『田の神』と狐の祭ばやし
◇◇
「ふぁ……?」
私はいつの間にか眠っていたようです。
机に突っ伏していた顔をあげると、ノートが顔に貼り付いていました。
居間で数学の勉強をしていたら、だんだん意識が遠のいてしまって……。
眠い目を擦りつつまわりを見回します。
「……とあ?」
部屋には誰も居ませんでした。でも背中にタオルケットが掛けてありました。きっと冬羽が掛けてくれたのでしょう。
太い柱に障子と襖。畳の匂いもすっかり見慣れた居間の風景です。チクタクと時を刻む壁掛け時計を見ると、午後の三時半。
「もうこんな時間……」
開け放した障子の向こうに視線を向けると、午後の光に照らされた、お寺の庭先が見えました。
元気に赤い花を咲かせるタチアオイ、黄色いヒマワリ。お花の名前もだいぶ覚えました。
髪を耳にかきあげて立ち上がると、足が痺れていました。まるで麻痺の魔法をかけられたみたい。
ふらつきながら縁側に近づくと、途端に熱気が押し寄せてきました。
「……暑い」
真っ白な雲は見上げるほどに果てしなく大きくて、セミの合唱が青空に吸い込まれてゆくようです。
眩しさに目を細めていると、じっとりと汗が滲んできました。日本の夏に慣れていかなきゃですね。
お寺の中はしん……と静まり返っていました。
とあの気配がありません。いつも元気な夏樹の声も聞こえないので、遊びにでも出掛けたのでしょうか?
あれ?
そういえば、とあの弟って、いつから……?
ううん、私ったら寝ぼけてるのかな。
この寺には、明るくてサバサバした感じの母さんと、ドタドタと元気な小学生の弟、夏樹くんがいるのです。お父さんは天竺に修行にいっているらしく、まだお目にかかったことはありません。
私は……遠い別の世界。いまはもう存在しない異国から避難してきました。帰る宛を失くした居候の身なのです。
でも、とあのおかげで寂しくないし、辛くもありません。
ここでの暮らしは平和です。
ときどき魔物も出ますけど、楽しくて、ご飯も美味しい。
見るもの聞くもの、すべてが驚きの連続で、夢のような時間はあっというまに過ぎていきました。
ずいぶん長い時間、お世話になっていた気もしますが、何日たったのでしょう。
山火事のあった夜のことは、もう曖昧にしか覚えていません。怖い何かが闇の向こうから襲ってきて、とあがいつもみたいにやっつけて……。
気がつくととあと夏樹くんと三人で、綺麗な花火をしていました。
手のなかで花を咲かせる炎の魔法。
私は本当に綺麗だと思いました。
「とあ? ナツキ……?」
お寺のどこを探しても誰もいません。
台所には、お母さんが買ってきたであろう食材が置いてありました。流しにはスイカが冷やしてあります。
不思議です。
なんとなく気配はするのに、姿が見えません。
ついさっきまで誰かがいたのに、隠れてしまったような。そんな感じです。
――トン……トトン……。
気がつくと、遠くから音が聞こえてきました。
外の方、お寺のずっと向こう側からです。エルフなので耳には自信があります。
音は何かのリズムを刻んでいます。
トン……トトン……トントトトン……。
打楽器……太鼓でしょうか。
笛の音色も交じっているようです。
玄関でサンダルを履き、庭先を抜けて、寺の外へと向かいます。
森に囲まれた階段を下ると、むっとする熱気に汗がにじんできました。
セミの声が大きくなりますが、さっきの太鼓の音はしっかりと聞こえてきます。
目の前が開け、一面の田んぼに出ました。まるで緑の海を思わせる稲の葉に圧倒されます。広い草原のような緑の水面をゆっくりと風が吹き抜けてゆく。
「あっちかな……」
太鼓の音のする方向がわかりました。
田んぼの真ん中に、まるで島のような場所があります。海に浮かぶ小島のように木々が繁り、赤い小さなお社のある場所です。
とあは「田の神さまの住まう家」と教えてくれました。この里には小さな神様のお家が、あちこちにあるのです。
神様は一人ではなくて、自然のなかに沢山いる。その感覚は新鮮ですが理解できます。私たちエルフが精霊と呼んでいた存在を、里の人たちは神様と呼んでいるのです。
トン、トトン……トトトトトン♪
畦道を幾度か曲がり、社のある田んぼの中に浮かぶ小島に近づくと、太鼓の音が大きくなりました。
木々の向こうに見えかくれするお社の周囲に、何人かの人影が見えました。
小さな舞台があって、そこで太鼓を叩き、笛を奏でているひとがいます。
きっと何かの儀式です。
いえ、お祭りでしょうか。明るい音色なのにどこかもの悲しげにも聞こえます。
私は無意識のうちに冬羽たちを探していました。
「……お面?」
近づいてゆくと、そこにいる人たちはみんな白いお面を被っていました。尖った両耳の内側が赤いのが印象的です。あれは……狐のお面でしょうか。
誰が誰だかわかりません。
もうすこし近づいて、お社のある森へと足を踏み入れようとした、その時。
「ロリス!」
私は後ろから呼び止められました。
はっとして振り返ると、とあがいました。
「とあ……!」
鳶色の瞳に、優しい微笑みを浮かべた唇。肩にかかる黒髪を軽やかに揺らしながら、すたすたと近づいて来たかと思うと、私の手を握りました。
「だめだよ、こんなところに」
熱を帯びた手の感触に、はっとしました。何か目が覚めたような感じです。
「えっ……? あれ? でも太鼓の音が」
私はお社のある島の方に視線を向け、そこで思わず息を飲みました。
さっきまで聞こえていた音色が消えています。狐のお面の人たちも、太鼓の音もすべて消えていたのです。
「あれ? どこへ……」
小さな島、森に囲まれた赤い屋根のお社はそのままですが、一瞬で消えてしまったのです。
代わりにセミの合唱がどっと耳に流れ込んできました。
「狐に化かされたね」
とあが可笑しそうに私の額に手を添えました。
「……キツネ?」
「そう。ときどき、人を騙すんだよ」
「キツネが何か魔法を使うのですか?」
私は畦道をとあと戻りながら、お社のある島を振り返りました。
小さなキツネが二匹、しゅっと長い尾を翻し茂みに紛れるのが見えました。
「あはは、まぁそんなとこ。そういうのを『キツネにつままれたみたいな』気持ちっていうの」
「キツネに……なんとなくわかります」
思わず笑ってしまいました。
「季節がら『田の神』さまも共犯かもね」
「あのお社には、田んぼの神様がいるのですね」
「うん! もうすぐ夏のお祭りだから、きっと楽しみなのかもね」
「そういう……ものなのですか」
だから太鼓と笛の練習を?
私はとても不思議な気持ちでしたが、怖いとは思いませんでした。
「日本の八百万の神様は、俗っぽいというか、みんなそんな感じだよ」
「なんだか愉快です」
「でしょ、あ……夏樹!」
「おねーちゃん! ザリガニ」
向こうの田んぼの脇の水路で、夏樹くんが手をふっています。友達と網で、水の中にいるザリガニを捕まえているようです。
「今夜のご飯のオカズにするのー?」
「しないよ!」
とあは空を仰ぎながら、ヒマワリみたいに笑いました。
「ロリス、夏祭りがやってくるよ!」
私の手をとって、くるりと踊るように回ります。
「楽しみです……!」
夏祭りがやってくる……!
その言葉を聞いただけで、私はとても楽しみな気持ちになりました。
<つづく>




