4 決心
自宅の候補となる物件は無事に決まったので、ビジネスホテルにチェックインして、明日に備えて大浴場でまったりしよう——なんて思っていた矢先だった。
ポケットの中で、スマホがぶるぶる震える。
俺のスマホではない。例の異世界スマホの方だ。
取り出すと、地図アプリが自動で立ち上がっていて、目的地のピンがひとつ。
現在地から車で数分の場所で、道順まで示されていた。
「シロエ? 一体何を……」
訝しみながらも、あの子なりのメッセージなのかもしれないと、車を走らせた。
そこにあったのは、日本犬の資料館。隣の施設ではモフモフの犬たちが出迎えてくれて、写真を撮らせてくれたり、ぬいぐるみを買ったりもした。
……なるほどね。癒しってことか。
こんなふうに、そっと心をほぐしてくれるあたり、本当に優しいんだな。あの天使は。
翌日は朝から四時間かけて、県南へと向かう。
目指したのは、静かな集落にある平屋。
その家の前に車を停めると、庭先には草花が広がっていて、まだ寒いというのに、いくつかの花が小さく咲き始めていた。
「久しぶりだね」
「ああ、久しぶり。母さん」
庭に顔を出した母の腕には、でっぷりと太った猫。
会うのは、父の葬式以来。七年ぶりだ。
白髪が増えて、昔の面影は残っているけど……母さんも老けたな。
リビングに通されると、膝に猫が飛び乗ってきた。ふてぶてしい顔だけど、なんだろう、妙に可愛い。
緑茶と茶菓子を出してくれる母の仕草は、あの頃と何も変わらない。
なのに、心の距離だけは、まだ少し遠く感じた。
「それで、どうしたのさ」
「色々あってさ。この県の北の方に引っ越そうと思って」
すぐに、あからさまに嫌な顔をされた。
ああ、やっぱりそうか。
俺が近くに住むのは、そこまで嬉しくはないようだ。
父さんが亡くなる前後には、姉の件でひと悶着どころか何度も揉めたから、悠々自適に縛られない生活がしたいのはわかるけどさ。
だから同じ市ではなくて、近からず遠からずの場所を選んだ。
「仕事は?」
「辞めた。金はあるから。投資とか、まあ色々やってる」
「色々ばっかりね。あの子に、この家の住所は教えてないよね?」
「うん。そもそも俺だって知らないよ、アイツの居場所も連絡先も」
「野垂れ死んでてくれると、助かるんだけどね」
口には出さなかったが、内心では同意していた。
この猫の無防備なぬくもりだけが、唯一の救いだった。
猫をモフってコタツでゴロゴロする。ここに来るのは初めてだけど、家の家具だったり雰囲気が昔の実家に似ていて、安心感がある。あー、猫たまらん。
異世界スマホがまた震える。
画面を覗けば、カメラが勝手に起動していて——猫を撮影しろってことか?
シロエ、あの犬たちの件も、俺に気を遣ったんじゃなくて、君が動物を好きなだけか。
猫と一眠りして、目が覚めたときには、カレーの匂いが部屋中に満ちていた。
……何も言ってないのに、ちゃんと食事が出てくる。最高かよ。
狭い家なので寝室は母さんの部屋だけ。夜はコタツで寝かせてもらった。
猫は母の布団へ行ってしまったのがちょっと寂しい。
あの後の雑談でも、遠回しに母さんには「困ってない」「金もいらない」と、やんわり断られてしまった。
翌朝、母さんは早朝から街のスーパーでパートらしく、俺は追い出されるように家を後にした。
「鈴は置いていきな」
「ダメか」
抱き抱えていたデブ猫ちゃんは、あっさり回収された。
うん、犬もいいけど猫もやっぱり飼おう。
「大人になるとね、ああすればよかった、こうしておけばよかった……後悔ばかりだよ」
突然、背中にかけられた母の言葉。
「お父さんと結婚したことも、馬鹿な娘を育ててしまったことも、後悔はしてる。でも、納得はしてるよ。自分で選んだ選択だからね。だけどね、“やらなかった後悔”だけは、歳をとるほどに重くなるよ。あんたにとって良い母親だったなんて胸を張れないけど、母親としてじゃなくて、年長者としての意見として、覚えておきな」
車に乗り、バックミラーに映る母は見えなくなるまで——ずっと猫を抱いたまま、見送ってくれた。
あの時は、わからなかった。
でも今は、少しだけわかる気がする。母の苦労も、母の強さも。
新幹線が走る最寄りの駅でレンタカーを返却後、まったりと帰路に着く。
慣れ親しんだアパートに戻るとすぐ、不動産屋に家の購入とリフォームの見積もりを依頼するメールを送った。
「シロエ」
俺の呼びかけに、シロエはすぐに反応し美しいエフェクと登場した。
「マスター、準備は整っています。このボタンを押せば、世界は廃棄されます」
ホログラムのUIが浮かぶ。選択肢は一つ。
冷たくて、シンプルで、確実な「終わり」だった。
「……それは、いらない。俺はやるよ、本気で。異世界投資ってやつを。だから、力を貸してくれ」
短い時間だけどシロエと出会い、世界の現状を知り、過去を知って、動物が好きな優しい天使ってことも——今更切り捨てるなんてことは俺にはできないし、それをしてしまったら、どんな贅沢な生活をしてもきっと後悔する。
「マスターのその後悔が、“やめておけばよかった”にならないことを祈ります」
「……ああ。シロエが祈ってくれるなら、百人力だよ」
彼女は小さく息をついて、静かにうなずいた。
そして、異世界の現状を一つずつ、丁寧に説明し始めた。
俺はノートとペンを取り出し、その言葉を一つ残らず書き留める。
——今度は、遊び半分じゃない。