ロリスの祷り、冬羽の祈り
「着いた……!」
フルブレーキ。ズザザ……と両輪を横スライドさせながら自転車を急停車させる。
あたしは山寺の麓にたどり着いた。見上げると、木立の向こうに寺の明かりが見える。
ここから自転車や車で上る迂回路もあるけれど、石段を真っ直ぐ上った方が早い。
「っしゃぁああ!」
あたしは階段を駆けあがる。
もう両脚の筋肉はパンパンだけど、今は走らなくちゃならない。
息が辛い、心臓がバクバク暴れている。
汗だくで、苦しくて。こんな必死な顔なんて、誰にも見せられない……!
けれど。
「はあっ……! はあっ!」
だけど、不思議と、生きている……っていう実感で満たされていた。辛さこそが生きている証なんだ。
あたしは、こうして生きている……!
普段から怠惰な生活をしていたことを悔やみつつ、歯を食い縛って足を動かす。
闇夜に感謝しながら、石段を照らす灯籠を次々とパスしてゆく。何百段めかの石段を踏みしめたとき、寺の門が見えた。
――夏樹、ロリス……無事でいて!
中に駆け込んで、廊下をドタドタと突き進み、転がるように和室の襖を開ける。
「夏樹! ロリス!」
目に飛び込んできたのは、氷のうを載せたまま、寝込んでいる夏樹。そして枕元で祈祷師のように祷る少女だった。
「……とあ、姉ぇ?」
「とあ!」
「二人とも生きてる!?」
「夏樹はなんとか、大丈夫です! 私もぜんぜん平気です!」
妙に元気なロリスの返事に戸惑いつつ、ほっとする。
熱が高いのは相変わらず。だけど悪化はしていないみたいだ。
ふと見れば、ロリスの傍らにはエナジードリンクの缶が二、三本転がっていた。
「これ飲んだの!?」
「はいっ! このポーション、最ッ高に元気になりますね! すごいです!」
血走った目をキラキラさせながら、親指を立てるエルフ。完全にキまってんじゃん。
「確かに現代文明のポーションかもしんないけど、いくらなんでも三本は飲み過ぎだよ!」
「そうなのですか? お母さまが差し入れて……けぷっ、くださいました」
「もうっ!」
夏樹の布団のまわりには、緑の草やキノコがニョキニョキと生えていた。生えては枯れてを繰り返しているらしく、魔法が夏樹への祟りを分散してくれているのだとわかる。
「ロリス、夏樹のこと、もうすこしだけお願いできる?」
「まっかせてください! このまま三日ぐらい戦えそうな気がします!」
「う、うん」
いや無理だから、それ。あとで絶対に反動くるよ。でも今は、ハイテンションなロリスにまかせるしかない。
あたしは和室を飛び出すと、お母さんのいる台所へと向かう。お母さんはお父さんと真剣に電話をしている最中だった。
「お母さん!」
「冬羽! こんなときにどこにいってたの!?」
ぎゅっとお母さんの両腕を掴む。その温もりと存在が、あたしを落ち着かせてくれた。
「それはあとで! それより、夏樹が獲ってきた魚の死骸、どこに埋めたの?」
「えっ? そ、それなら裏庭にある柳の根本だけど……」
「わかった! あ、車を準備して! おねがい! 連れていってほしいところがあるの!」
「冬羽!?」
『……いいから。あの子の言うとおりに』
お父さんの声が電話口から聞こえてきた。あたしはそれを尻目に裏庭へダッシュ。
「あそこか……!」
窓から洩れる明かりに照らされた裏庭、その脇に小さな家庭菜園の横で、柳が夜風に揺れていた。
柳は彼岸と此岸を繋ぐ不思議な力がある、とも云われている。根本によりにもよって、神格化した川の主を埋めただなんて。
埋めた場所はすぐに見当がついた。柔らかい土を手で掘り起こすと、すぐに生臭い汚泥のようなものが出てきた。魚たちの死骸だ。暗闇のなか、あたしはそれを丁寧に集め、近くに生えていたフキの葉で包んだ。
水場で手を洗い、お母さんが準備してくれている車へと向かう。
小さな四駆タイプの車の助手席に乗り込んだ。
「こんな夜中に、どこへ行きたいの?」
「西の山、川の方へ」
「川!? こんな時間に、ダメよ。それに何、変な臭い……」
「いいから! お願い連れていって! じゃなきゃ……夏樹を助けられない!」
あたしは真剣に頼んだ。
「……わかったわ」
お父さんにも言われていたせいか、お母さんは渋々承知してくれた。
車は夜道を走り出した。
自転車だと果てしない道のりも、車ならももの十数分だった。民家のある地区を抜け、山際のうら寂しい場所へと至る。
ヘッドライトが闇を切り裂く。夜霧の立ち込める道は未舗装で、車はガタガタと揺れた。
「お化けでも出そうね……!」
「そこらじゅうにいるよ」
「そうなの? 嫌ねぇ」
「大丈夫、もっとヤバイの持っているから」
「あはは、そうなの?」
お母さんは前を見据えたまま、呆れたように微笑んだとおもう。
あたしは、小さい頃から不思議なことを言う子どもだったのだろう。お母さんもお父さんも、あたしにだけ見えているもの、触れられる世界を否定せず、信じてくれた。
あたしはフキの葉で包んだ骸をそっと抱き締めていた。まるで鉛の塊だ。冷たくて、重い。
伝わってくるのは強い憎しみと怒り。冷たい土のなかで凝り固まった人間に対する呪いの情念だ。
苦しい、苦しい。憎い。憎い。
「……痛……ぃ」
焼けるように痛い。祟りがあたしを侵しつつある。こんな痛みと苦しみを、夏樹は受けているんだ。
だけど気がついた。
激しい怒りと憎しみの裏にある、もうひとつの感情に。
――帰りたい、逢いたい。
それは、きっと赤い岩魚が根元的に抱いている、とても強く原初的な想いだったのだろう。
清らかな流れと、微睡みの中。渓流の仲間たちと泳いでいる光景が脳裏に浮かんだ。
「……そっか、もう少しだけ、待っててね」
車はやがて西の山道を経て、デンデラ野と呼ばれる荒涼としたススキ野原へと至る。野を二分するように蛇行した小川が流れていた。
ここが目的地。
夏樹たちが、魚とりをした場所だ。
車を停めてもらい、車を降りる。エンジンの音が消えると、信じられないほどの無音と闇のただ中にいた。
まるで宇宙にいるような、満天の星が天球を埋め尽くしている。
「お母さん、ここで待ってて」
「……いいよ。行ってきな」
お母さんは車の外で、煙草に火をつけた。
あたしは一人で川縁にそって上流へと向かう。
明かりもつけず、星明かりと勘だけを頼りに歩く。まるで黄泉に向かう儀式のように。
振り返ってはいけない気がして、川のせせらぎの音を聞きながら歩く。
気がつくと、不思議なことに痛みと冷たさが幾分和らいでいた。
「……帰りたかったんだよね」
ぎゅっと魚の骸を抱き締める。
清流の上流にある大きな岩場で足をとめた。
――ここだ。
あたしは水にそっと足を浸し、両手の中から土と泥にまみれた魚たちの骨を流した。
星明かりの下で、骸を流す。
元々暮らしていた故郷へお帰り、と。
「ごめんね」
あたしは静かに祈りを込めて呟いた。
さらさらと流れる水音と、冷たい清流がすべてを洗い流してゆく。
掬い上げた水のなかに、小さな魚がみえた。
稚魚――。
何びきも何びきも、流れてゆく骨を追いかけてゆく。骨になった者たちを迎え入れるように群れながら、暗い水の底へと向かい、見えなくなった。
きっと、あの赤い岩魚の子供達なのだろう。
――赦してください。
静かに手を合わせ、祈る。
あたしたちのしたこと。
ほんとうにごめんなさい。
赤い岩魚や他の魚たちも、ここに戻りたかっただけなんだ。
その想いに、なぜ、気づいてあげられなかったのだろう。殺されてしまったことよりも、稚魚たちの成長を見守れなかった無念。その想いは人間と何も変わらないはずなのに……。
あたしが最初に、気づくべきだった。そうすれば、誰も苦しまずに済んだのに。
ぽぅ……と緑の光が灯り、あたしは思わず顔をあげた。
「蛍……」
ふわりと明滅する緑の淡い輝きが、ひとつ、ふたつと舞っていた。まるで魚たちが楽しげに水のなかを泳ぐように。
あたしは蛍に導かれるように、車で待つお母さんのところへと戻った。
「ただいま」
「済んだかい? 帰ろう。夏樹が待ってるよ」
「うん!」
◇
家に帰りつくや、あたしは衝撃的な光景を目にすることになった。
「ロリスーーー!?」
ロリスが廊下でぶっ倒れていた。慌てて抱き起こすと、ポーションで全回復ぅ、と寝言をいいながら眠っていた。
そして、
「とあ姉ぇ、お母さんも。何処にいってたの?」
「夏樹!」
夏樹が起きていた。
熱もかなり下がり、顔つきも元気な様子で。
「お腹空いちゃった……」
「もう!」
あたしは思わず、弟をぎゅっと抱き締めた。
<つづく>




