第2話 君沢郡・三島呪符作り
翌朝はまだ日が昇る前に起き、水垢離をして身を清めた。
この時期はまだ、水もそんなに冷たくはない。
余計なことを考えないように目を閉じて気持ちを静めた。
部屋に戻っていつもの手順通りに呪符を作る準備を続けていくうちに、だんだんと空が白み始めてきた。
鳥の囀りがやけに耳につき、空気が澄んでいることがわかる。
翔太はもう、呪符を作り始めただろうか。
灯りをつけっぱなしにして、符術を書きはじめる。
こうしておくと、時間が経って暗くなり始めたときに、書く手を止めずに済むからだ。
延々と書き続けて手首が痛むことに気づく。
新しく買った札紙が残り少なくなっているから、あと少しだけ頑張ればいい。
無心で続け、最後の一枚を手に符術を書くと、すべての呪符をまとめて束にして、机に重ねた。
深く息を吐き、大きく吸い込んでから、一息で符術を唱えた。
東家の家では最後に指文字で札の束を押さえる。
「結」
結びの言葉を唱え、すべてを終えた。
「できた……」
作りはじめのときと同じで、鳥の囀りが耳に届く。
澄んだ囀りに、今日も晴れだと感じた。
這うようにして奥の部屋に続くふすまを開けると、終わったときのために敷きっぱなしにしておいた布団にもぐり込んだ。
ググ~っと大きく腹の虫が鳴いたけれど、今はまず、なにをするより眠りたい。
日付と時間は、起きてから確認すればいい。
なにかあれば、きっと駿人が来てくれるだろうし……。
それから、起きたら刀の手入れもしておかないと……。
それから……それから……。
いろいろなことを考えながら、縁は深い眠りに落ちていった……。
――長い廊下を早足で父の部屋に向かっていた。
行けばどうなるのかわかっていても、行かないという選択肢はありえない。
縁はただただ気が重くて仕方がない。
とにかく、早く叱られて自分の部屋へ戻りたい。
父の部屋の前で正座をしてふすまに手をかけた。
トトト、と細かいリズムを刻んで、弟の奏と妹の富和が廊下をやってきた。
『兄さま――』
弟と妹まで呼ばれていたんだ。
縁の後ろに控えた二人にうなずいてみせてから、ふすまを開いたけれど、これはマズイかもしれない……。
『お呼びでございますか』
『……入りなさい』
重苦しい空気が父の部屋に渦巻いている。
縁は隣に座った奏と富和と一緒にまず父に頭を深くさげて礼をした。
『顔を上げなさい』
父の低い声には、なんの感情も乗っていないように感じる。
ただ、感じるだけで、実際はそうじゃないこともわかっている。
だから、縁も奏と富和も、顔を上げられないままでいた。
『なぜ呼ばれたか、わかっているな?』
『……はい』
『あれほどに、おまえたちに符術など必要ないと言い聞かせたのに、聞けぬのはなぜだ?』
『ボ、ボク……わたしたちも符術を学びたいのです。お家のために……』
『子らが余計な力をつけては、跡目争いになると言っているだろう!」
雷が落ちるという言葉が、こんなに似合うのは父ただ一人だけなんじゃないか?
そう思わせるほどの怒声を浴びせられた。
『私のいうことが聞けぬというのなら、出ていくがいい!』
さすがに父親にそういわれると、どうしようもないからか、奏も富和も号泣しながら父にしがみついた。
『ごめんなさい! ごめんなさい! もう二度と符術を学ぼうとしません! だから追い出さないで!』
二人の泣き声が響く中、縁はさげ続けていた頭をあげた。
『わかりました。これまで育ててくださって、ありがとうございます。暇をいただきます』
父は黙ったままですがりつく奏と富和の頭を撫で、縁には目もくれなかった。
縁は自分の部屋へと戻り、荷物をまとめた。
最低限の着替えと東家家の符術の教本、さらにそこから独自で学んだ符術の本。
跡目を継ぐことに興味などなかったし、長子である兄は優しくて頼りになる人で、尊敬していた。
だから、兄を助けるために符術を学びたかったのに。
こんなふうに、出ていくことになるなんて……思ってもいなかった……?
――違う。
わかっていた。
わかっていて、抗いたかった。
認めてほしかったんだ。
自分という人間が、ここに存在していていいということを。
行く当てもないけれど、木枯らしの吹く中を、ただ真っ直ぐ歩いた。
どうしようもなく泣けてきて、こぼれる涙を袖口で拭った。
『東家くん、だね?』
前に見たことのある男の人が二人、縁の前に立ちふさがる。
去年くらいから、東家の家の近くで見かけることがあった。
『私は登和里といいます。東家縁くん、キミに手伝ってもらいたい仕事があるんだけれど、ちょっと話をしませんか?』
登和里と名乗った男の人は、縁に一枚のカードを差し出してきた。
そこには登和里 保信と名前が書かれ、横には櫻龍会とあった。
『お……櫻龍会……?』
突然、声をかけられて怪しまないワケがない。
縁はこの場から逃げようかと思った。
けれど、どこへ行けばいいのか……。
迷う気持ちを察したかのように、登和里は続けた。
『私たち櫻龍会では、符術を使える人材を探しているんですよ』
『ボ、ボクはまだ符術は……つ、使えるとはい、いえません』
『大丈夫。これから訓練して覚えてもらうからね。どうだろう? 少し話を聞いてくれないかな?』
先のこともなにもみえない縁は、迷いながらも登和里についていってみることにした。
本当に符術を覚えられるんだとしたら、腕を磨いて兄が困ったときに、力になれるくらいに強くなりたい。
登和里に案内されて入ったお店では、温かなご飯の匂いが漂っていた。