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金魚鉢の中から  作者: 睦月 葵
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クレイマー・クレイマー

 景気が悪くなると、治安が悪くなるのは当然で、割とタクシーは標的になり易い。多分、車中で一対一・もしくは一対複数の関係になるからだろうと思われる。

 いわゆるタクシー強盗や当たり屋・挟まれ屋などもその類いではあるが、防犯マニュアルもあるし、警察の介入もあるので、生命さえ守れば何とかなる場合も多い。どちらかと言えば、発生件数の少ないそれらより、やっかいなのはモンスター・クレイマーと呼ばれる類いの方々だ。


 つい先日、二十一時頃のご予約で、とあるマンションにお迎えに上がった。おいでになったのは御夫婦と中学生ぐらいの男の子で、これから歓楽街に行くとおっしゃる。失礼ながら、御主人の風貌と子供連れで歓楽街に行くという二点で、こちらの警戒心は自然と高まった。

 それでも、マニュアル通りにご予約のお名前を確認する。

 何度もお会いしている方ならともかく、初見のお客さまには当然の対応だ。社に送られて来るクレームで最も多いのが、『乗車間違い』という、たまたまそこに居た予約の方ではないお客さまを乗せてしまうパターンだからだ。この場合、個人情報の問題と、こちらから「○○様ですか?」と伺った場合に、「そうそう」と適当に返事をして乗ってしまう人が問題になる。それ故、お客さまの方から名乗って貰うことになるのだが───その方は、突然キレた。

「予約したのに、名前を名乗れなんぞ、かつて言われたことがない。こんな無礼な対応は初めてだ」

 と、いうのが先方の言い分なのだが───いやいや、それは無いでしょう。

 食事の予約でもホテルの予約でも、新幹線や飛行機での予約でも、必ず予約表や本人確認はされる筈だ。それを拒むということは、何かあるということでもある。

 車内で大声で騒ぐ男性に対して、私は言葉少なにマニュアル通りに対応した。不審なものを感じるこの場合は、熱くなって暴言を吐いたり、揚げ足を取られるような言質を与えないことが重要。


 結局、このお客さまはすぐに降りられたが、直後にクレーム処理をする部署に報告を入れ、翌朝には上司に詳細の報告を入れたので、わたしは無罪放免になった。加えて、逆にそのお客さまは、当社では予約を受け付けないブラック・リスト入りを果たす結果となった。

 それはまあ、予期していたことなのだが、非常に不愉快だった事が別にある。

 車内で騒いで、「お前の会社にクレームを入れてやる」と騒いでいる間、その男性はスマホで私の顔写真を撮り(マスクをしていたが)、タクシードライバーの登録証である顔写真入りの許可証の写真も撮っていた。おそらくこれは、言葉にしなくても、「ネットで拡散してやる」という脅しの一種だと考えられる。


 そして、私が不思議に思うのが、逆のパターンを考えられないのだろうか?───という事だ。


 こちらにはドライブレコーダーがあり、お客さまの言動は逐一記録されている。加えて、肖像権の侵害・プライバシーの侵害・恐喝罪・畏敬業務妨害が適用されるのではないだろうか?

 『ネット上の誹謗中傷』は近年大変問題になっているが、立件するのが難しい理由は、個人の特定が出来ないという点にある。けれどもこの場合、家・名前・顔・電話番号が判明しているのだから、個人の特定は全く問題ではない。

 ネットで拡散された場合、裁判に訴えることを会社が許可するかどうかはともかく、まともにやりあえば自分が不利だとは考えないのだろうか?


 そしてもう一つ。

 どうしてもお客さま優位のサービス業において、このようなモンスター・クレイマーに対する処罰や、ネットを利用した個人への誹謗中傷に対する法律が、余りにも甘いのではないかということだ。

 仕事上で起こった事でも、従業員を守る各会社の対応が甘い。会社の面子を考えて、訴えてくれるなというのが大方の態勢で、大事にしてくれるなとは、全く別の仕事をしていた別の会社でも言われたことである。


 そんなこんなを思うと、部下や秘書に責任を押し付けて、本来最高責任者であるトップが微塵も責任を負わないという現在の日本社会の在り様が、アジアでトップクラスと言われる先進国だった日本の衰退の原因になっていると、どうしても思ってしまうのだった。


 たった、¥590の料金を貰えなかった時のお話。


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