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小食

作者: へしおど

同僚に、ひどく小食な男がいた。それを知ったのはいつかの飲み会の席だった。運ばれてきた料理に全く手をつけないのを見かねた上司に絡まれていたのを、よく覚えている。

それはやつが飲みの席に初めて顔を出したときだったが、食事が喉を通らないのだと思っていた。なにせやつはとても緊張しいで、照れ屋な男だった。やつは小さな声で何度も、なんだかおなかが空いていないんです。と答えていた。


それ以来、やつを観察しても、ものを口に運んでいるのを見たことがない。毎日の昼の休憩で、やつはずっと本を読んでいた。飲みの席にたまに顔を出しても、酒を一杯空けるか空けないかと言う程度しか口に入れないのだ。


やつは話してみると存外良いやつで、人前でなければ声のでかい男だった。特に、本の趣味が合ったのがよかった。それで話が弾むことも何度かあって、いくつか季節が巡る頃には、もう頻繁に話すようになっていた。それでも、何かを積極的に何か食べているのを見たことがなかった。


ダイエットでもしているのか、と聞いたことがある。あまりにも何も食べないから、そんなに体重を気にしているのかと。やり過ぎはむしろ毒だぞとも言った覚えがある。それに対する返事はなんとも頼りない物で、う~ん、とか、いやぁ、とか言っていたが、なんでも本当に空腹になれないということだった。


じゃあ家で食べ過ぎたりするのかと聞くと、家でもほとんど食べたりしないと言っていた。ほんとうに良いやつだが、さすがにこれを疑うのが道理に反することはないと思う。別に嘘を見抜く才能なんてないけれど、真偽でも見抜こうと、やつをじっと見ていた。すると、やつの肩に毛のような物が付いているのに気がついた。


茶混じりで硬そうなやつの髪とは違って、綺麗な黒でしなやかなものだった。決して長いものではなかったが、女だ、と直感した。

彼女ができて、その影響で物を食べなくなったのだろう。それが果たして自分以外の飯を食うななどという束縛の強い女に捕まったのか、やつ自身が何らかの理由で外食をしないと定めたのか、あるいはそのほかの理由かは知らないが、とにかく、その女が原因だろうと思った。


照れ屋なやつが彼女のことなど話せるはずもない。そのことを隠すために無理な嘘をつき続けたことを、本当にばかだなぁと思うと同時に、実にやつらしい誠実さだとも思った。いまはそういうことにして、時間が状況を変えるのを待ってやろう、そう考えていた。


そして一年経っても、なにも変わらなかった。

季節がさらに一巡してもやつは昼飯も食べず、夕食の誘いも断るか酒一杯で済ませていた。たまにやつのではない髪の毛をつけているのもそのままだった。変ちくりんな制約の中でも長続きするお似合いのカップルなのか、それとも別のなにかなのか、もう分からなくなっていた。ただ、一年間観察をし続け、謎が深まるばかりだったこちらが限界だった。


ある金曜、今日の仕事帰りに家に行ってもいいかと聞いた。この一年、一緒に遊びに行くことはあったが、お互い家に行ったことはなかった。だがいい加減、仲もそれなりに良くなった。家を見てみたくても、それを口にしても違和感はないだろう。

彼女がいるのであれば、少しくらいは抵抗するだろうが、そこは口八丁でなんとか……と考えていると、果たして答えは、いいよと即座に返ってきた。その後、何にもないけどとか汚いけどとか言っていたが、驚きというか拍子抜けして、あまり聞けていなかった。とにかく、やつの生活を暴く機会を得たのだった。


やつの家は意外なことに、ビルの間に立つマンションだった。やつの先導に従うまま七階の一室の扉の前に立つと、やつは一切のためらいなく鍵を取り出し、ガチャリと扉を開けてしまった。こちらが身構えてしまっていて、肩すかしを食らったようだった。

もし本当に彼女がいるならと多少配慮して、わりあい丁寧に靴を脱いであがった。中には、一つのベッド、テレビ、テーブルに小さな冷蔵庫、本棚にはやつが好きな作家の本が詰まっていた。


見るからに、一人暮らしの男の部屋だ。


隙を見て、本棚を詳しく見たりタンスの中なんかを探ってみたけれど、別に女性の影などは見つからなかった。

せめて、本当に家でも食べないのかと、冷蔵庫を開けた。

驚くべきことに、何も入っていなかった。正真正銘、なにも。暗い庫内には調味料や飲み物の類いすらなく、これから捨てるとでもいうかのようだった。

ここで違和感を覚えた。なにか当たり前のことを見逃したと思ったら、冷蔵庫のなかが暗いのだった。昨今の冷蔵庫は、扉を開ければ明かりが点くものだろう。そういえば冷気も出ていない。やつは、冷蔵庫の電源すら切っていた。いよいよやつは、本当に何も食べなくても生きていけるのかもしれない。さすがに少し、不気味だった。


やつはさも当然と、それを気にする様子もなかった。そのことには触れず他愛のない話をして、時間が過ぎていった。今日泊まっていくかというのは、驚くべきことにやつの方から言い出した。こちらとしても、やつの不気味さを除けば良い友人であるので、その提案に否やはなかった。喜んで、その言葉に甘えることにした。

その日は遅くまで話して、少しゲームをして、床についた。就職してこのかた、純粋に誰かと友人として接する機会もほとんど無かったものだから、この時間はなんとも大事になってしまった。良い心地で微睡んで、そして意識を放した。


――――深夜、目を覚ました。恥ずかしながら催してしまい、あぁ年をとったなどと適当なことを考えながら、体を起こしてお手洗いを借りた。用を足し終え、手を洗う頃にはすっかり目が冴えてしまった。

手を拭き、元の部屋に戻って時計を見れば深夜三時を回った辺りだった。翌日に響くのは避けたいところだったので、また眠ろうと横になった。


しかし冴えた目はすぐには眠気に負けてはくれないようで、手持ち無沙汰な感覚達が、唯一の物音であるやつの寝息を追い始めた。すぴすぴと規則的に漂う寝息を聞いていると、次第に冴えた目もまぶたの重みに閉ざされようとしていた。そんなときだった。


ぎり。


歯ぎしり。


ぎりぎりぎり。


唐突に異音を捉えた耳は、再び覚醒をもたらした。やつの歯ぎしりは次第に大きくなり、それに呼応するように、窓の外で風が吹き始めた。木の葉をこするような音がする。それも、歯ぎしりとともに大きくなっていった。


ここに、不幸があった。

ひとつめ、目が冴えていた。ゆえに思い至った。

――――いや、この近辺に木はなかった。では何がこの音を立てているのか。


二つ目、すぐに寝付けなかったがゆえに、目が十分に闇になれてしまっていたこと。ゆえに見てしまった。

――――部屋の角、影でなにか蠢いていた。


そこに意識が向いたとき、音の源を理解した。その姿は黒、何かが集まって蠢いている。それらがこすれるとき、がさがさと木の葉のような音が立っていた。


ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎり


それがきっと合図だったのだ。その蠢く黒が、歯ぎしりに応えるようにいっそうとざわめき、動き出した。その姿は、黒。集まっていたそれらはそれぞれ六本の脚と翅を持っていた。がさがさと神経を逆なでる足音、てらてらといやらしく光を反射する躰。

数百では済まないその群れが部屋の壁を駆け、床を這い、気味の悪い羽音を立てて一直線にやつを目指す。部屋の中はその「音」で満たされた。視界が闇ではない黒に染まる。耳の奥がそれらの音に塗りつぶされる。


そのままやつの眠る布団、服、体を這い、顔まで登り―――――やつの口の中にするりと入り込んだ。黒い者達は次々にやつの口に滑り込む。


次から、次から、次から次から次から――――――それを、見ていた。


声など出せるはずもない。口を開こう物なら、次はこちらに来るかもしれない。動いたら、気づかれるかもしれない。だから、ずっと、ずっと、見ていた。

いったいどれだけの時間そうしていたのかなど覚えていない。ついに最後の一匹がやつの腹に収まりきると、まるで何事もなかったかのように、深夜の静寂が戻ってきていた。部屋の角にはもうなにもいない。あの大群はどこから来たのか、穴などはどこにも見つからなかった。


眠れなどするはずがない。見れば、空が白んでいた。


やつが起きる前に、そっとやつの部屋を出た。あの場にいて正気でいられる自信がなかった。

扉を開ける直前、部屋で一本の髪の毛のような物を見つけた。黒く、そして決して長くはないそれ。拾う気など起こるはずもない。踏みにじる気すらしなかった。ただ、事実としてのあの光景が脳裏に焼き付いて仕方がなかった。がさがさという足音、やつが虫達を飲み込む音、どちらもが耳に焼き付いて離れなかった。そうして、やつの部屋の扉を閉めた。


あれ以降、適当に言い訳を付けて奴を遠ざけている。やつはいまだにこちらを嫌ってはいないらしい。相変わらず良い奴だ。

ただきっと、やつはどこでも小食で、そしてその理由だけは――――――きっと俺だけが知っている。


あぁ、気味が悪い。

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