補習 /その3
彼女は、自分のことを狂っていると言いました。
まだ死にたくないのだ、とも。
「……そうですか、僕はてっきり」
「これ以上あなたに話すことは何もない。さっさと消えて」
彼女はそう冷たく言い放つと、そのまま黙り込んでしまいました。
そっとしておいた方がいいような気がして、僕はその場を立ち去ろうとしたのですが――
「…………あの!」
けれどその前に一つだけ。彼女に伝えたいことがあったんです。
君の生きたいという意思は、おかしなことなんかじゃない。むしろ、そう思うことは自然で、人として当たり前の感情なのだと。
その当たり前を失うことほど、悲しいことってありませんから。だから……
「君はだいぶまともですよ!大丈夫です、僕が保証します!」
彼女に届くように、精一杯の大声で伝えました。
「……うるさい!」
「あはは、すいません!」
怒られちゃいましたけど。少しだけあの子の表情が軽くなったような、そんな気がしました。
その後は、調子に乗って小一時間くらいあの子のところに居座り続けて、ウザがられたり、ゴキブリを見るような目で見られたりして……懐かしいなあ。
ああ、そう言えば。ああやってちゃんと向かい合って話をしたのは……あの時が、初めてだったと思います。
♢♢♢♢♢
それからまたしばらく経った、とある夏の日の夕暮れのこと。
特に意味もなく、ただぼーっと遠くに見える海を眺めていると、珍しくあの子の方から声をかけられました。
「ねえ。あなたは海が好きなの?」
「…………さぁ?考えたこともありません。たぶん、『いいえ』です。好きでも嫌いでもありません」
入院する前までの僕は、海なんて一度も気にしたことはなかったので。彼女にそう聞かれて、少し戸惑いました。あの時、僕が好きでもないのに海を眺めていたのは……どうしてなんでしょう。無意識で……やっぱり、特に意味はなかったと思います。
「そういう君は、海が好きなんですか?君の方が、そうやっていつも眺めている」
「…………海は嫌い。いいところだって、聞いたことはあるけれど。それは嘘よ。海は、きっと怖いところ」
「もしかして海、行ったことないんですか?確かに怖いかもしれないけど……行ってみたら、案外気に入るかもしれませんよ」
「…………」
「夕焼けの海とか、綺麗だと思うんです。僕も、海にはそんなに行ったことがある訳ではないんですけど。記憶に残る風景と言いますか、なんと言いますか……あっ、あくまでも個人的な感想ですけどね!人によって、捉え方は様々でいいと思いますし」
「君にとっての海がどういう場所かは、君が見て決めることです」
「……そうよね。やっぱり、ちゃんと自分の目で確かめに行かないとね。海がどんな場所か。何が嘘で、何が本当なのか」
「ねえ、聞いて。私、もうすぐここからいなくなるの。これは誰にも内緒よ」
「……それって、退院するってことですか?おめでとうございます」
「そう、そういうこと。だから、もっとあなたの知っていることを教えて。そうだ、学校ってどんな場所?あなたもここに来る前、学校にいたんでしょ?普通の学校って、どういうところなの?」
「どういうところって……そんなにいいものじゃないですよ。つまらない勉強をして、煩わしい人間関係があって。とにかくめんどくさい場所です」
「ふーん。それはどこも同じなのね」
「……私、今度学校に行く時は、今までと違う私になるわ」
「どこか遠い場所で、知らない人たちに囲まれて、今までと違う私になって生きるの。今までの私を捨てて、もう一度やり直せば……きっと私も、あなたたちと同じ存在になれる」
「やり直す……ねえ。だったらもっと、愛想よくしないと。友達できませんよ?ほら、笑顔笑顔」
「……こ、こう?」
「はい、そんな感じです。君は笑っていた方がかわいいです」
「………………」
「いたいいたいいたい、なんでつねるかなぁ!」
「…………あなたも、そうやって楽しそうにしてた方が断然いいよ。言ってることは意味分かんないし、ウザいし、うるさすぎるのもよくないけど。私は、嫌いじゃないよ」
「……これはあれですか?もしかして、貴重なデレってやつですか?」
「…………?」
「やっぱりなんでもないです、いたいいたい」
「……ねえ、私は遠くに行ってしまうけれど…………あなたは私のことを、覚えていてくれる?」
「覚えていますよ。きっと、ずーっと。約束します」
「……ありがとう」
「そして、君がどこにいても。きっと会いに行きますから。待っていてください」
「…………嘘だったら、恨むから」
「恨まれないよう、努力しますね」
「……………………」
「あっ、まだつねるんですね!もしかして照れ隠し?いたたた」
♢♢♢♢♢
「へえ~。佐々木さんはその子と、けっこういい感じだったんだね」
「でしょう?僕もそう思います」
「それからどうなったの?」
「それから……」
「その子には、それっきり会えてないです」
「……今もどこかで、元気にしていてくれればいいんですけど。本当に急にいなくなってしまうから、何も情報がなくて」
「雨音さん、僕ね。最初、転校してきた君があまりにもあの子に似ていたから、とても驚いていたんですよ。でもやっぱり、君はあの子とは全然違いますね」
「…………佐々木さんは、その子にまた会いたいんだね」
「はい。……あの子が自分の目で見た海は、あの子にとってどんな場所になったのか。その答えを聞きたいです」
「それから、話したいことも沢山あります。楽しい学校生活のこととか、色々。あっ、それと!今度こそ名前を聞かないといけませんね。もしまた会えたら、ですけど……」
「また会えるよ」
「きっと会える」
雨音さんは、僕の方をまっすぐ見て力強くそう言いました。
その姿が、少しだけあの子と重なって見えて。
「…………はい。僕もそう、信じています」
不思議ですね。何の根拠もないのに。
……いつかあの子とまた会える日が訪れる。
そう、思えるんです。
だから、その日を笑顔で迎えられるように。
僕は毎日を、精一杯楽しく生きていこうと思うのです。
「雨音ー、ごめん遅くなっ……えっ?佐々木さん?……何でこの人が屋上に?二人で何の話してたの?」
「んー……七色には内緒!」
「はい。君には内緒の話です」
「や、やめてくれよそういうの!気になるだろー!」




