそこにあった。



 窓外には、ベルリンの冬の夜が広がっていた。

 街路樹の枝に残る雪が、淡い光を放つ。

 それはまるで、遠い日本の団地の窓明かり――冬の夜に残る最後の星のように思えた。


「真……」

 慎は低くその名を呼んだ。

 声は誰にも届かず、ただホテルの壁に溶けていった。


 しかし、胸の奥では確かに響いていた。

 いつか必ず再び会わねばならぬ。

 歓声でも炎上でもない、ただ一人の友に。


第五章 再会


 その日、東京の講演会場は、群衆の熱で揺れていた。

 国際的な環境シンポジウム。大ホールには立錐の余地もなく、海外の記者や研究者がひしめいている。

 壇上に現れた黒木慎を、拍手の奔流が迎えた。


 ――彼の言葉は、嵐のように世界を駆け抜ける。

 だが、その嵐の中で、彼の耳に届くのは、かつての友の静かな声だった。



 講演が終わり、控室へ戻る通路。

 群衆のざわめきが壁越しに波打っている。

 その中に、不意に異質な声が混じった。


「私は……黒木の友人です。須田真と申します」


 係員が慌てて制止する。

「関係者以外は――」


 だが、その名を聞いた瞬間、慎の胸が跳ねた。

 扉の向こうから漏れるその響き。

 それは遠い日々の夜明けに、自分を呼んだ声と同じだった。


 彼は反射的に扉を開け放った。

「……今、須田真と言ったか?」



 廊下に立っていた男は、痩せ、くたびれた背広をまとっていた。

 しかし、瞳の奥には、あの頃と変わらぬ光が宿っていた。

 年月の隔たりが、一瞬で溶け落ちる。


 真は一歩前に出て、ためらいながら、やがて声を張り上げた。


「――ヘイ、大将、おまち!」


 空気が凍りついた。

 スタッフも警備員も、意味を測りかねて動きを止める。

 だが、慎の胸には稲妻のようにその言葉が突き刺さった。


 大学の学食。

 カレーをスプーンではなく手で食べようとして、皆を笑わせたあの日。

 「ヘイ、大将おまち!」と悪戯めいた声で寿司職人を真似たあの日。

 笑い声と議論が交じり合った、青春の匂いが、一気に蘇った。



 次の瞬間、慎は破顔した。

 歓声でも、罵声でもなく、ただ一人の友の呼び声に応えて。


「……やっぱり君だ、真!」


 彼は駆け寄り、両腕で真を抱きしめた。

 群衆の喧騒も、世界の拍手も、その瞬間すべて消え去った。


 残ったのはただ、二人の胸の鼓動と、再び結ばれた絆の温もりだった。


第六章 贈り物


 控室の空気は、ひとしきりの抱擁の余韻に沈んでいた。

 スタッフたちは息を潜め、二人だけの時間を邪魔することをためらっている。

 その沈黙の中で、須田真は古びた鞄を静かに開いた。


 内ポケットから取り出されたのは、ひとつの小さな包みだった。

 新聞紙にくるまれ、わずかに赤い滲みを帯びている。

 真はそれを両手で差し出した。


「慎……これは、つまらないものだが」


 黒木慎は、訝しげに包みを受け取り、ゆっくりと開いた。

 そこに現れたのは――わずか一貫の握り寿司。

 色あせかけた赤身のマグロが、白い酢飯の上に慎ましく横たわっている。


 それは決して高級なものではなかった。

 寿司屋の技もなければ、銀の皿もない。

 ただ団地の台所で、妻と子どもたちの手によって、祈るように握られたひとつの寿司だった。



 慎の胸に、熱が押し寄せた。

 舞台で浴びる拍手も、国際会議での喝采も、こんな重さを持ったことはない。

 一貫の寿司が、彼を膝の奥から震わせた。


 ――あの狭い台所の匂いがよみがえる。

 湯気に曇る窓。壁に沁みついた油の匂い。

 そして、飢えをこらえながらも、子どもたちのために笑顔を絶やさぬ妻の姿。


 そのすべてが、この一貫の寿司に凝縮されている。


 慎は震える指でそれをつまみ、口に運んだ。

 乾きかけたマグロの赤身が舌の上で溶け、酸味を帯びた米粒がほろほろとほどける。

 けして美味ではない。

 だが、涙が頬を濡らすほどの滋味があった。


「……真。君が、これを……」


 言葉が喉で崩れた。

 嗚咽を抑えきれない。

 黒木慎は、世界的な活動家としての顔を捨て、一人の男として膝を折った。



 真は、友の姿を静かに見つめていた。

「大きなことを成す者にも、ひとくちの糧が必要だ」

 それは、かつて夜明けのキャンパスで語った言葉の続きだった。


 寿司の一貫。

 それは贅沢ではない。

 けれども、人が生きるための根源的な光。


 その光を手渡すことができたなら――。

 真は、友の涙にようやく報われる思いを抱いた。



 その夜、控室を出た二人を、報道陣のフラッシュが待ち構えていた。

 だが慎は人々に何も語らなかった。

 彼にとっての真実は、世界に語る言葉ではなく、すでに一貫の寿司に封じ込められていたからである。


第七章 家庭の灯


 団地の夜は、深い静けさに包まれていた。

 外廊下を吹き抜ける風が鉄の手すりを鳴らし、どこかの部屋のテレビがぼんやりと壁越しに響いている。

 須田真が帰宅したのは、そんな団地が眠りに沈もうとする時刻だった。


 ドアを開けると、ちゃぶ台を囲む子どもたちの顔が一斉に上がった。

「お父さん!」

 弾けるような声。

 妻は奥から顔を出し、目だけで「おかえり」と告げる。


 真は上着を脱ぎながら、控室で交わした数時間の余韻をまだ胸に抱いていた。

 黒木慎の涙、震える手。

 そのすべてが、自分にとって幻ではなく現実であったことを確かめるように。



「ねえ、お父さん。黒木さんに、何をあげたの?」

 一番上の子が、ちゃぶ台の縁から身を乗り出すように尋ねた。


 真はしばらく黙っていた。

 子どもたちの瞳が、まっすぐに自分を見ている。

 その真剣さに、答えをごまかすことはできなかった。


「……一握りのマグロだ」


 一瞬の沈黙。

 次に、はじけるような笑い声。

「えーっ、それだけ? マグロ一切れ?」

「握り寿司ひとつで、あの偉い人に?」

 声がちゃぶ台の上で跳ね返り、蛍光灯の白い光を震わせた。


 真は、笑いに包まれるその空気を見渡し、ゆっくりと両の手を掲げた。

 そして声を張り上げる。


「ヘイ、大将、おまち!」


 空っぽの掌が、蛍光灯の下でひときわ明るく光った。

 子どもたちは、さらに大きな笑い声を上げた。

 その笑いの中で、妻だけはじっと夫の掌を見つめていた。



 彼女の目には、その掌が「空」ではなく「満ちている」ように映った。

 家計簿の赤い数字。冬に耐える衣服の不足。

 それらを凌駕する何かが、この家にはまだ息づいている。


 ――それは、真の掌に宿る灯火。

 決して尽きない火。

 団地の台所という小さな空間から、未来へと燃え移ってゆく火。


 妻は胸の奥で静かに思った。

「この家には、決して枯れないものがある」



 窓の外では、遠い団地のどこかで明かりがひとつ、またひとつ消えてゆく。

 だが須田家のちゃぶ台の周りだけは、笑いと温もりが夜更けまで続いていた。

 それは冬の空に残る最後の星のように、小さくとも確かに輝いていた。


第八章 エピローグ・黒木


 ジュネーブ、ニューヨーク、ダカール。

 黒木慎の歩みは、地図の上に炎の跡を描くように広がっていた。

 国際会議場では照明の下、各国の代表が整然と並ぶ中で彼の声が響く。

「気候変動の被害を受ける村々にこそ、我らは真っ先に手を差し伸べねばならない」

 拍手が幾重にも重なり、やがて渦となる。


 だが、その喝采のさなかにも、彼の胸には別の光景が揺れていた。

 団地の台所。

 ちゃぶ台の笑い声。

 真が掲げた空の掌。

「ヘイ、大将、おまち!」――あの声。



 数か月後、日本の小さな団地に茶色い段ボールが届いた。

 差出人は国際支援団体の名。

 箱を開けると、冬物の衣服、子どもたちのための教科書、色鉛筆の束がぎっしりと詰まっていた。

 そして一枚の封筒。


 便箋には黒木慎の手書きの文字があった。

『真へ。君がくれた一貫のマグロは、私に世界を支える力を与えた。

 今度は私の番だ。君の家族に少しでも光を届けたい。

 ――ヘイ、大将、おまち!』


 子どもたちは歓声を上げ、色鉛筆を取り合うように握った。

 妻は新しいコートを抱きしめ、しばし涙をこらえた。

 真は便箋を読み終えると、ただ黙って笑った。



 窓の外では雪が降り始めていた。

 団地の窓明かりは冷たい夜にまたたきながら、ひとつひとつ小さな星となる。

 その中に須田家の光も確かにあった。


 それはもう、孤独な光ではない。

 遠く離れた友の誓いと結ばれ、世界と響き合う灯火だった。


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