3 迷い
正式に会社を辞める手続きを進めた。
有給もいらないしので頼み倒して、早期の退職をなんとか勝ち取った。
異世界を買ってから、すでに二週間が過ぎている。
例のスマホ? を再起動したことはアレから一度もないし勇気も出なかった。
ちなみに気づいたらスマホは姿を消してて、念じると出てくる仕様になってた。こえーよ。
シロエに言われたことを反芻しながら、引っ越しがいつでもできるように部屋の片づけをしたり、母さんに連絡を取ったり、余った資産の投資の勉強なんかをして、日々を過ごしていた。
『近々、顔を出すから』
『言っておくけど金はないからね!』
母さんからの返信はいつもながら塩対応。
金の無心なんてするつもりはないんだけどな。まぁ、既読だけつけておく。
窓の外に目を移すと、車窓からの風景は雪がまだ残っていた。
三月も半ばだってのに、ずいぶん北の方まで来たもんだ。
白く染まった山並みは確かに綺麗だけど、実際に住むとなったらなかなか大変そうだ。
終の住処とまでは言わないけど、一軒家に広い庭。
犬を飼って、野菜でも育てて、のんびりとした生活を送りたい。
そんな思いで、東北地方のとある町に目星をつけた。
新幹線で県庁所在地まで行き、そこから鈍行に乗り換え。
さらに2時間弱、のんびりと揺られていく……めっちゃ遠い。
夕方前には目的の駅に到着。
駅前でレンタカーを借り、山間の温泉旅館へと向かう。
ただ、旅館に着く頃にはすっかり夜になっており、しかも雪が残る山道は予想以上にスリリングで、普通に命の危険を感じた。
「ぐぅーっ、雪見風呂、最高……! 俺、生きてるうう!」
誰もいない大浴場で、足を伸ばして思わず叫んだ。
いや、叫ばせてくれ。高額当選バンザイ!
とはいえ、喜びに浸ってばかりもいられない。
一億円の負債があると思えば頭も痛くなってくる。
それでも、残り三億はあるんだから贅沢なんだけど、最終的に四億が吹っ飛んでしまうと考えれば憂鬱になる。
「異世界が消えたら、シロエ……お前はどうなるんだ?」
幼くして亡くなり、天使になった少女。
地獄から救済され、神様には特典として俺に売られた存在。
「私はあの世界と紐づいています。世界が消えれば、私も消えます」
「うわっ!?」
湯船に突然現れたヘルメット少女に、声にならない悲鳴が出た。
「いやん、エッチと俺は叫べばいいか?」
「判断はマスターにお任せします」
「冗談はさておき、本当に消滅しちゃうの? 異動とか、別の世界に行くとかじゃなくて?」
「はい。輪廻転生からも外れ、存在そのものが消えます」
彼女は平然と言うけれど、その言葉の重さは尋常じゃない。
それを理解したうえで、なお俺に“廃棄”を勧めてくるあたり、やっぱりただの子どもじゃないんだよな。
「シロエ、お前は……それでいいのか?」
「はい。マスターにとって、それが最善と判断します」
それは俺の最善であって、お前自身の気持ちを聞きたいんだ。
どこかシロエの言動には、早く楽になりたいという本音が透けて見える気がした。
「話を変えるけど、どうしてあの世界、あんなに荒れてるんだ? 元の管理者は手を打たなかったのか?」
「資金不足が原因です」
「え、でも異世界をいっぱい管理してるって言ってなかった?」
「嘘です。売却済みの世界を除けば、管理していたのはあの一つだけです」
マジかよ。神様、盛ってただけか……。
「どうしてそこまで落ちぶれたんだよ、神様ともあろうものが」
「色欲ですね。召喚を繰り返し、ハーレムを築いたんです」
……ああ、うん。神話でよくあるやつだね。
やっぱ神様ってそういうもんなのか。
「でも、世界ってそこまでほっといて崩壊するものなのか?」
「神の加護なしでは、維持も困難です。誰の手もかからない状態まで発展させるには手間がかかるのです」
そうだよなぁ。勝手にうまく育つなら、手放す理由なんてないもんな。
——誰か、風呂場に入ってきた音がした。
シロエの姿は他人には見えないはずだけど、独り言をぶつぶつ言ってる男はさすがにヤバい。
名残惜しいけど、そろそろ出よう。
部屋に戻って、冷蔵庫の瓶ビールを開ける。
窓の外には、雪に染まる静かな夜景。
少し酔いが回った頃、布団に潜り込むと──シロエが枕元で覗き込んでくる。
頼む、幽霊みたいな演出はやめてくれ……! 君は天使なんでしょ。
「迷う理由はありません。不利益しかありません。早めの廃棄を推奨します」
彼女の言葉を無視して、帰るように念じると姿が消える。
さっきの呼び出し方を応用すれば、こうやって退場もできるらしい。便利すぎて怖い。
合理的に考えるなら、ここは損切りすべき。
でも、あの世界の人たちと、シロエを見捨てるのは――なんか、やだな。
朝。思ったより眠れなかったけど、旅館の健康的な朝食と朝風呂で少し気分が整った。
約束していた不動産屋と待ち合わせる。
「担当する保坂だす。よろしくお願いするす」
方言強めのおじさんと握手して、物件巡りが始まる。
俺の希望は、広い庭つきの平屋。建物の築年数にはこだわらず、水回りさえリフォームできればいい。
しかし、理想と現実のギャップは大きかった。
瓦屋根の日本家屋!ってイメージだったんだけど、雪が多い地域のせいか、瓦屋根はそもそもほぼないみたいで、残っていても痛みが酷い。
「最後の物件んだども、五年ぐれぇ前まで人が住んでだがら、状態もそんな悪ぐねぇよ。おすすめだ」
お、最後に本命を持ってくるテクニックか。できるな保坂さん。
スーパーまで車で三十分、コンビニも車で十分……とアクセスは微妙だけど、綺麗な小川に、昔の線路の名残、田園風景、雰囲気はバツグン。
小さな蔵に縁側、庭も手入れされていて、家屋もリフォーム済みらしく痛みは少ない。
これで五百万円。掘り出し物じゃないか?
終の住処にするには少しリスクもあるけど、いざとなったらホームに入ればいい。
それに……もしかしたら結婚とか? いや、ここじゃ出会いなんてまずないし、金目当てで寄ってこられても面倒だし。
子どもは好きだけど、結婚はまだピンとこないなぁ。
「あの、ここにしようかと思うんですが。リフォーム込みで、いろいろ相談したいので、とりあえずキープでお願いします」