第5話 峠の主・樫旺
三十分ほど歩いただろうか?
山頂に近い急な斜面を降りたところまできた。
平石が山に積まれた横に、ひときわ大きな樫の木があり、その横に小さな小屋がある。
「こんなところに小屋?」
山道から外れた人目に付きにくい場所だけれど、拓けていて遠くまで良く景色を見渡せる。
銀子が、こちらでございます、といって小屋の中へと入っていった。
あまりにもあっさりと通されて、警戒心が湧く。
深玖里も翔太も、小屋を前に立ちつくしていると、中から低い呼び声が届いた。
「どうぞ、中へ」
この声は、きっと樫旺だ。
意を決して中へと入る。
真正面に、どっかりと座った大きな狸がいた。
体のあちこちに包帯が巻かれ、後頭部には大きな絆創膏が貼られている。
深玖里が翔太を促して樫旺の前に正座すると、樫旺は深玖里たちに向かって丁寧に頭をさげた。
「このたびは、茂助と銀子がご迷惑をお掛けしたようで、誠に申し訳ない」
樫旺の隣で茂助も銀子も、床に頭がつきそうなくらい、ひれ伏した。
深玖里も翔太の頭を押さえて座礼をする。
「いいえ。ですが、いたずらも度が過ぎると、今回みたいなことになります」
来たのが深玖里たちでなければ、銀子も茂助も倒されていただろう。
人に危害を加えて、懸賞金がかけられるというのは、そういうことだ。
「まっこと、申し訳ない……」
再度、深く頭をさげる樫旺に、翔太が慌てた様子で楽にするように言い含めている。
そのあいだに、深玖里は銀子を呼び、賢人に貰った軟膏を手渡してやり、すぐにそれを使うように指示した。
「立ち入ったことをお伺いしますが、なぜ、そのような怪我を? 山犬の群れに襲われたとは聞きましたが」
樫旺に改めて聞くと、山犬たちは、黒狼の厭の手下だったといった。
厭の命で駿河国に渡るよう言われたのを、断ったのが原因だった。
子だぬきたちが襲われそうになり、それを庇った樫旺は、怪我を負ったけれど、山犬たちは撃退したそうだ。
ただ、その際に薬の作り置きが駄目になってしまい、なかなか傷が治らないのを心配した茂助たちが、騒ぎを起こした。
「我らは慎ましく平和に暮らしています。たまには人を驚かせるような遊びはしますが、危害は加えない」
「その怪我、だいぶやられたよね? 嘘でも従ったふりをして、後方で控えていればよかったんじゃない?」
「先代も黒狼とは戦ったというのに、我が従うわけにはいくまい」
「先代も? 厭はそのときも人を襲うためにやってきたの?」
「先代のときは、黒狼の兇だ」
樫旺の先代は、この辺りを守る獣師の眷属だったそうだ。
獣師ともども倒されてしまい、当時はまだ妖獣になりたてだった樫旺が、あとを継いだという。
「黒狼の兇か……」
翔太はなにか、心当たりがありそうだ。
きっと賢人や優人も、知っているんだろう。
「薬を作れるのが我だけだったため、新たに薬を作ることができず、人々には迷惑をかけた。今後は当分のあいだ、山をおりるつもりはない」
茂助と銀子を許してやってほしいといって、また樫旺は頭をさげる。
「そりゃあ……今後、やらないというんであれば、依頼を取り下げてもらうことはできるけど……深玖里ちゃん、どうする?」
依頼がなくなることで、当然ながら、賞金もなくなる。
稼ぎたいとは言え、普段は無害な妖獣まで、手に掛けるつもりはない。
「いいんじゃない? 樫旺は信用できると思うしね」
「ありがたい……」
「いいよ。それより、その薬、ちゃんと使って傷を治して。治ったら早く新しい薬を作りなよ」
樫旺は、これを機に薬を作れる仲間を増やすそうだ。
事情がわかれば用はない。
翔太を促して帰ろうとした深玖里を、樫旺は呼び止めてきた。
「坊は獣師とみたが、この茂助と銀子を眷属に加えては貰えぬだろうか?」
「えっ?」
驚いた深玖里を、翔太も目を見開いてみている。
男だとバレていたことはもちろん、獣師などといわれたことにも驚いた。
すぐに深玖里も翔太も、それを否定した。
「いや……アタシ、獣師なんかじゃあないよ?」
「樫旺さま、今、和国には獣師はいないんですよ?」
「だが坊は、緋狐を眷属に持っているだろう?」
ここで緋狐の名前が出たことにも驚愕する。
なぜ樫旺が、緋狐を知っているのか。
「緋狐を知っているの? けど、緋狐は……眷属とかそんなんじゃあないよ。仲良くしてる友だちだ」
「緋狐とはまだ互いに幼かったころ、よく遊んだ。坊からは緋狐の気配がしたから、てっきり眷属にしているのかと……」
「違う違う! ホントにそういうんじゃあないよ」
「だが使い魔は持っている、それは間違いないであろう? それであれば、ぜひとも茂助と銀子も……」
「チョット待ちなよ。そもそも、茂助も銀子も、それでいいワケ?」
見ると茂助と銀子は、獣師さまの眷属になりたかった、といって目を輝かせている。
「だって……アタシ獣師じゃあないし……それでもいいの?」
「構わぬ。それに……茂助と銀子はのちのち必ず役に立つ。各地の狸や猫たちと繋ぎをもつ顔役だ」
「ふうん……でもね、アタシの使い魔になるには、条件があるよ」
深玖里は樫旺に条件を提示した。
一つ目は、深玖里の命は絶対であること、それがどんな命であっても。
二つ目は、人には絶対に危害を加えないこと。
三つめは、友だちであること。
全部を聞き終わった樫旺は、呆気にとられたような顔だ。
「これが守れるなら、受け入れてもいいよ」
「一つ目と二つ目は、わかった。だが、三つ目はどういうことであろうか?」
「どうもこうも、言葉通りの意味だよ。主従関係なんて堅っ苦しいのじゃあなくて、友だちでいてくれればいい」
樫旺は「なるほど」といって、大いに笑った。
茂助も銀子も、深玖里の提示した条件になんの問題もないという。
深玖里はカバンの中から無垢の木を出すと、手早く狸と猫の形に彫った。
「じゃあ、それぞれこの人形に、血判を」
茂助と銀子の血判を、それぞれの人形の尻に押し、その上から深玖里の血判を押した。
二頭は吸い込まれるように木彫りの人形に納まった。
これで、この人形を依り代にして、いつでも呼び出せる。
今度こそ樫旺に別れを告げ、翔太とともに、賢人と優人が待つ街道へと戻った。