第18話 黒狼の厭・討伐完了
『前回は断られたが……我がおまえをここから出してやる。代わりに……』
『アンタはそう言うけれど、私は符術なんて使ったことなんかないし、使えるとも思えないわ』
黒狼が引き連れてきた猿が、蔓華の手に呪符の束を握らせてきた。
『使う符術は二種、符術はすでに書かれている。その程度であれば、おまえになら使えよう』
そして黒狼はもう一枚、金縛りの符術が書かれた呪符を渡してきた。
『すべてが済んだのち、好いた男と逃げればいいだろう?』
『好きな人……と……でも……妖獣のいうことなんて信用できるワケがない……』
『我……黒狼の厭は、嘘など言わぬよ』
ククッと薄笑いをしている黒狼を睨み、蔓華はギュッと呪符を握りしめた。
――話を終え、フッと小さくため息を漏らした蔓華は、苦しそうな表情だ。
「そうして私は……厭のいうことを受け入れた……」
蔓華は懐から使い残した呪符を出し、深玖里の手に握らせた。
受けとった呪符を見た深玖里の目が驚きで見開き、呪符を握りしめた手がわなわなと震えている。
深玖里はそのまま呪符を細かく破り捨てた。
声をかけるのがはばかられるほどの怒りを感じる。
「翔太さん……」
「うん? 傷が痛む? 大丈夫だから。こんな傷、すぐ治るから」
そう言いながらも、翔太はもう符術を使うのをやめている。
止まらない血の量が、蔓華を繋ぎ止めている時間がわずかだと語っていた。
力なく伸ばした蔓華の手が翔太の頬を撫で、翔太はその手を取って強く握りしめた。
「私はずっと翔太さんを好いて……愛していたけれど……翔太さんの気持ちを……本当の気持ちを聞かせて?」
「蔓華……俺は……」
翔太の顎が震えている。
蔓華をみつめたまま、黙ってしまった翔太の肩を、深玖里が強く揺さぶった。
「翔太! なんで黙ってるの! 好きだよね? 翔太、姉さんのことを愛してるでしょ?」
「……」
「なんでなにも言わないんだよ! 本命だって……愛しているって……伝えてやれよ!」
「や、やめてあげて。みみ深玖里さん、今は……」
縁は翔太の肩をつかむ深玖里の手を取り、暴れようとするのを押さえた。
「蔓華……俺のせいでごめん……」
「優しいのねぇ……そんなところを本当に愛していた……翔太さん、ありがとう……」
スウッと小さく息を吸い込んだ蔓華は、乾いた息を一度だけ漏らし、もう息を吸うことも吐くこともなかった。
「イヤだ……! イヤだ! イヤだよ! 姉さん、目を開けて! 逝っちゃイヤだ!」
縁の手を振りほどき、翔太の腕の中で眠る蔓華に縋りつくと、深玖里は号泣した。
そのまま翔太の肩を何度も殴りつけている。
「どうして! どうして姉さんに愛しているって言ってやらなかったんだよ! なんで! いつもあんなに軽く女を口説いているくせに……なんで!」
「……深玖里ちゃん、ごめん」
深玖里に殴られたままになっている翔太の背後に、ドサリと勢いよく黒狼が落ちてきた。
黒狼は転がると、すぐに起きあがってこちらを睨んでいる。
「ここ黒狼が……」
上で駿人や賢人にやられたようで、片目は潰れて尾もちぎれ、背中と腹から血を流している。
蔓華が亡くなったのがわかったのか、あざ笑うように口角をあげた。
「多少は役に立つかと思ったのに、符術師でもない女では、まるで使えやしないじゃあないか」
「きさまぁっ! きさまのせいで姉さんが……!」
深玖里が立ちあがり、刀に手をかけた。
縁も釣られて刀を抜いて構える。
「二人とも……どけ」
蔓華を胸に抱いたままの翔太が、黒狼を振り返ることなく符術を放った。
「金縛封陣……急急如律令!」
避けようと飛び退いた黒狼に吸い寄せられるように呪符が貼りつき、その足が止まる。
「……こんな符術など!」
「そいつの足を止めたかったんだよ……翔太、ありがとうな。助かった」
足掻いて動こうとする黒狼の背中に、二階の窓から飛び降りてきた駿人の槍が突き立てられた。
グオオッと大きな声をあげ、黒狼の体が何度か暴れたあと、ぐったりと動かなくなった。
「縁、木ノ内さんへ連絡を。それから結界、解くの忘れるなよ?」
「あ……うっ、うん」
縁は結界を解き、木ノ内へ黒狼を倒した旨を書いた式符を飛ばした。
そうしているあいだに、賢人が優人を支えながら外へと出てきた。
「ハヤ、倒したか?」
「ああ。思いのほか手こずったな……」
「翔太は?」
優人と賢人に問われ、縁は答えることができずに、未だ蔓華を抱きしめたままの翔太を振り返った。
憔悴しきっている翔太と、その隣で泣き続けている深玖里の姿に、三人とも察したようだ。
「オレたちが、もっと早く倒していれば……」
駿人はそう言ってうつむくけれど、こればかりはどうにもならない。
三人は良く頑張ったと思うし、黒狼は想像以上に強かったし、卑怯で狡猾だった。
駿人と賢人が遅れたのは、茶褐色の狼を倒したあと、猿の妖獣が二体、出たからだそうだ。
優人が黒狼を相手にしているあいだ、屋根の上で大きな音が鳴り続いていたのはそのせいだった。
空が白みはじめ、もう夜明けがくる。
歓楽街の灯りはまだ煌々と光っている。
縁は嗚咽を繰り返している深玖里の背中に触れた。
「み、深玖里さん……こんなときにも、申し訳ないんだけど、き、禁固の術……かか解除、してもらえるかな?」
力なく立ちあがった深玖里は、鼻をすすりながら解除に向かっていった。
その背中を見つめながら、縁は近しい人を失った悲しみを思い、胸の痛みに涙がでそうになった。