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真説 かぐや姫

作者: 久米弘

京都の五条橋で、空海と乞食僧の秋田が出会い口論となった。

秋田は一人の女児を伴っていた。女児の目の前で秋田は空海に罵られ打擲され「お前には悪霊が取り憑いている。その悪霊を追い出してやるゆえにお前を打ち据える。必ずやお前を救ってやる故に待っておれ」と、次回の暴虐が予告される。

秋田は自分で女児を守れないと、子供のいない老夫婦に養子に出す。

その女児が「かぐや」であった。

美しく成長したかぐやは、貴族たちの目にとまり求婚されるが、かぐやはそれを全て断る。

やがて時の嵯峨天皇からも呼び出しがかかり、かぐやは天皇へ手紙を書く。

天皇からかぐやの手紙を見せられた空港は危機を悟る。あの時の秋田とかぐやを急ぎ処分しなければ、と。天皇は空海の意図を見抜き、かぐや救済の手を打つ。


悪霊にとりつかれた男


 行く末の案じられていた新しい都も、早や十年を過ぎた。奈良の平城京に対して、新都は平安京と名付けられた。平らたく安らかに……。

 奈良の時代に()りていたために、新都は寺を城中に建立(こんりゅう)することを禁じた。これはよい。しかし、桓武帝の智恵もそれまでであった。次の一歩に思いいたらないまま他界した。痛い目にあった分だけの智恵……。一つの痛みを乗り越えれば、あとは栄耀栄華も意のままの権力者。智恵はそこで終わる。

 桓武帝のあと、御門(みかど)は中一人おいて嵯峨天皇の時代となった。鴨の河原には、都の造成で駆り出された人民がそのまま住み着いている。彼らは新都の工事中断で、生活費が得られずに困窮していた。造成の継続は出費がかさむという理由は、貴族たちの都合に過ぎない。労働の糧を頼りにするより他に術のない者たちは、お蔭で飢え死の危機に晒されていた。それを尻目に、税の軽減で潤う貴族たちは、我が世の春を精一杯に謳歌しているのであった。


(みかど)と懇意のあなたには責任がある。栄華を欲しいままにする宮中と、貧窮をきわめる河原の人々と、この両者の存在に慚愧(ざんき)の念と改悛(かいしゅん)を悟らせるのは貴方の責任である」

 鴨川にかかる松原橋の上で、やせ細った一人の乞食僧が、修験者を引き連れた恰幅のよい僧侶に迫っていた。

「私の責任を言うのなら、貴さまの責任は奈辺にある。乞食(こつじき)私度僧は禁止されておる。まず貴さまの責任を果たせ。己れの任務を果たした者だけが人の責任を問う資格を持つ」

 肥え太った僧は、埃を払うように手を横に振って脇へ退けと乞食僧に命じた。日焼けした乞食僧の顔が見る間に怒張した。

真魚(まお)! それが友人の私へ対する礼儀か? 真魚にしても同じ私度僧(しどそう)ではなかったか」

「貴さまの名は知らぬ。だが私は幼名の真魚ではない。今の私は遍照金剛空海と言う」

「笑わせるな。大方その名前も勝手に自分で付けたのであろう。私には朝廷打倒の計略を練っていた頃の真魚しか知らぬ」

「哀れな奴よ。悪霊に取り付かれて妄想を見ているな。しかし、私は正しく言いがかりに対して答えておく。遍照金剛は真言密教の正統、恵果僧正より潅頂伝法された時に頂いた名前である。私が勝手に付けた名前であれば、潅頂伝法も恵果僧正も嘘となる……」

「真魚、やめておけ。勿体ぶれば勿体ぶるほど底が見えて来る。そんなことはどうでもよい。それよりも今まさに困窮している人々を救済する事を帝へ進言してくれ」

「……また、私は私度僧としてではなく近事男(ごんじお)として大安寺の猊下を補佐していた。師事する僧のいない貴さまとは最初から身分が違う。まず自分の身分を考えよ。しかし私は下賎な貴さまにもこうして話しておる。朝廷打倒を考えていたということは、聞かなかったことにしておこう」

「それは意味が違う」

「下賎な貴様であればこそ朝廷打倒を考えたのであろう。それは聞かなかったことにしておくと、私は言うておる」

「真魚、何というずるい言い逃れをする!」

「まだ私を真魚と呼ぶのか。人は私を遍照金剛空海様と呼んでおる。それを正しく貴様が呼べないとは、まさしく悪霊が取り付いておる証拠。悪霊退散の祈祷をしてやるほどに高雄の道場に訪ねて参れ」

 修験者が乞食僧を錫杖(しゃくじょう)で押しやった。乞食僧が叫ぶ。

「見損なったぞ、真魚。悪霊に取り付かれておるのは貴様の方じゃ。人はだませてもこの秋田をだますことはできぬ。よいか、真魚。金輪際二度と人里に出て来るではない。高雄に篭っておれ。貴様のような悪霊に取り付かれた邪悪な坊主は人間にとって災いとなる」

 修験者たちの哄笑が響きわたった。空海がそれを制して乞食僧を指さしながら何やら告げた。頑健な一人の修験者が空海に一礼して引き返した。

「不幸な男よ。哀れな奴よ。汝にはまがうかたなく悪霊が取り付いておる。汝のために哀れみ深い遍照金剛空海様が悪霊退散の印を下された。さあ、悪霊よ、この男から立ち去れ!」

 言い終わらぬうちに文環の金属音が鋭く鳴って、錫杖が宙に一回転した。乞食僧が大地へ叩き伏せられた。錫杖を再び振り上げて叫ぶ。

「悪霊よ、遍照金剛空海様の眼力を逃れることはできぬ。この一打ちで退散すればよし、さもなくばもう一打ちくれようか!」

 起きあがりかけた乞食僧の肩を再度打ちすえた。

「あとで調べに参る。退散しておればよし。さもなくば、もう一度、懲らしめるであろう。男よ。安堵せよ。情け深い遍照金剛空海様は、そなたを必ず救うであろう」

 悠然と、修験者は空海の元へ戻った。

 空海の一行が立ち去ると、見物人を押し分けて一人の女子が駆け寄ってきた。立ち上がれずにいる乞食僧にしがみついて震えた。人々が遠う巻きに見つめて(ささや)く。

「恐ろしいの。悪霊が取り付いているのやて」

「近付くと悪霊があの男の代わりに取り付くし。近付いてはあかん、近付くでないえ」

 十歳を越えたほどの女子に支えられて乞食僧は立ち上がった。伽藍の建増しが続く清水寺をかなたに見ながら、二人は五条の松原橋を東に降りて、川原のむしろ小屋へ入って行った。

「帝に取り入った男と、帝を批判する儂と、その結果はいま見たような有様じゃ。ずるく利口な者は権力者におもねて身の安泰を計る。そういう者だけが平安を得る。平安を得る者を善哉々々と褒める。

 空海と言うあの男は、学生(がくしょう)時代はもう少しまともじゃつた。批判精神も旺盛じゃった。儂らは寺の境内で落ち合っては語りあった。まともな人の世に変革する方法はないものかと考えあった。今のような生まれつきの境遇で人を差別せずに、人が人であることを大切に出来る方法を編みだそうと語り合った。そのためには、まず既成の思想をすべて調べあげてみよう。世の中の矛盾や、隠された問題点、既成思想との関わりを暴き出そう、と二人は目標を決めてそれぞれに勉学に努めたのであるが、歳を重ねた彼は、あろうことか、かって批判していた権力者に取り入ってしまった。

 もっとも、世を拗ねてばかりいては、人の世を変革する機会を失う。時には方便として権力者へおもねて地位を獲得し、そこから、改革の手を伸べるのも大切であろうと、儂は彼が権力者に取り入ってゆくのを理解して見守ったつもりじゃった。しかし結果は同じ穴の(むじな)になってしまった……」

 まだ幼い女子に、乞食僧は独り言のように語り続けた。女子はそれを理解出来るのか出来ないのか、僧の語りに一々うなづくのであった。

「そなたとは別れねばならない。これ以上一緒にいては身の危険。さいわい、子供のいない夫婦がそなたを養女に欲しがっている。儂はこれ以上そなたを守ってはやれぬ。悪霊が取り付いていると吹聴されては、このあとどんな災いがあるやも知れぬ。困ったことがあれば、そっと訪ねてまいれ。そなたのためにも、儂のためにも、今は別れていたほうがよい」

 女子は(かぶり)を振りながら、いつまでも泣き続けていた。



かぐや姫の縁談


「のう、かぐや。その後、あのお方はどうしていなさるかの」

 葵祭りの当日であった。美々しく着飾った娘の左右に老夫婦が付き添って、鴨川の堤防を登っていた。

「お父さま。あのお方と申しますと?」

「それ、竹のようにやせ細っていた男じゃ。そなたを儂らに恵んでくれたお方じゃ」

「……、……」

「いつも、不思議に思うている。かぐやは竹の精ではなかろうかと……」

「……、……」

 かぐやは養父の問いに黙していた。もうかれこれ三年になろうとしている。

今の父母に引き取られてこの方、かっての悲惨な生活とは雲泥の日々であった。

 あの時、養女縁組を拒んで泣いたのは、今では自分ではないような心持ちさえする。災難のほとぼりが冷めたなら、逃げ出してでも秋田さまの元へ帰ると心に決めて、佐伯老夫婦の養女になったのであるが、十三から十六のわずか三年は、十年にも等しい歳月の隔たりを感じさせた。

 あの時も美しい衣服に着飾っていた。三月十三日、かぐやの歳と同じ十三の日にと、縁組のお礼参りに十輪寺へ参拝したとき、秋田様が木陰から見守っているのを発見した。老夫婦の視線を逃れて駆け寄ると、秋田様は笑みを浮かべながら両手でさえぎった。

「内緒やで。儂はここから南の物集女(もずめ)という所へ住む。もし、どうにもならんような困ったことが起これば、物集女の竹山へ便りを出すがよい。竹山に暮らす秋田といえば、便りは着くであろうし……」

 懐へ飛び込もうとして、なぜかその時ためらった。天女のように美しい着物を着た自分と、乞食同然の汚いなりをした秋田様と……。一抹の悔悟と共に思い出されるのであった。

「あれまあ、父さまは面白いことを。それではかぐやは竹から生まれたのかえ?」

 老母が楽しそうに応えていた。

 ……南の物集女という所、竹山で暮らしている。困ったことがあれば便りをせよ。しかし困ったことは一度もなかった。困ったことのないことが、困ったことであった。大恩のある方へ便りを出す機会がないままで、早や三年を経過した。もし、あの方に助けられていなければ、今日の自分はない。自分は鴨の河原へ捨てられて死ぬ運命の子供であった。それを助け出してくれたのが秋田様……。

「行方が分かっておれば、なんど差し上げたいものと、いつも思うておる。このように賢く美しい娘を与えて貰らえて……」

「いやですよ、父さま。昔のことを言うては、かぐやがふさぐではおまへんか。かぐやは私たちのために、天の神様が恵んでくれたのやし。三年経って、もうこのように成長したのですよ」

 困ったことが発生すれば、秋田様に手紙を出せるのに。困ったことが何かないやろうか……。

 かぐやは困ったことを探すように、周囲に視線を巡らした。騎馬が三頭、堤防を駆けて来るのが見えた。公達(きんだち)の若武者であった。かぐやたちの横を駆け抜けると、急に手綱を引いて止まった。いななきと共に棒立ちになる馬上から声をかけた。

「お、そこの娘、美しいの。いずこの者じゃ?」

 老母が胸をそらせて答えた。

「西京極の上、円町に住む竹細工師の佐伯でございます。この姫は神様が下されたかぐや姫で、そんじょうそこらの娘とは訳が違います」

 老父がさえぎる。

「御勘弁を。婆めは、娘が何よりの自慢で、あられもないことを申しました」

「いや、面白い。儂は大納言の菅原じゃ。かぐや姫と申す女。そなたを妻にもらい受けたい。いずれ挨拶に参るであろう」

 かぐやに秋波を送って、先に駆け抜けて待っている二頭の後を追って行った。

 ……またまた、困ったことではなく、良いことが起ころうとしている。どうして、少しも困ったことにならないのでしょう……。

 公達が駆け抜けたあと、はるか加茂川の下手から葵祭りの行列が近付いて来た。

 今回の葵祭りには、嵯峨天皇の皇女が斎王(いつきのみこ)として上賀茂神社へ向かわれるという。人々はそれを見ようとして集まっていた。斎王はこれより一身を神へ捧げて終生独身で過ごすことになると言う。発端は嵯峨天皇が病にかかったことにある。かって恨みを呑んで死んでいった幾多の者たちの怨霊を鎮めるためには、生娘を生け贄に捧げるのが一番と、天皇に教えたのは、唐国から不思議な呪術を持ち帰って、真言密教を始めた空海その人であった。

「怨霊たちもまた、生ある男たちと同じ方法で慰められる。生娘を与えておけば怨霊は慰めを得る。夜と言わず朝昼といわず、怨霊は生娘の肌に纏いつき交わりつづける。その楽しみが与えられている間、他の者たちに崇ることを忘れる」

 というのであった。それは巷間で語られるような「神へ身を捧げる」という綺麗事とは全く意味が違うが、それを一々正す必要もなかった。

 斎王の行列が目の前を通ると人々は溜息をついた。美しくもあり、哀れでもある。

 うら若いかぐやには、「生涯を神に捧げる」ことが、どういうことであるのか、実感がわかない。人の世の苦しみから離脱して、天上人の生活に入るのであろうか……。

「なんとも美しいの」

 人々に溜息がもれる。

「もったいないの」

 と言う者もいる。

 神のお側へ行く女性であるから、見るのも有難くもったいない、という意味であろうかと、かぐやは受けとめている内に、「おお!」と、嘆息が聞こえた。気がつくと周囲の者は皆自分を見ていた。斎王の通りすぎたあと、人々の視線はかぐやに釘付けになっているのであった。

「斎王様より、美しい!」

 老夫婦が得意気に恭しく、かぐやの両脇を支える。嫌やが上にも目立つのであった。


 菅原の大納言に認められて、老母はますます有頂天になっていた。

「これで貴族の仲間に入れるえ。かぐやの器量なら、あるいは天子様でもお求めになるやも知れぬ。さあ、かぐや、嬉しいね。いよいよ天上の極楽暮らしができるえ」

 ところが、訪ねて来たのは賀茂の堤防で声を掛けた菅原の大納言一人ではなかった。都で一番と噂される商人の息子、武人で名高い坂上田村麻呂の息子、官吏の最高位にある藤原の右大臣その人、さらに桓武帝の孫という皇子、などなど、次々にかぐやを申し受けたいと訪れたのである。

 老母は喜びを通り越えて悩みだした。最初に声をかけてくれた大納言を無碍には出来ない。しかし、大納言よりも右大臣のほうが身分は高い。少しでも身分の高い者へ……。そのためには、他の者を断わらなければならない。さあ、何として断わったものか……。

 いづれとも決めかねて逡巡しているうちに、さらに求婚者が増えた。美しい娘がいる。わずか三年の間に成長した不思議な娘がいる。輝くように美しい。佐伯の婆は、かぐや姫は竹から生まれたから成長が早いという。並みの子ではないと言う。神様からの賜り物やという。

 噂が広がり、一目かぐや姫を見ようと、佐伯の屋敷には昼と言わず夜といわず、老弱男女、都中の男たちが入れ替わり立ち代わり押し掛けてきた。

「かぐや、こうなれば滅多なことでは男を入れてはなりませんよ。この世で一番に身分の高い方を狙うのです。一番に立派な人、かぐや、誰だか分かるでしょう?」

 かぐやはうなづいた。この世で一番身分の高い方、それは天皇かまたは、僧侶の中の最高位の仏弟子か……。そして、この世で一番に立派な方、それはこの世で一番に身分の高い方を厳しく批判する身分の無い方……。天皇はいざ知らず、空海と呼ばれる僧侶と乞食坊主と軽蔑されている恩人の秋田様の双方を、かぐやは思い出していた。

「さあ、どうして断わろうかね、かぐや、よい智恵はないかね?」

 老母の悩みをかぐやは人事のように眺めていた。屋敷の蔀戸を開けると、とたんに歓声がおこる。土塀越しに男たちが鈴なりに並んでかぐやが顔を出すのを待ち受けている。蒸し暑い夏のさなか、薄着のかぐやは男を悩殺する娘の肢体を恥じらうように奥へ隠れた。

「よい方法がある」

 膝を打ったのは老父であった。

「……高雄山寺の空海様じゃ。儂も空海様も同じ讃岐の出。佐伯の一門じゃ。うるさく言い寄る男たちを断わるよい方法を教えてもらおう」

 空海と聞いてかぐやは驚いた。しかも養父と空海は同郷のよしみであったとは……。かぐやの胸中にはじめて(かげり)が生じた。しばし成り行きを見届けようと思った。



空海の回想


 空海が教えた方法は、珍無類の難題であった。曰く、天竺にあるという仏の石鉢、蓬莱山に自生しているという金銀白玉の木、中国に住むという火鼠の毛皮、龍の首に付いているという五色に光る玉、燕が子を生むときに使うという子安貝、等々。だれもそれを持参できるわけがないから、首尾よく断われるであろうというのであった。

 佐伯の翁を返したあと、空海は礼物を開いて満足気にうなづいたあと、側近の修験者を呼んだ。

「佐伯の爺が申していた秋田という男を調べてまいれ。気になる名前じゃ。どこぞの竹山に住んでいる由。都近辺の竹山を全部調べれば分かるであろう。もしあの男であれば、かねての手はず通りにいたせ。あの時、悪霊に取り付かれた男と決めつけて打ち据えておいたから、案ずることはないと思うが、場合によれば、今一度悪霊退散の祈祷をしてやらねばなるまい。居場所を是が非でも確かめろ。あの男を悪霊から助けてやらねばならぬからの」

 空海は過ぎし日の青年時代を思い出した。真魚という幼名のまま四国の讃岐から、一族の野望を担って上京したものの、都では官吏から出世して天下を盗ることなど絶望であることに気付き、苛立っていた。付け入る余地もないほど磐石の体制を作りあげている朝廷に対して怒りさえ持っていた。

 そういう時に知り合った男が三室戸の秋田であった。乞食(こつじき)の私度僧であった。同じ讃岐の出であることから、懐衿を開き語りあった。秋田の世俗批判は鋭かった。体制も批判すれば、仏教も批判した。世の中の仕組みを一度抜本的に改革しなければならない、と熱っぽく語っていた。力さえあれば遠慮はいらない。四国から軍を差し向けて大和朝廷を倒せばよい、という。それがすぐには不可能であれば、物量を整える間、各地の修験者を懐柔して朝廷を迷信の不安に引き込み、弱体化を狙ってはどうか、等々。

 空海は秋田とは別の観点で考えた。空海は身分の低い秋田ほどには、身分制度に本質的違和感は覚えない。なによりも幼少以来、空海自身が讃岐における最高の身分の中で人々に敬われて来た。その快感と満足感は何ものにもかえがたいものであった。己れの尊厳はただ人の身分制度の中でこそ存在していた。従って、青年時代の空海は、世の中への批判とは言うても、自分が望み通りの天下の覇者、天皇という最高の地位と身分にたどり着けないことへの利己的憤慨であった。ところが秋田は違う。根本的な所で人の身分制度を価値否定していた。身分制度の中で保証された人の尊厳を頭から侮蔑していた。さらに秋田は人の中の最高尊厳の天皇を価値否定するだけに留まらず、仏教の仏さえも否定した。黄金で飾る仏こそ諸悪の根源とさえ言い出した。空海は専ら秋田の話を聞いていた。感銘もすれば、疑問も持った。天皇も仏も否定してしまえば、あとには何があるのだ? 秋田は言う。後には人がある。上も下もない唯の人がいる。人には人以上の者はいらない。人は人だけが有難く尊厳であればよい、と。空海はどうしてもそれに納得できなかった。有象無象の人間たちの中で、自分だけは特別な者として絶対的に尊敬される者でありたい。でなければ、自分が存在する理由と勉学に努力する意味がない。それでも秋田との出逢いが、空海に決定的な発想の自由を与えた。

 朝廷も絶対ではない。仏も絶対的尊厳ではない。場合によれば朝廷を倒してもよく、仏の教えも変えてよい。全てを都合の良いように、ボンクラどもに気付かれないように造り変えてもよい、と空海は悟ったのであった。

「……広い世界のどこかには、お主の考えを良しとする国があるのかも知れぬ。馬小屋で生まれた下賎な者を聖者と崇める話も聞いたことがある。だが、日の本の我が国、文化の唐国、仏の天竺と、私の知る限りの国には、下賎を貴しとする狂った考えは存在しない。かりにそのような人間差別の無い国が有ったとすれば、その国は必ず滅ぶであろう。身分差別で人間を秩序づけた国に負かされてしまうであろう。第一、そういう差別の無い国では、人間にいかなる喜びと張りがあるというのだ。時には人が人を打ち、人を牛馬のように(なぶ)りつけることが出来てこそ、人は喜びを覚える。征服者、支配者になる夢を持つことこそ人の生き甲斐……。そして、被虐者たちは仏からの慰めを得る。その喜びも人間の中に身分差別があればこそ……。

 しかし、お主には感謝もしておる。修験者を懐柔して云々は、よい着目であった。感謝しておる故に、お主の智恵の結実を見せてやらねばなるまい」


 そのころ、かぐやは手紙を書いていた。老父は高雄山寺の道場へ行き、老母は四条辺へ出かけていた。蔀戸を半分降ろして、外から窺われぬように配慮しながら細かい文字で書きつづけた。

 ……困ったことがあれば便りをせよ、というお言葉、かぐやは嬉しく心に止めておりました。今日まで何一つ不自由なく、つつがなく暮らして参りました。余りの幸せに、お手紙を書く機会もないままで、申し訳なく存じております。

 ところで、今日筆を取りましたのは、困ったことという訳では御座居ませんが、今までとは異なる出来事が生じましたので、御無沙汰のお詫びとあわせてお知らせ申し上げる次第でございます。

 わたくしにはまだ意味の分からないまま、にわかに殿方たちが私を妻に、と求めて参りました。すべてを父母様におまかせいたしておりますが、殿方には御身分に上下がございまして、父母様は今回の方々は一通りお断りすることに致したようでございます。しかし、並みの断わりでは殿方は承知いたしませぬので、よい智恵を伺いにさるお方を訪ねに、本日、養父様が出かけられました。そのさるお方と申しますのが、高雄山の空海様でございます。

 驚きました。実は養父と空海様は同郷の方だそうです。空海様も俗姓は佐伯とか。かぐやは複雑な気持ちでございます。

 秋田様のお側にいるころは、まだ幼くて、充分な理解が出来ませんでしたが、なぜか昨今になりまして、秋田様の言葉の端々を思いだします。今一度、秋田様のお考えを学ぶ機会が得られないものかと、かぐやは願っております。

 実は、養父母様は、貴族たちの求婚を断わって、天子様の求婚を待とうという考えです。貴族の方に声をかけられ、妻に申し受けたいと言われたときは嬉れしさを覚えましたが、そのあと、父母たちの駆引きをみているうちに、嫁ぐことが嫌やになってしまいました。

 秋田様、お会いしたく存じます。困っていることはなにも御座居ませんが、このごろなぜか、秋田様のことを考えてしまいます。……、


 書きながら、これをどうして送ろうと悩んでいた。召使や徒弟たちが絶対に秘密を守る保証はない。いずれは知れることを承知の上でないと誰にも頼めない。とすれば、養父母になんと言い訳をする? いっそ、夜にでも、自分で届に行こうか……。



かぐや姫の悩み


 佐伯の老父は一人芝居を演じだした。

「かぐやの申すようには、思いが真の印にかくなる物を取り寄せて下されとのこと。困難は承知。その困難を乗り越え目的を果たす真の心と才覚のある方でなければ夫にするまじきと。これ以上の答えは姫からは求められませぬ。どうぞ、我と思わん方はお挑み下さいませ」

 馬鹿気た課題を本気にする者はいない。ある者は老夫婦を罵り、ある者は永久に諦めぬと言い、またある者は生きる甲斐もないと立ち去っていった。しかし、噂はいっそ広まった。常ならぬかぐや姫、誰がかぐや姫を物にできるのであろうと、都中が沸き立った。

 老夫婦の計り事は首尾よく進んで、やがて勅使が門を叩いた。ついに天皇が注目した!

「かぐや、うまくいったし。さあ、勅使に御挨拶なされ。なぜ、難題を持ちかけ男たちを断わったのかと問われれば、帝が夢に立ち現れましたと申すのじゃ。そして、夢とは申せ恐れ多くも帝に声を掛けられた以上、他の男たちに心を許すわけにはまいりませんでしたと。どうじゃ、よい思案であろう。さあ、さあ、支度をして、支度をして」

 ところが、老父の計略はいよいよの大詰めという時になって破綻した。肝心のかぐやが首を横に振りだした。

「断わり芝居はもう終わったのやし。嫌やじゃ嫌やじゃと申すのは、もう一段上を狙えばこその嫌や嫌やじゃ。帝様がお見えとなれば、最早これ以上のものは人の世にあるはずはない。なぜ、嫌やじゃと申す?」

「もし、お父さまの申されるように、もう一段上を求めるための嫌や嫌やであるのなら、私は帝よりさらに上を望みとうございます」

 老父は呆気にとられた。

「かぐや、滅相もないことを。帝様より上など存在しない。人の世は天皇を最上として、あとは下々ばかりである。帝様よりさらに上を望むなどと申しては、天皇へ不敬となる。それとも、かぐやは天皇の上に何があると考えるのか?」

 かぐやは答えなかった。老母が無理にかぐやの着替えを促そうとする。逃れるかぐやは衣服から体だけ抜け出して、奥の間へ駆けて行った。きらびやかな衣服の飾りで輝いていたかぐやとは別の、素裸の娘の肢体が目映かった。

 かぐやははじめて真剣にふさぎ込んだ。困ったことがついに発生した。

 何かが違う。天皇の側に行けば、栄耀栄華を欲しいままに出来るのかも知れない。万人が望んで果たせない栄華を手中に出来る。それは人の世の最高の誉れであるから……。そこが違う、と、かぐやには感じとれる。それがどう違うのか、すぐには説明が出来ない。養父母は矢の催促である。かぐやは裸体のままでいる自分にも気付かずに言う。

「お断り申して下さい。勅使の方の面目が立たないと仰せであれば、私を殺すようにとお伝え下さい」

 と、悲痛な声で叫び、両手で頭を押さえ部屋の中を右に左にと彷徨するのであった。

 勅使はかぐやのかわりに老父を宮中に引率した。天皇の前に引き出されて、老父はかぐやの献上を約束した。見返りに貴族の官位を与えようと天皇はいう。



乞食僧の思想


 物集女(もずめ)の竹山で暮らす乞食坊主の秋田の耳にも、かぐや姫の噂は届いていた。そうそうたる貴族の御曹司に求愛されながら、それを全て断わっている世にも不思議な娘、美しいこと比類もなく、さだめし人の娘というより天女であろう、と語り伝えられていた。

 秋田はかって自分の手元に置いていたかぐやが、人の世の栄華を極めようとしている様子に、喜びとも哀愁ともつかぬ心境に見舞われていた。

 よくぞ都一の女になったと褒めてもやりたいし、やぐやよ、お前もか、と嘆いてもみたい。名声と栄華、力と権威、欲望と虚偽、そのような人の世で、他者を出し抜いて成功する者に禄な者はいない、それが秋田の持論であった。今を時めく空海もその一人である。唐国から潅頂伝授されたという真言密教も、秋田にはその秘密がわかっている。徹底的に空海の造り話である。天皇も叡山の最澄も騙してしまうほどの造り話。その度胸と才覚こそ驚嘆に値するが、秋田にとって気に食わないのは、人の世のすべての権威を逆手にとって利用したその結末は、自分が権威の座にあぐらをかくことであった。

「権威の座はかくまでも心地よいのか? 人を眼下に見据えて物を言うのがかくまでも快いのか?」

 今一度、空海と対決してみたい。空海の逆上せあがった鼻っ柱をたたき折ってやりたい!

 五条の橋の上で、悪霊退散と罵られて打ち据えられた左肩が、今も時々疼く。空海を思い出すたびに怒りがこみ上げる。

 あるいは、最澄に連絡をとって見ようかと思う。空海の秘密を知らせ、邪悪な呪術宗教を駆逐するように進言してみようか……。しかし最澄も仏教にのめり込んでいる。究極の仏教は害悪な呪術を導く結果にしか過ぎぬ、ということに目を覚ますことが出来るであろうか……。

 壮麗な華厳経の理屈は、大日如来の想念の世界を完成させた。想念で築き上げた架空の世界を信じ込めば、生身の人間にそれを現わそうと試みだす。必然的に呪術が始まる。人を、人間を、想念の世界へ導くことが、結果としていかに禍いを生むか……。当の空海にはそれを認めることは最早出来まい。成功した者に真理はない。馬が針の穴を通るよりも難しいのである。あるいは最澄ならば……。彼は無名の僧侶の目録に、自らの地位と名誉も省みず頭を垂れて行ったという。弟子にさえなったという。それはすべて空海の謀り事であったと知らせれば、最澄はどう反応するであろう……。

 ? 考え巡らしている秋田の耳に人の気配が聞こえた。庵の周囲に人がいる! 一人ではない。二人でもない。幾人か、散開して取りまいている。何者? 盗賊が物盗りにくるとも思えない。盗るべき物はなにもない。それは庵のたたずまいでわかるはず。

 戸口が開いた。一斉に庵を取り巻いた連中から呪文の声が響いた。

「三室戸の秋田よ、お主を救いに来た!」

 見なれぬ修験者であった。来意も告げず勝手に入り込むと、即席の護摩壇を築いた。呪文を唱えながら護符を燃やす。煙が狭い庵に充満した。

「何者や! 無礼であろう。名乗りもせずに勝手な護摩焚きを始めて。誰に頼まれた。言え!」

 煙にせき込みながら怒鳴るが、修験者たちは構わずに護符を燃やす。護符に混ざって青竹がくべられた。炎が天井にとどく。見る間に庵は炎に包まれて行った。

「空海のさしがねであろう。この秋田を殺しても空海の嘘は必ず露見する。護摩化そうとしても、護摩化しおおせはせぬ。帰って伝えるがいい。地獄で待っていると。臨終の時にはこの秋田が迎えに行くと伝えておけ!」

 修験者たちが炎を避けて外へ出た。秋田は布団と鍬を取り寄せると床をやぶって地面に潜った。

 庵は瞬く間に燃え落ち、炎は竹薮へ広まった。修験者たちは炎を逃れて立ち去った。



火事じゃ、火事じゃ


 煙は高台の円町からも望見できた。火は竹山全域に広がり、夜になっても、燃え続けていた。赤々と夜空を焦がす山火事に、かぐやは秋田を案じ続けていた。一方、老父は山火事どころではない。

「こちらも火事じゃわいな。かぐやがこれ以上嫌やじゃというなら、儂らにも火が付く。御門(帝)はどうあっても、かぐやにいで参れと仰せ。さあ、さあ、これ以上駄々をこねるでない。山火事など儂らには関係ないこと。精々里に住むことの出来ぬ乞食どもが焼け死ぬだけのことやて。儂らは帝に召されて天上暮らしの楽しみを考えればよい……」

 ……あるいは、秋田様も火に追われて逃げまどわれているかも……。里に住むことの出来ない乞食……。彼らは焼けるにまかせておけばよい?

「お父さま、もう一度もうします。わたくしは帝の御命令であろうと、お断りいたします。でも、御恩のあるお父さまに御迷惑をおかけするわけには参りませぬので、仰せにしたがって宮中へ参上しましょう。しかるのち、わたくしは自害します。それなら、お父さまには関係のないこととなりましょう。そして、わたくしが死んでも所詮は他人の子、お父さまに御褒美が下されれば、なに一つの損もなく済みます」

 老夫婦は返す言葉がなかった。下火になりかけた炎が、また一際高くあがった。

「火事じゃ、火事じゃ……」

 老父が力なく呟く。

「ねえ、かぐや。そうまで言わなくても……」

 老母が涙声でかぐやの手を取る。

「……かぐや、もう、この話は辞めにしましょう。かぐやがそうまで嫌やなものなら、私たちも諦めます。帝に罰せられるのなら、その時は一緒に罰を受けましょう」

 老父もうなづいた。

「もう一度参上して、儂から帝に断わりを入れよう。まさか、磔や焼討ちに合うこともあるまいし」

「いいえ、帝を怒らせれば、一門ことごとく殺されるも覚悟しなければなりませぬ。かぐやが死ぬぐらいなら、お断りして、私たちも一緒に死んで何の不服がありましょう」

「……かぐやに尋ねたい。どういう男のもとへ嫁ぎたいと思うのや。それを聞かせてくれ」

 かぐやは山火事を見つめていた。消えるかと思うと、にわかに高く炎が上がる。炎が吹き上がるたびに人の魂が天上に昇るという。

「また、誰かが、死んだのでしょうか……」

「? かぐや、私も知りたいし。お前がどのような殿御を夫に望んでいるのか、それが分かっていれば、こんどのようなことは無かったでしょうに……」

「お父さま……」

 かぐやは視線を山火事へ向けたまま、老父へ語りかけた。

「……いつか申しました。帝よりももっと上の方を望めばこそ、嫌や嫌やを言うのやと」

「……」

「人の世の最高位に付くその帝の上とは、それは逆に人の世の最下位の方に他なりません。最上といわれる方を越えるのは、上や下の差別の中で、最下位に位置づけられた方だけの権利です」

「よく分からないよ。この婆にも分かるように言うておくれ。たとえば、どのような仕事をしている男とか……」

 老父もまた、うなづく。

「仕事の中にも、人々に敬われる仕事と、軽んじられる仕事とあります。人に命令する仕事や、人に物を教える仕事は尊敬されます。私はそれが嫌い。そういう仕事に付いていれば、思い上がりが身についてしまいます。高い所から人を見て、命じたり教えたりするのが習い性になります。そういう人が立派な人、という考えでいれば、人の世は上下の身分差別で支配されてしまうでしょう。人の尊卑はただ、上下で考えるようになります。上は尊く下は卑しい。それを疑うこともないようになるでしょう。そういう不幸を作り出すのが、人に命令をする職業の人。一段高いところから、教えてやろうと構える人。そういう人は大嫌いです。そういう人よりももっと貴い人、それは人に命令しない人。人の上に立たない人。私にはそういう人が望ましく思います」

「ねえ、かぐや。そやから、そういう人とは、どのような仕事をしている人のことかね? 婆にははっきりと、その仕事を言うてくれないと、よくわからないよ」

「例えば、もの作りの人。例えば人の足の用をする人。タクシーの運転手さんなんか、私、大好きやねん」



再び空海の回想


 高雄山寺の空海は、いま得意の絶頂であった。日本全土の高名な僧侶が空海の足元に膝を折り、潅頂を受ける。最大のライバルである比叡山延暦寺の最澄さえも頭を垂れた。全ての者が自分の足元に頭を垂れる。人の世にあって、人に頭を垂れずにいるものは今や、自分だけ! いや、厳密にはもう一人いる。そう、天子とされる天皇がいる。天皇にもぜひとも潅頂を授け、頭を垂れさせてやらねばなるまい。

「官吏にならずに良かった。秋田も処分したし、全てはうまくいった」

 ……空海は考え抜いた末に、秋田が批判していた仏教を利用することにしたのであった。秋田の話に刺戟されて四国から軍を起して攻め上り、堂々と天下の覇者になることも夢見た。唐国ではそれが常道である。しかし、空海は帝王の末路も考えた。力で支配した者は必ず新しい勢力に倒される。それでは何の意味もない。永久に倒される事なく、人々に崇められて行くためには……? そのためには人の世を越え、人智で伺い難い世界の覇者となること。はっきり言えば魔王となること。魔術師となること。仏教の中にもそれがあった。呪術を専らとする密教である。さらに、空海は四国の修験者たちの、超能力修行に着目した。秋田が言うたように、彼らを利用しょう。彼らを使って朝廷を不安に陥れ体制を弱体化させるのではなく、人間の精神的弱点を利用して、魔法と呪術の帝王となるために……。権力者たちは呪術の虜となってこちらの意のままになる。さらに全国を行脚する修験者を掌握することは、天皇と並び立つ一方の自分を宣伝させるのに、またとない利用価値を持つ。天皇は倒れても、伝説化された自分は永遠に残る。我が一族も滅ぶ心配はない。……。

 困難はあったが、努力の甲斐もあった。一世一大の大博打に打って出て、ついに成功した。これからは仕上げの段階である。心することは自分の野心と策略を絶対に見抜かれないことである。その点でも、秋田の存在は危険であった。かっての学友や知人はすべからく自分を尊敬している。その中で、乞食同然の秋田が一人、鋭い眼光を向けていた。

「秋田を救ってやらねばならぬ。秋田に取り付いている悪霊は錫杖の印で逃げるような生易しいものではない。この上は大慈悲を発揮して、秋田を救ってやろう。悪霊に取り付かれた体は焼き捨ててこそ本人も救われる」

 空海の手足となって動く修験者が行動した。「地獄で待っている」と言い残したと言う。死後の地獄などあるわけがない。それを見極めればこそ大芝居を打ったのである。ボンクラどもに信じさせるために、苦行の真似もした。明星が我が口より入り来ると吹聴もした。唐国では恵果より使命を伝授され、投華の儀式では二回とも大日如来の上に落ちたと真顔で芝居を打った。ボンクラどもは皆それを信じた。彼らは桁外れの超能力者を求め、それを信じ込みたがっている。その心理を利用したのである。

 秋田一人がそれを見抜いていた。まさに悪鬼に取り付かれていればこそ、見抜けるのであろう。だが、人は秋田を信じぬ。乞食の世迷い事としか人は受け取らぬ。無名の者の真実よりも、たとえ不実虚偽であろうと力と地位と名声を獲得した者を有難く信じる。それがボンクラどもの習性である。

 大芝居を打って天皇に差し出した目録の中には、未だ仕上がっていない物もある。特に眼目の理趣経は未完のままである。周到に調べあげた上で、仏典に欠けている経目として最初から目星をつけていた。さすが叡山の最澄がいち早く注目して、その理趣経を見せてくれと言う。勿体をつけて断わっている。だが、ぼつぼつ完成させなければならない。空海は忙しかった。

 そういう時に、都では天皇がかぐや姫という娘に血道をあげているという噂が伝えられた。いつぞや、讃岐の同族と思われる佐伯の翁が、貴族たちの求婚を断わる智恵を求めてきた。なるほどと空海は一人笑いする。

「天皇を狙うためであったとは、さすが、我が同族よ……」

 ところが、天皇に求められてもなお、かぐやは断わり続けているとか。

「入手した情報では……」

 押さえた声で空海に伝えるのは、一人の僧侶である。元は修験者で、今は天皇の様子を探らせるために宮中へ放っている間諜でもある。

「……天皇は御身分を捨てられるかもしれないとか……」

「なに?」

 ものに動じない空海が珍しく気色ばんだ。

「……天皇制を廃止して、人の世の中の身分制をすべて取り払うかもしれないとか……」

「待て、待て。どこからそのような話を聞き出してきた?」

「帝の近従でございます。帝はかぐやと内密にお会いになり、すっかりかぐやの虜になってしまわれたとか。かぐやと語りかぐやと手紙をやりとりしている内に、天皇の身分に納まっている御自身をいたく恥じられるようになったとか」

「かぐやと申す娘、たしか佐伯の翁が実子ではなく、貰い子と聞いた。氏素性も知れぬ養女に帝がなぜそのようにまで……」

 空海は呻いた。分からなかった。自分の頭脳で、理解の出来ない人の出来事などあるはずがない。なぜだ? 間諜の僧侶は言う。

「かぐやは天上から下った天上人であろうと語られております。その智恵は天のものであろうと」

「たわけたことを!」

 ところがそいうたわけたことを有難がり信じるのが世のボンクラどもである。それを徹底的に利用したのが当の空海自身でもある。たわけた事をこれ以上進行させてはならない。伝説は一つだけでよいのである。



天皇は恥ずかしい


 信頼する人物からの情報ではあったが、空海はそれでも直接嵯峨天皇から話を聞くまでは信じられなかった。

「決して他言ならぬぞ」

 天皇は空海に念を押した上で、かぐやという娘とのやりとりを語った。

「わしは……、いや、儂などというのではなかったの。朕は……。変じゃの。まあ、空海の前じゃ、チンでもよかろう。朕はの、つくづく考えた。朕も人、彼も人、同じ人でありながら朕のみが人の世の最高位に付いているということは、これは大変に恥ずかしいことじゃと」

「お待ち下さい……」

 空海が遮る。

「……私は日本国はいうに及ばず、唐国、天竺と、人の行き来することの出来る全ての国の書物に目を通しております。天子様としてお生まれに成られた帝が、御自身を恥じられるというものの考えは何処の国にも一切ございません。まことに不思議。まことに奇妙。鬼の国ならいざ知らず。仏の国ではなによりも仏、人の国ではなによりも人の上に立つ天子様こそ最上に尊いのであります。そして下々の者においては、人の上に立つお方を敬うことにおいてのみ、存在の許される尊い命となります。それを帝御自身がお疑いに成られるとは……」

「いや、空海、そこが少し違うのじゃ。かぐやの言うた話をまあ、聞いてくれ」


 天皇は噂のかぐや姫を召し抱えようとして失敗したあと、双ヶ岡へ狩猟に出かけたおりに、佐伯の屋敷を抜打ちに訪問した。

「喉が乾いたし。この辺りの水はうまいと聞いておる。いやいや、儂はの、婆の手は苦手なのじゃ。これは病気での。婆の手、爺の手を見るとなぜか儂は引き付けを起す。娘の手でないと、儂は水が飲めぬ(たち)じゃ。娘に水を運ばせてくれ」

 怪訝そうに現れたかぐやは、柄杓を添えた水桶を差し出した。

「さての、わからぬの。なるほど美しくはある。眉は見事な三日月形。面長でいて、ふくよか。温かみを与える表情である。しかし、大騒ぎするほどのものでもなかろうに……」

「どちら様か存じませぬが、そう見つめられては困りますし。お水をどうぞ」

「ん、声も普通じゃ。別段怪しい女子でもない。いや、安心いたした。かぐやと申すのじゃな? 儂はの……、いや儂ではない。儂は朕と言うのじゃ。朕はの、そなたを召し抱えようと思う。普通の女子であれば、断わる理由はないはず。命を捨ててまで断わる理由はの」

 かぐやは相手が天皇と分かっても、動じる気配はなかった。帝の顔を直視して言う。

「お尋ねします」

「ん」

「チン様には女子はまだでございますか?」

 側にいた老母が慌てた。帝は笑った。

「儂は、いや、朕は十五、六の少年ではないぞ。宮中に戻れば女子は掃わいて捨てるほどおる。何も女子に不自由はいたしておらぬ」

「では、わたくしには用はないと存じます」

「いやいや、そこが違う。女子がおらぬ故、そなたに参れと言うのではない。あまたいる女子を差し置いて、そなたに参れというのじゃ。そなたはそれを誇ってよい」

「それならば、わたくしを切って、屍をお持ち帰り下さい」

「……?」

 老母がかぐやを叱責する。かぐやの代わりに地面に体を投げ出して詫びる。

「なるほどの。狂って言うているとも思えぬし……。かぐやとやら、言うてみよ。そなたは何を考えておる。何を思っておれば、そうまで言える。言うてくれ。すべてを話せば朕は引き下がる。語らねば、その時こそは、朕を侮辱したかどで、切るであろう」

 かぐやはおびえるどころか、微笑をもらした。

「今までの方よりは、少し賢いようでございます。あるいは希望が生まれるかもしれませぬ。嬉れしゅう存じます」

「うん、朕は伊達で天皇をやってはおらぬ。異を唱える者の心中を確かめることは、朕の大事な仕事じゃ」

 かぐやは、賢いお方であれば、この場ですべてを語れるものではないことをご理解下さい、という。そのかわり、書状に考えることをしたためてお送りします、という。

「のう、空海。かぐやの申すのには、人は男と女、一人づつじゃという。それなのに一人の男が幾人もの女を取り込むのは、神の意志に背くと言う。あってはならぬことを求める故に、屍を持ち帰れと言うたのじゃそうな。いや、儂は感心した。必ず手紙を書き送れと命じておいたところへ、送って来たのが、ほれ、これじゃ。読んでいるうちに儂は目から鱗が落ちたように、ものが見えるようになったぞ」



かぐや姫の手紙


 帝は手文庫から一巻きの手紙を取り出して、空海に指し示した。

 空海が手を伸ばすと、帝は手紙を胸に抱いて(かぶり)を振る。

「これは誰にも見せられぬ。じゃが、さしつかえのないところを読んで聞かせよう。驚くなよ、空海」

 表情を殺した空海は、帝を軽蔑して眺めていた。女子に狂った浅ましい一介の男に過ぎない……。

「空海、途中は飛ばすぞ。……わたくしは真実な方を求めています。と書いておる。そしての……」

 ……親がかりで身に付けた才能は、自力で真実を掴んで立ち上がる人を殺します。親がかり、教師がかりで教え込まれ、訓練された能力というものは、人の世の狂いを見つけることも出来ないし、たとえ気付いたとしても、是が非でもそれを改め、作り直さなければならない、という情熱は生まれません。その使命と、その素質を持っている人は、親がかり・教師がかりではない人です。親もなく、教師もなく、自力で真実を掴み、泥沼から立ち上がる人です。そういう方こそ、真実の人、神の人。恵まれた環境に育った人々は、そういう神の意志を帯して、どん底から立ち上がる人を、待ち望み歓迎することだけが、唯一の任務となります。しつこく言いますけれど、恵まれた人は神の意志を知ることは出来ません。自得のものと思っている知識も才能も、全部、既成の秩序を通して与えられたものに過ぎないからです。たとえ、その既成知識の過ち、罪深さを知ったところで、その過ちと罪に育てられたのが当の自分であれば、それを破る必要もなく、情熱も生まれません。逆に真実な人・神の人を嫌悪排斥するのです。親から財産を受け、親の七光で自分の地位を獲得したのであれば、それを危うくする思想を帯してものを言う人を抹殺することでしょう。

 どうか、寛大なお心で、お読み下さい。朕様に当てつけて言うのではありません。でも朕様こそ、そういう身分の高さで自我を形成した不実な人たちの代表者でもあります。それを指摘するわたくしにお怒りになられるか、うなづかれるかは、朕様次第でございます。わたくしはお怒りにはなられないと信じております。どうぞ、もう少し言わせて下さい。

 わたくしは今でも天子様とか帝さまとか聞いただけで身の毛のよだつのを禁じ得ません。素晴らしいとも立派とも、尊厳とも思えません。申し訳ございませんけれど、天子様とは不実な人の世の象徴です。永遠に人を不実に縛りつけようとする象徴です。はっきり申し上げて、大変におぞましい身分です。もし、朕様が人間として真実に立派な方で有れば、天皇として生まれても、天皇を恥じて自らの地位をなげうち、いっそ、鴨の河原で苦しむ人に天皇の位をお譲りになられるかもしれません。もし、朕様がそういうお方があれば、私はどれほど嬉しいでしょう。どれほど感動することでしょう。

 私はさらに思います。天皇の身分は、いつでも人の世で、最も不遇な人を選んで伝授することにすれば良いのでは……と。朕様にそれが出来るでしょうか? いいえ、出来ないでしょう。天皇の御自分こそ、前世から仏に仕えて徳を積んで来た最上の人間であると思っておられるのではないでしょうか。その考えから導かれる結果は、不幸な者は仏に仇をした罰当り、人間として扱う必要のない者、という恐ろしい人間差別の考えが自然に生まれて来ます。

 天皇としての朕様がいることは、このように人間を生まれながらにして貴い者、卑しい者、という上下に差別する拠り所を与えてしまうのです。そこに思い到れば、誰でも身震いを覚えるでしょう。天皇とは何というおぞましい存在であったのかと、恥ずかしさを覚えるでしょう。……、……。


「嵯峨、もうよい。読むのはやめろ」

 いきなり、空海が帝を呼び捨てにした。帝は空海を見つめた。信じられないといった表情で……。

「失礼いたしました。お分かりになられたでしようか?」

「空海、いま、なんと言うた?」

「口が裂けても二度とは申せませぬ。その書状の考えには空海に心当たりがございます。ついこの頃のことでございましたが、(たち)の悪い悪霊に取り付かれた私の友人がおりました。悪霊から友を救うために祈祷いたしました。悪霊は友の体を破って北の方へと飛び去るのを見ました。いづこへ行ったものかと心配いたしておりましたところ、はたして、その悪霊はかぐやと申す女子に取り付いた様子。いま、全てが私に見えました。悪霊はかぐやから帝、貴方へ乗り移ろうとしておりますぞ!」

「儂は天皇をやめてもよいと思う」

「なりませぬ。そういう考えこそ、悪霊の差しがね。帝に取り入った悪霊は人の世を破壊するでありましょう。帝が人の世からいなくなれば、何よりも民百姓が嘆きます。人の秩序が破壊されて一番に苦しむのは民百姓であります。帝は万民のために、天皇の地位を守らねばなりませぬ。よろしいか、もし、天皇の地位をなげうてば、帝はもはや、人の世に生きては行けませぬぞ。賎しき者と同列に扱われてもよろしいのか。よろしいわけがござりませぬ。貴いお方が、賎しい者と同列になれば、その時こそ、世は末でございます。人の滅びる時でございます。帝、正気に戻りなされ。悪霊が取り付いて来たことにお気づきなされ」

「わかった、空海。よく言うてくれた。朕も、少々気になっていた。そやさかいに、始めに念を押しておいたのじゃ。決して他言ならぬとな」

 空海ははじめて微笑した。ともかく危機を脱したと思った。



天皇も役不足


 かぐやは老夫婦へ別れを告げた。書いてはならない手紙を書いてしまった。召し抱えを拒絶して死を覚悟していたために、恐れを知らずに思いのたけを書いたのであったが、それを帝が理解してくれる保証はない。あるいは、決定的に災難が訪れるかもしれない。いや、必ず咎めが来るに違いないと予測された。

「ここに兵が押し掛けて来る前に、わたくしが出て行きましょう。お父さま、お母さまに御災難があってはなりませぬので……」

 老夫婦は肯んじない。

「門を閉ざしてしまおう。何人も入れはせぬ。焼討ちにするのなら、そのときは三人一緒に死ぬまでのこと」

「いいえ、お父さま。わたくしは出て行かねばなりませぬ。わたくしは所詮、人の世に迎えられる者ではございません」

「何を言うの心や。まるで天上人のようなことを申して……」

 老母も言う。

「やはり、かぐやは天上の人です。人の世の天皇でさえ、かぐやには役不足。でも、ここを出て行く当てはあるのかえ。まさか、天上から迎えが来るわけでもあるまいし」

「そや、そや。天上から迎えが来ると言うのなら、爺も納得するが、誰も迎えに来ぬのに、何で、かぐやを家から出せよう」

 黙するかぐやに老母が言葉を重ねる。

「かぐやを迎える人がいるのなら、婆もかぐやの嫁入りと思うて送り出しましょう。さあ、どうえ? 誰か、迎えに来てくれる人がいるのかね?」

 かぐやは顔をあげて、おもむろに語りだした。

「わたくしを迎えてくれる人がいれば、出してやるとのお言葉、嬉れしゅうございます。実は、心に止めている方がおります。皇帝でもなく、富豪でもございません」

「そうじゃろね。かぐやは天上人やさかい、地上の皇帝や金持ちなどには興味は持たないでしょう。婆にはもう早くから分かっていましたえ」

「それで、かぐや。心にとめている人とは、誰やねん? それを聞かぬことには、爺は納得せぬ」

「子供のころ、憧れて眺めていました。馬を曳いて人々をお山のお寺へ運んでいる方。乗っている人は貴公子もいれば、貴婦人もいる。貧しい人もいれば、病人もいる。お金がなくて困っている人には只で乗せてあげていた。病人にはやさしく手をとって助けてあげていた。身分の高い方、低い方、何一つ区別なく足元の履物を整えてあげていた。わたくしは東山の麓で、そういう光景を毎日眺めておりました。きらびやかに着飾って威張っている人よりも、馬の手綱を曳く方に心を打たれました。中でも印象に残っているのは、首から尾っぽへかけて、紅い紐を掛けている馬でした。秋田の小父様におねだりをして、その馬に乗せてもらいました。今一度、その馬子に会いたいと思います」

 老夫婦は顔を見合わせて溜息をついた。

「天上人のかぐやと、婆が言うものやさかい、どのように素晴らしい男子の話をするのかと思えば、ただの馬曳きに会いたいとは……。ならぬ、ならぬ」

「馬子でもよいでしょう。しかし思い出の話だけでは婆も納得出来ません。いま、かぐやを迎える人がいるか、いないかを聞いているのですよ」

「おりますとも。わたくしは今からその方を探しに行きます」

 出かけようとするかぐやを老夫婦は取り押さえ、座敷の奥へ閉じこめた。


 かぐやが案じていたように、ほどなく佐伯の屋敷は兵たちに取りまかれた。

「かぐやを引き出せ」

「かぐやを捉えろ」

 ところが、踏み込んでみると、かぐやは何処にもいなかった。かぐやの着ていた十二単が、風に搖れて芳香を漂わせていた。

 かぐやの替わりに引き出された老父に帝は言う。

「心配いたすな。もとより危害を加えるつもりはない。かぐやをそなたの屋敷においておくことはかえって危険であったのじゃ。空海に率いられる修験者たちが、かぐやに(たち)の悪い悪霊が乗り移っておるというて騒いだからの。空海には朕も叶わぬ。修験者を手兵にしておるために、逆らうわけにはゆかぬ。その空海が、かぐやに悪霊が取り付いておる、悪霊退治をせなならぬ、と言い出せば、かぐやの身に危機が訪れることは目に見えているであろう。それで、朕が先に兵を差し向け、かぐやを救おうと思うたのじゃ。宮中に入れて守ってやるつもりであった。だが、逃げたとあれば方針を変えよう。よいか、爺。かぐやは天上へ帰ったのじゃ。逃げたのではない。かぐやは元々天上の女子であった。それをこれから、誰彼にとなく話しまくるのじゃ。悪霊などと言わせないために、逃げておるかぐやを守るために、神が使わした天女であったと、言いふらすのじゃ」

 佐伯の爺を返した後、帝は一人でつぶやいていた。

「かぐや、よい馬子と出逢うがよい。皇帝の座を捨てて、儂がかぐやと一緒になりたいものやが、それがどうしても出来ぬ。もし来世というものがあるのなら、そのときは儂が馬子になろう。紅い紐を左右に付けた馬を曳いて会いに行くであろうし……」




天女のうわさ


 空海は苦々しく都の噂を聞いた。天女が来たりて、人の上下の差別を廃止せよと帝に告げた、と言う。帝は天皇に生まれたことを恥じて、帝位を鴨の河原の乞食に譲ろうと決意した、云々と。

 これ以上、噂をひろめさせてはならない。天上に帰ったなどと語られれば、いよいよ不埒(ふらち)な思想が人々に伝播(でんぱ)する。なんとか噂を消す方法はないものかと、思案している内に、さらにもう一つ不愉快な話が伝わってきた。帝が天上のかぐやへ手紙を書いたという。その手紙の発進に、不二の山へ壇を築いて天上へ送ったと言う。次から次に噂が生まれる。空海は危機を感じた。

 かぐやの噂が広まることは、同時にかぐやの思想を人々に語り伝えさせることになる。このような思想が広まれば、いずれは身分制度が破壊するであろう。人の上に立つ身分を恥じるような物語が伝聞されては、努力に努力を重ねて今日の地位を勝ち取った自分の存在さえ無意味になってゆく。人の上に立つ者はあくまでも尊い者でなければならない。積徳の因果として得られたものでなければならない。

 空海は決意した。この出来事を別の物語に作り直そうと。自分の手で当り障りのない話に変えてしまおう。たとえ真実な話が伝えられても、自分の書いた物語で消されてしまうように……。

 最澄から再び理趣経を見せろと要求された。最澄を相手にしている段ではなかった。 (了)




     かぐや姫 執筆の動悸


 既に二十年は経過したであろうか。奈良の土地から京都へ電車通勤をしながら、京都のタクシー会社で働いていた。奈良にもタクシー会社はある。近くの一流と誇っていた会社へ適当に書いた履歴書を持参して就職を申し込むと、出生地や身元保証人、財産などを聞かれた後で、筆記試験が用意された。

 国語・数学・物理・自動車工等である。中学卒業程度の問題であった。残念ながら高正解率ではなかった。それでも五十点以上は正解したはず。

 タクシーならそれでいいのではないかと……

 後日、不採用のハガキが来た。理由は何も書いていない。

 私と一緒に二種免許を取りに行った地元の農家の三男坊は、即日採用と言われたらしいが……。彼が私よりも学力が高いとは見えなかったというのに……

 財産はない、九州から来たばかり、その上、保証人は地域の地域会長に依頼するつもりだと言ったのが、ネックであったか……。

 私はタクシーへの就職に執念を燃やしていたわけではない。取りあえずの腰掛けであった。それを見透かされていたのかもしれない。

 職業安定所に行くと、京都のタクシー会社が募集しているという。京都は元々の憧れの地であった。行ってみると、奈良の一流会社と同じ会社でありながら、格式張ったものはなかった。試験もなかった。温厚な面接官が、二、三の話しをしただけで、保証人は職安で結構。それを持ってくれば良いという。実に簡単な話であった。

 一通り契約の書類に署名捺印をすませると、早速明日から来てくれと言う。五日間の講習を済ませると営業に入って貰うという。

 面食らってしまった。面接兼指導教習官はいう。

「奈良はな、農家の息子が多いんや。資産家の親父が保証人になる。よそ者はいらんのや。京都は奈良のような田舎ではあらへん。試験問題なんか、断る理由に使っとるだけや」

 憧れの京都で仕事が出来る! しかし本当に営業して回っていいのだろうか?

 或いは周辺の郊外や住宅地だけを走れ、と言われるかと思うと、

「何処でも行っていい。タクシーのいる所、走っている所なら、禁止地帯は一切ない」

 恐る恐る東山一帯を走った。すると、女性が手を挙げた。初のお客であった。今までの商売の感覚で、感謝の意思表示に端数を値引きしてやった。

「反対ですね。お気張りやす」

 その女性こそ、数年後に私を贔屓にしてくれたある料亭の娘さんだった。「もう、慣れましたか? 初めての営業で初めてのお客ということで、値引きまでしてくれたので、覚えていますえ」

 何度も指名されては、祇園の店へ、また、祇園から郊外の自宅へと送り迎えした。

 私はその方へラブレターを書いた。そのラブレターが、「真説・かぐや姫」である。

 店へ郵便で送った。感動して貰えると信じて……。結婚の準備を整えて、迎えがくるかも知れない!


 しかし、ナシの礫であった。それ以後、二度と私のタクシーには乗ってこなかった。

 作中、かぐやに語らせた「紅いリボンを掛けた馬に憧れていた」云々は、その当時の私の働いていた会社の車体ボティのスタイルであった。(その会社もそのスタイルのタクシーも、今はない)

 失恋したのであった。感動を呼ばなかったのかと、この作品は封印されたのであった。


この「真説・かぐや姫」は、ラブレターとして書いた。求婚してくる貴族も天皇さえも断り、「妾の求める人は‥‥」と語るその相手が、、、筆者としているのだ。

「‥‥富みでも力でも地位でもない。人々の足となって働いている人こそ妾の憧れのひと」

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