第15話 城下・海津屋
細い路地を抜けて出たのは、海津屋の裏口だった。
ここで、深玖里が女将とやり取りをしていたのを見たんだった。
「海津屋……? み深玖里さんは……」
キャーッと大きな悲鳴と、ガラスや陶器が割れる音が響いた。
悲鳴は女性だけでなく、男性の声も聞こえ、建物から出て商店街のほうへ走っていく姿がいくつもある。
おもてに回ってみると、身支度もままならないで走って逃げる人たちが、次々に縁に体当たりをしてきた。
「早く逃げろ!」
「邪魔だ! どけ!」
ほとんどの獣を倒したとはいえ、結界の中の獣がもういないとは言い切れない。
このまま人々が街なかに立ち往生したら、攻撃の手を逃れた獣に襲われてしまうかもしれない。
「ま、待ってください! 外にいてはあっ……危ない! どどどこか建物に……!」
隠れるように指示をして、ハッと気づいた。
この辺りは深玖里が戸口をふさいでしまった。
優人も翔太も、深玖里の姿さえ見えず、縁はどうしていいかわからず、自分の次の行動さえ判断できずにいた。
立ちすくむ縁の肩に、逃げる人たちがぶつかり、縁はその場に尻もちをついて倒れた。
「なにしてるの!」
ぐいと襟首をつかまれ、見上げると深玖里の顔があった。
「倒れてる場合じゃあないでしょ! 早く立って!」
「みっ深玖里さん! かか海津屋で、なにが――」
「黒い狼が出た!」
嫌な予感はあったけれど、なぜ海津屋に?
「アタシが禁固の符術をかけ終えてここへ来たら……屋根に黒い狼がいて……姉さんが……!」
「つ蔓華? ま、まさか翔太も巻き込まれて……」
「早く来て! こっち!」
深玖里が縁の手をとり、海津屋の中に入った。
細い階段を駆け上がっていくと、ふすまや障子がすべて外れ、あちこちの壁が壊れていた。
一番奥の大広間で、芸をみせるための舞台なのか、一段高い板の上に蔓華が立っている。
そのすぐ脇には黒狼が、蔓華の足もとには、気を失っているのか倒れている人が――。
「しっ……翔太!」
なんということだ。
優人と合流しているとばかり思っていたけれど、まだこんなところにいたなんて!
動かないのは、まさか……!
黒狼と蔓華に対峙しているのは、優人だった。
優人も駿人と同じで傷だらけになっている。
「ゆっ……優人!」
「縁か……翔太が捕られた。いつまで待っても来ないから様子を見に来たら……」
優人は武器を掲げて黒狼から視線を外さないまま、そう言った。
「ままままさか……し、死んで……」
「……生きてるよ」
ホッとしたのもつかの間、優人はいきなり黒狼へ攻撃を放った。
風の刃が大広間の中をめぐり、部屋中を切り裂きながら黒狼へ向かった。
いくつかは翔太と蔓華のほうへ向かう。
「あ……しょ翔太!」
庇おうと呪符を出して投げるより早く、蔓華が扇子で優人の攻撃を払った。
「え……せ……扇子ひとあおぎで……ゆ、優人の攻撃が……」
「――ちょっと……私はともかく、この人に傷はつけないでちょうだい」
黒狼がわずかに蔓華に向き、口角をあげた。
「今のは我の咎ではなかろう? 仕掛けてきたのはヤツらのほうだ」
蔓華は翔太の脇に腰をおろして頭を自分の膝に乗せると、愛おしそうに髪を撫でている。
蔓華は紛れもなく人なのに、醸し出す雰囲気が人のそれとわずかに違う。
優人は自分の技を蔓華が弾くのがわかっているのか、構わず黒狼へと攻撃を繰り返している。
黒狼のほうは、優人の攻撃を見切っているかのようにかわしているけれど、それでもあちこちに傷を負っていた。
「つつ蔓華……し……しょ翔太をこっちに……そ、そんなところにいたらあ、危ない……」
左手に握った呪符を後ろ手に隠したまま、右手を差し出して、なるべく蔓華を刺激しないように近寄ろうとした。
縁の見立てでは、蔓華は黒狼と何らかの繋がりがある。
そんな女のそばに翔太を置いておくわけにはいかない。
「幻……」
「姉さん! そんなところでなにをしているの! 危ないからっ! 翔太を連れてこっちに――」
縁が符術を唱えようとしたとき、後ろにいた深玖里に突き飛ばされた。
翔太の髪を梳くように撫でていた蔓華の手が止まり、クシャリと翔太の髪を鷲づかみにした。
まだ意識が戻らないのか、翔太は小さく呻き声をあげたものの、目を閉じたままだ。
「姉さん! 早く翔太を――」
縁を乗り越えて蔓華のもとへ行こうとした深玖里に、なにかが空を切って飛びかかってきた。
縁の耳もとを通り過ぎたのは、蔓華が手にしていた扇子だ。
「くっ……!」
それはただの扇子のはずなのに、深玖里の肩に刺さって食い込んだ。
「みっ深玖里さん!」
扇を抜き取り、左手に握ったままにしておいた呪符を傷口に貼りつけた。
「清流……祈符……云」
傷口に貼りついた呪符が血を止めた。
痛みは続いているはずなのに、深玖里はまだ蔓華に向かおうとする。
縁はそれを必死に抑えた。
「どうしたの! 姉さん……深玖里だよ? ねえ、早く――」
「嘘よっ! わたしからこの人を奪おうとする悪い女……厭! さっさと一掃してちょうだい!」
ハッと深玖里と視線を交わした。
蔓華は黒狼の名を呼んだ。
これは一体、どういうことだ?
優人と戦っている黒狼は、大きく飛び退いて優人から距離をとった。
舞台の上の蔓華がいる隣へ戻ると、大きく遠吠えを響かせた。
――ガシャン!!!
部屋のガラスが割れ、ザワザワとした気配が海津屋の周辺に広がった。