第4話 白狼・迅
霧龍のところへ寄っていたから、すっかり帰りが遅くなった。
スピードを上げたおかげで、あと少しのところまで戻ってきたけれど、空の色はほんのり赤く染まり始めていた。
時折、後ろを確認すると、まめはしっかりと尾にしがみついていた。
飛ばしてしまわなくて良かった。
ホッとして少しスピードを緩めたとき、正面からなにかが衝突してきて、迅はもんどりうって倒れた。
尻尾につかまっていたまめは、衝撃で転げ落ちて大木の下に飛ばされている。
「まめ! 無事か!」
「あ……あいー!」
返事があるから大丈夫そうだ。
すっくと立ちあがった迅は、あたりを見渡した。
だいぶ離れた前方に、黒い影がみえる。
目を細めてジッと見つめた。
それはどうやら迅と同じ狼で、カラスのように黒い。
「……影じゃあなくて、黒狼だったか」
迅のつぶやきが届いたのか、黒狼は突然、遠吠えをするように上を向き、大きく笑った。
なにがそんなに可笑しいというのか。
「力のある白狼がいると聞き及んできたが……なんのことはない、人間ごときの手先だったか!」
「手先……? 俺と主はそんな薄っぺらい関係じゃあない」
黒狼はさらに声高に笑うと、迅に飛びかかってきた。
油断をしていたわけじゃあないのに、背のあたりを鋭い爪で裂かれた。
「人間に使役されているような情けない獣奇が! 主だなどと笑わせてくれるわ!」
「おまえが眷属に対してなにを思っているか知らないが、我らは信頼のもと協力しあっているだけだ」
黒狼の言葉の端々に、人に対しての憎しみと嫌悪を感じる。
なにをどう思おうと構いやしないし、ほかの獣師と獣奇がどんな盟約を結んでいるのか知らないけれど、それらと同一視して勝手に敵意を持たれるのは迷惑な話しだ。
「信頼? 人間とのあいだにそんなものは存在しやしない」
「どう思おうと自由だ。だがおまえに言われる筋合いは……」
迅が答えるよりも先に、黒狼が襲いかかってきた。
素早く避けるも、黒狼の牙が迅の後ろ足を裂く。
「獣師だなどといってのさばっている人間もだが……おまえのような、それに与する獣奇にも腹が立つ!」
次々と仕掛けられる攻撃に、防御だけでは追いつかず、気づけばあちこち血まみれになっている。
迅に向けられる強い憎悪は、最近、この辺りで暴れている妖獣たちが放つ気配と似ていることに気づいた。
黒狼に対して殺意を覚える。
「きさま……最近この辺りを荒し、妖獣たちを操っているのはきさまか!」
「操るとは心外だ。ヤツらは自分たちが不当に退治されている現状に、ただ抗っているだけだろう?」
黒狼はニヤニヤと薄ら笑いを浮かべた。
その表情をみて、操るまではいかずとも、妖獣たちをそそのかしているだろうと察した。
「不当だなどと……妖獣たちが人を襲うことがなければ、退治などされようもないだろう!」
「そもそもが、なぜ人が優遇される? 人を襲うな、などと誰が決めた?」
黒狼は、人は獣を虐げ殺すのに、なぜ獣や妖獣は人を殺すと許されないのかという。
人が勝手に定めた決まりに、なぜ我らが従わねばならぬのか、と。
その目が細く光り、迅の首を狙って襲ってきた。
「我らが自由に生きるには、人が……獣師が邪魔だ。それに従う獣奇、きさまらも同じだ」
間近でやり合ってわかったのは、黒狼は迅よりもわずかに大きいことだ。
飛びかかられて組み敷かれた瞬間を狙い、激しく抗ってその腹を噛み、爪で目を裂いた。
断末魔のような叫び声をあげ、黒狼が迅から離れた。
「よくも……よくも……」
黒狼の腹からも潰れた目からも血が止まることなく滴っている。
よく見ると、最初は気づかなかったけれど、黒狼の後ろ足は折れているのか、向きがおかしい。
ここへ来る前にどこかで誰かにやられたのだろうか?
「きさまといい……あの山犬や狐といい……どこまでも邪魔な獣奇め……!」
「……山犬と狐?」
嫌な予感がよぎる。
こいつは今、どこから来た?
向かう先は羽後だった。
こいつは羽後から来たのか?
「今に必ず我ら獣奇がこの世を統べる! 人間など……それにかしずく獣奇など、根絶やしにしてくれよう!」
黒狼はそう言い残し、滴る血もそのままにどこかへ逃げ去っていった。
迅もあちこちの噛み傷から血がとめどなく流れている。
本当ならとどめを刺すために追うべきなのに、さっきの黒狼が放った言葉が頭を離れない。
「……山犬と狐? まさか……霧と白影のことじゃあ……」
羽後に急いで帰らなければ!
一歩踏み出したとたん、迅は崩れるように倒れた。
大木に身をひそめていたまめが駆け寄ってくる。
「迅さま、迅さま、大丈夫ですかー?」
まめの手に陶器の小さなかめが現れ、中から軟膏を掬い取ると、迅の傷に塗りたくっていく。
「霧龍さまの秘薬にございますー。すぐに血が止まるのでございますー」
まめのいう通りで血はすぐに止まった。
とはいえ、傷が治るわけではなく、体じゅうの力が徐々に抜けていく。
それでも迅は急いで帰らなければならない。
まめを背に乗せ、羽後の村に向かって必死に走った。