地下通路
マンホールを降りた先には、ギリギリ屈まなくていい程度の狭くて真っ暗な通路が延びていた。
……不満はない、不満はないが、風化した鉄のニオイで鼻の奥が痛くなりそうだ。
さすが長年放置されていただけある。
しかし下水道ではないだけマシかもしれない。
下水道に入ればたちまち体にニオイが染みつくからな、あれは遠慮したい。
「じゃあ行くぞ」
ランディを先頭に通路を進む。
「なあランディ、どのくらいで着くんだ?向こうに」
「30分ってとこだなあ」
「そっか、意外と早いな」
「まあな、危ねえけど」
今のところ危険な要素はない。
まだ進み始めたばかりだし当たり前かもしれないが、この先に何があるのだろう。
「よし、まずはここだ。危険ポイント1、ゴミ山!」
しばらく進んだ頃、立ち止まってランディが話し始めた。
「ゴミ山?」
「ああ、この先に大量のゴミがある。知っての通りここは狭い通路だ、そこに大量のゴミがあれば掻き分けて行くしかない。結構キツイぞ?」
「うわ……マジか。……でもここは使われてないはずだろ?なんでゴミがあんだよ」
「おそらく通気口だ。上と繋がってる通気口があるんだけどよ、そっから投げ捨てられたゴミが日々蓄積していったんだろうよ」
「なるほどなー。まったく、ポイ捨てはダメだってママに教わんなかったのか?そいつらは。……でもまぁゴミだけなら危険って程でもないな、確かにキツそうだけど」
服は汚れそうだが、それだけだ。
大した事はない。
「いやすまん、キザキのあんちゃん。本題はこっからだ」
「へ?」
これ以上に何があるというのだ。
大した事ないとはいえ、ゴミ山を通って行くの結構嫌なんだよなぁ……これに何が追加されるのやら。
「……ヤツがいるんだよ……ゴミに紛れて……」
「ヤツ?なんだ?ヤツって」
まさかここにまで魔物が来てるって訳じゃないだろうな。
「……ゴキブリだ」
「そうか。で、本命は?」
「いや、だからゴキブリだ」
「ん?それの何が危険なんだ?」
「おいおいキザキのあんちゃんよう!なんともねえのか!?ヤツを見てゾクゾクっとしねえのか!?気持ち悪くねえのか!?」
「まぁそうだな……動き速いし厄介だなーとは思うけど、それ以上は何とも思わないな」
「キザキのあんちゃん……あんた……凄えよ。……二人はどうだ?無理なタチか?」
ランディに話を振られたリオナとドゥンスは互いに顔を合わせてから同時に口を開いた。
「問題ないわ」
「問題ないが」
澄ました顔の二人を見て、落胆するランディ。
「なあ……俺だけかよ……苦手なの……。さっき向こうからこっちに来た時もドゥンスが妙に落ち着いてやがるからまさかとは思ってたけどよ……ハア……何で平気なんだよ……」
「ランディ……。まぁ……人それぞれ苦手なものって違うと思うしさ、うん、そう、人それぞれだから。あ、そうだ!ここは俺達が先導するよ!片っ端から潰していけば問題ないだろ?」
「やめろ!やめてくれ!それは……オエェ……やめて……くれ……」
「ランディ?大丈夫か?ゴキブリは俺達がグチャグチャに潰しておくからな。安心してくれ」
「それは……オエェ……頼むから……やめ――」
「おう、頼まれた!任せくれ!」
ランディのやつ、吐き気がしてくる程ムシが嫌いなんだな……よし、ヤツらを殲滅しよう。木っ端微塵に……グチャグチャにしてやる!
「ランディはここで待っててくれ。よし、じゃあリオナ、ドゥンスさん、行こう!」
「はい、キザキ様のお手は煩わせません」
「弱者を殺生するのは好きじゃない……だが致し方ない。早めに済ませるとしよう」
三人は足早に先を目指した。
「おい……待ってくれえ……」
ランディは走り去る三人の背中を見て、ただ手を伸ばす事しか出来なかった。
「ここがゴミ山か。確かに……山だな」
先に進むと、所狭しと詰まったゴミ達によって通路は行き止まりとなっていた。
「……行くしかないよな。よし、行こう」
「はい」
「うむ」
俺達はゴミ山に突入した。
掻き分けても掻き分けても埋まっていくばかりで気が滅入ってしまいそうだ。
今のところヤツらは見当たらないが、本当にいるのか?
―――カサカサ
「ん?」
なにやら音がしたが……というかそこら中から音がするのだが何の音だ?
「なんの音でしょう」
「……キザキ殿、警戒せよ」
「なにを?」
「ヤツらだ。既に囲まれている」
「なんだって!?」
真っ暗でよく見えないが音だけが鮮明に聞こえる、カサカサカサカサとひっきりなしに。
たまに耳元を飛ぶ羽音も聞こえるあたり、ヤツらは俺達を弄んでいるのだろうか。
「キザキ殿、ここのゴキブリは特殊だ」
「なにが?」
「人を食う」
「でええ!?先に言ってくれよ!下手したら俺達ここで死ぬかもしれんのかい!?」
「すまない。うっかりしていた」
「うっかりって……まぁやることは変わらない。ヤツらを殲滅するまでだ」
どちらにせよここのゴキブリを殲滅しない限りランディが来れない。
殲滅という道以外存在しないのだ。
だがどうしたものだろう。どうやって潰す?ゴミに包まれた状態では身動きが取れない。となるとまずは先を目指してゴミ山を抜けるのが最適だろう。
「二人共、まずはゴミ山を抜けよう。ここじゃ一方的に食われるだけだ」
「分かりました、キザキ様」
「うむ、それがいい」
俺達は一心不乱にゴミを掻き分けてゴミ山を抜けた。
途中腕や足を噛まれたが、致命傷にはならなかった。
本当に人を食うんだな、ここのゴキブリは。
「ふぅ、二人共大丈夫か?」
「は、はい……なんとか」
「ああ問題ない」
ドゥンスさんは問題なさそうだが、リオナはかなり疲弊している様子だ。
腕や横腹や首、傷が多い、何故だ?あちこち服が破けていて、血が染みている。
「リオナ、本当に大丈夫か?」
「はい……もちろんです」
「そうか、でもなんでリオナばかりこんなに狙われてんだ?」
「キザキ殿、人食いゴキブリは女が好物だ。続いて甘い匂いに誘われる傾向がある。リオナは女であると共に甘い香水をつけている。それが原因であろう」
「マジかよ……ていうかそれも最初に言ってくれよ!」
「すまない……うっかりしていた」
仮面のフィッチと呼ばれる無表情の男が珍しく申し訳なさそうな表情をしていたので責めるに責められない。
「まぁ……そういう事って結構あるよ、うっかりする事。それに、後になったとはいえちゃんと言ってくれたし、オッケーだよな?リオナ」
「ええ、オッケーですよ」
「すまない……キザキ殿、リオナ殿」
さて、ゴミ山を抜けたはいいがこれからどうしたものか。
ヤツらを一掃するにはどうしたらいいんだ。
そんな考えを巡らせている俺の顔を見てか、リオナが口を開いた。
「キザキ様、考えがあります」
「そうか、どんな考えだ?」
「私がおとりになります」
「さっきの話の通りなら確かに名案だ。リオナに誘われて出てきたヤツらを端から潰していけばいいだけだからな。でも危険だ。一斉に出てくれば間に合わない」
「他に策はありません」
確かにその通りだ。他に策はない。何をするにしてもまずはおびき出さない事には始まらない。そしておびき出すにはリオナを使うしかない。けど……。
迷っている俺の姿を尻目に、リオナは独断的に香水を体に吹きかけ始めた。大量に。
甘ったるい匂いが通路に蔓延る。
「リオナ!」
「これしか方法はありません」
「仕方あるまい、キザキ殿」
「そう……だな」
数秒経った頃カサカサという音が極端に増し、鉄製の通路に振動が伝わってきた。あり得ない……普通奴らの質量で体感できる程の振動が発生するか?いやしない。だとすれば想像もできない程の大群が押し寄せてきている。それもかなりデカイやつ。さっきも真っ暗で見えなかったが、おそらくそうだろう。
巨大人食いゴキブリの大群……俺達は今、想像以上に危険な状態にあるのかもしれない。
「キザキ様……来ます!」
リオナの声がした直後、60cm程のゴキブリの大群が通路にひしめき合って押し寄せて来た。
カサカサキチキチといった音を立て、ワシャワシャと足を動かして蠢いている。
「お、おい!!こんなに居んの!?ヤバイ!!!殺される!!逃げるぞ!!!」
「は、はい!!」
「う、うむう!!」
俺達は一斉に全力で走り始めた。
「うおおおお!!!ドゥンスさん!この先は!?」
「危険ポイント2、ガス溜まりがある」
「ガス溜まりぃ!?それ死ぬだろ!」
「1分程の辛抱だ。息を止めて全力疾走すれば問題ない」
「それ行けるか!?」
「我々なら問題ない」
「くそ!行くしかないか!行けるかリオナ!」
「はい!行けます!」
1分の辛抱だ……大丈夫。
ん?ていうか、ガスでヤツら一網打尽に出来るんじゃないか。
俺達も巻き込まれそうだが、この際もうどうでもいい。どうでも良くないのだが、どうでもいい!
火あったっけな。
「リオナ!火持ってるか?」
「はい!マッチがあります!」
「それでいい!俺にくれ!」
「どうぞ!」
リオナからマッチ箱を受け取ると、右手で握った。
これを落とす訳にはいかない、絶対に離さない。
「ガス溜まりを抜けたら燃やす!二人は構わず先まで走ってくれ!」
「でも!!」
「頼む!!!」
「……分かりました」
「そろそろガス溜まりに入る。息を止めるのだ。キザキ殿、健闘を祈る」
「ああ!!」
ガスの臭いが立ち込めている。
息を止めよう。
振り返ってみると、変わらずゴキブリの大群が押し寄せてきていた。
(よし……来てるな)
ガス溜まりに入って一分が経った頃、通路の上に通気口が伸びていた。
おそらくここがガス溜まりの終着点だ。
「ハァハァ……キザキ殿、頼んだぞ!」
ドゥンスさんとリオナは俺に構わず全力で先に進んでいった。
それでいい。
「よし……やってやる……大丈夫だよな?これ。いや、考えるな!やるぞ!」
俺は通気口から少し離れ、マッチに火をつけた。
そして、ガス溜まりに向かって投げ入れた。
「ッ!!!」
体を翻し全力で反対側に走り出す。
―――ブオアアア!!!
走れ!俺は死にたくない!背中が焼けるように熱いが……走れ!とにかく足を止めるな!
すると前方に眩い光が見えた。
外か?
俺はその光に向かって全力で飛び込む。
「どおおおりゃぁぁぁあ!!!」
途端ふわりとした浮遊感を覚えると、そのまま地面に着地する気配もなく、目を開けてみると落下している事に気がついた。
「うおああああ!!!嘘だろぉぉぉお!!!」
下が見えねえ!!死んじまうよ!!俺は死にたくない!!
なにか……何か出来る事はないか……。
5秒程落下しているがまだ下が見えない。どこまで続いているのだろう。
下に向かっていく程ひんやりとした空気に変化していき、体に湿気が纏わりつく。
「ん?」
もしかすると下に水源があるかもしれない。加えて水深が深ければ助かる確率は高まる。
俺は即座に着水姿勢に入った。体の線をまっすぐに伸ばし、足から入る、抵抗力の少ない姿勢だ。
もし下が地面や浅い水溜りあれば俺の体は足から順に粉々に砕け散るだろうが、この際そんな事を考えるのは後回しだ。
一縷の望みに賭けるとはまさにこの事、直感を信じるしかない!……というよりこうするしかない!
「んん!!!」
―――ボトン!
落下が終わった……この心地の良い冷えた水感……俺は無事助かったようだ。
かなり深くまで沈んだが、底は見えない。下を見ていると吸い込まれてしまいそうで、淡い光を放つ上に視線を向けた。
「ぷはっ!」
水中から顔を出し辺りを見渡してみると、とても広い空間がそこにはあった。
地底湖ってやつか?少し違うかもしれないが……地底にある湖っぽいでっかい水溜りだからな、俺が地底湖と言ったところで差し支えないだろう。
とにかくどこかに陸があれば上がりたいのだが、いかんせん広くて薄暗くてよく分からない。
なにせ遠く上の方にある雲越しの淡い太陽光だけが頼りだからな。
すると地底湖の岩々に反響した声が鬱陶しく聞こえてきた。
「キザキ様ああ!こちらでええす!」
ん?この声はリオナか。こんな大きな声も出るんだな。
だが反響してどこから聞こえてくるのかいまいち分からない。
「どこだああ!!リオナああ!!」
「右でええす!!!」
声の通り右に向かって泳ぎ始めた。
リオナと、おそらくドゥンスさんも下に落ちてきていたんだな。
「そのまままっすぐうう!!急いでくださああい!!!」
焦ったような声だ。
何をそんなに焦っているんだ?
「早くううう!!!ヤツが来まあああす!!!」
早くって言われてもなぁ。俺だって全力で泳いでるんだ、応援してくれもいいだろう。ん?ヤツ?
ようやくドゥンスさんとリオナの姿がハッキリと見えてきた頃、後ろから浅い波を感じた。
この湖に波など立っていなかったはずだが。
「来ました!!早く!!キザキ様!!」
後ろから何かが来ているようだが振り返る暇はない、一掻きでも多く前に進むんだ。
俺は死にたくない。
後ろから圧倒的な殺気を感じる。
この世のものではない、異次元の殺気。
気を抜けば同時に全身の力が抜けてしまうだろう。たちまち泳げなくなり殺される。
気を抜くな、泳げ。とにかく泳ぐんだ。
一寸の狂いなく、筋肉の繊維一本一本に無駄な動きなど一ミリもない研ぎ澄まされた泳ぎ。
追い詰められた陸上生物の水中活動をとくと見よ。
―――キュウ―――キュウ
しかし先程から聞こえるこの音は何なのだろう。
水中に顔を……耳をつけている時に聞こえる音。
後ろから来ているらしい生物の鳴き声か?可愛らしい声だが。
「キザキ様!!手を!!」
やっとの想いで陸に辿り着くと、リオナがこちらに手を差し伸べてきた。
俺はその白く細い整った手をガシッと掴み、陸に上がった。
やはり地面があるというのは安心する。
「ふぅ……ありがとうリオナ」
「はぁはぁ……いえ……ご無事でなによりです」
「キザキ殿、よくぞ生きて帰った」
「ドゥンスさんも生きてて良かった」
二人共目立った外傷はないようだ。
リオナに関して言えば先程の人食いゴキブリによる傷が残っているが、それ以外に追加の傷はない。
「それにしてもこんな所まで落ちてくるとはな。ドゥンスさん達はどうやってあそこを渡ってきたんだ?」
「来た時は道があったのだが……どうやら崩れてしまったようだ。それと……我の事はドゥンスでいい。さんはいらぬ」
「そっか、分かった、ドゥンス。……だが……参ったな。どうやって戻ろう。あ!そういえばさっき言ってたヤツってのは大丈夫なのか?」
「はい、ヤツは陸に上がって来れないので今のところ大丈夫です」
「そっか、ならいいか……いや、良くない!逆に言えばここから動けないって事だもんな」
「ええ、八方塞がりです」
陸に上がったは良いものの、岩肌剥き出しのただの陸だ。何もない。
水中に戻れば『ヤツ』ってのが襲ってくるだろうし、どうしたものか。
早いとこ上に戻らないと……ランディが心配だ。ゴキブリは滅却出来たと思うけど、その報告はしていないからな。
「なあ、ヤツってのはどういう見た目なんだ?」
「古代の文献に載っていたリオプレウロドンという水中生物に酷似していました」
「え?リオ……リオナ?」
「ぷふっ、違います。リオプレウロドンです!」
口に手を当てて笑うリオナ。
「そのリオプレなんとかっていうのはどういう見た目なんだ?」
「ワニのような頭部で、体には4つのヒレが付いているという、おおよその体長が25mの水中生物です」
「25m!?デカすぎやしないか……?俺はさっきそんな奴に追いかけられてたのか……あの時振り返ってたら間違いなく失神してたぞ」
「さすがの私も身動きが鈍る水中では恐怖に駆られてしまいました」
「だよな……」
俺は試しに水中に顔をつけてみた。
暗くてよく見えないが、ずっと下の方で何か巨大な影が蠢いている事だけは分かる。
よく目を凝らして見ていると次第に影が大きくなっていく。
(なんだ?)
その影がこちらに近づいてきているという事に気がついたのは、ヤツが水面の僅か下まで接近した時の事だった。
(やべえ!!!)
俺は勢いよく顔を上げ、体を後ろに投げ出した。
直後、陸の端を掠めるように巨大なワニの口が水中から飛び出してきた。
頭部だけで軽く人間の体長を超えている。あまりに巨大な頭部と頑強そうな表皮に、俺はただ身を震わせる事しか出来なかった。
飛び出してきた頭部は盛大に水飛沫を上げ水中に戻っていったが、俺の意識はヤツに対する恐怖でしばらく朦朧としていた。
「キザキ殿!しっかりするのだ!」
「キザキ様!大丈夫ですか?お怪我は?」
「あ、ああ……大丈夫」
あんな生き物は見た事がない。
魔物なのか?いや……元から地底湖に住んでいたのだろう。
いわゆるヌシってやつか。
質素な鉄の剣一本じゃどうしようもない。
本当に八方塞がりだ。