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花は君のために  作者: 須田昆武
本編
23/132

16 救い




 例えるならこれは、トロッコ問題みたいなものだ。



 まず、制御不能のトロッコがあって。線路の先には5人の人間がいる。このまま放っておけば、この5人はトロッコに引かれて死ぬ。


 けれど。目の前のレバーを操作すれば、トロッコの進路が切り替わる。切り替えた先の線路には、別の人間が1人がいる。


 1人を犠牲にして、5人を救うか。それとも何もせず、5人を見殺しにするか。



 俺は間違いなく、前者を選ぶ人間だ。……そうだと思ってた。



 けれどもし、切り替えた先の1人が大切な人だったら。雨音だったとしたら。きっと俺は、レバーを目の前に、何もしない。知らない5人を見殺しにする。


 あるいは逆の立場。元々の線路に、雨音がいて。切り替えた先に5人がいたとしても。俺は、雨音を救おうとするのだと思う。迷わずレバーに手をかけて、5人を犠牲にする。



 ――――でも、現実は。線路を切り替えるレバーなんてものはどこにも存在しなくて。俺はただ、その結果を見守ることしかできない。




♢♢♢♢♢




「……俺は、悔しいです」



「雨音の手術の日は、明日、なんですよね」



「…………俺、結局何もできなかった」



「どうしたら、雨音のこと助けられたんだろう。俺は、どうすれば良かったんだろう。そんなことばかりを考えて、俺、おかしくなりそうで」




「……たとえば、もし今、あなたがいなくなったらとしたら。雨音の手術は止まるんじゃないですか?」



「…………いいえ。残念ながら、もう手遅れです」



 目の前の少年は、とても冷たい目をしている。

 この世の全てを恨み、全てに絶望したような重く暗い瞳には。全ての元凶である、僕の姿が映っている。



「僕なんて、研究者の末端に過ぎませんから。そこまでの力はありませんよ」


「………………」



 少年は俯いて、静かに涙を零す。

 きっと彼は、最後の希望を求めてここへやってきた。



「雨音のために泣いてくれる人がいて良かった。僕には、涙を流す資格などありませんから」


「…………八乙女さん、あなたは。クローンの研究、ほんとは嫌なんでしょ」


「嫌なんてことは、ありませんよ。これは、僕が自分で選んだ道です。後悔はない。……けれど、そうですね。一度、やけになっていた時期もある。それから、己の無力さを実感したことも」



「……今日、君がここに来てくれて良かった。ちょうど、色々とまとめ終えていたところなんです。これをどうしようか、悩んではいたのですが。君になら安心して託せます」



 彼に、黒く小さなUSBメモリを手渡した。

 僕が君に出来ることは、これだけだ。



「…………これは、何ですか」


「その答えは、最後にとっておきましょう。時間はまだ、たくさんありますから。少しだけ、僕の話を聞いてください」




♢♢♢♢♢




「僕は一度、雨音を外に逃がしたことがある」


「正確には、雨音が逃げていく様子を偶然見かけて……それを黙って見過ごした」


「…………それは、嶺が……時音さんの父親が、雨音を時音さんの予備の心臓として契約したいと申し出た、すぐ後のことでした」



 その日、その瞬間。システムの異常か、様々な偶然が重なった結果か。普段は固く閉ざされたその扉は、外へと大きく開け放たれていた。

 周囲には彼女と、それを遠くから眺める僕しかいない。


 それに気がついた彼女は、その扉の先へ、光の中へ。

 脇目も振らずただひたすらに駆けて、外の世界へと逃げていった。



「……僕はその姿を見て、感動したんです。彼女は必死に生きようとしている。ここから逃げれば助かることを、彼女は理解していたんだって」


「だから、逃げてしまえばいいと思いました。どこか遠くへ逃げて幸せに暮らすか、自分の境遇を世間に訴えて、我々の全てを台無しにしてしまえばいいと」


「…………けれど、彼女は戻ってきてしまったんです。あの美しい場所を見て、それから一輪の花を摘んで、僕の元へ」


「……クローンという存在がどれほど哀れなものか、改めて思い知らされました」


「彼女には、逃げる先なんてなかったんです。あの施設は彼女にとって世界の全てで、あの楽園は、世界の果てだった。だから、彼女は少しの間冒険に出ただけで、当たり前のように帰ってきた」


「お馬鹿さんですよね。自分の命が助かる、せっかくのチャンスだったのに。そんなことすら、分からないなんて」


「…………そんなことすら分からないことを、僕は分かっていたはずなのに。すっかり、忘れていたんです」


「それから、やめました。クローンを人と同じだと思うのは。だって、苦しいですからね。僕は人を殺すために、この道を選んだ訳じゃない」



 少年は静かに話を聞いて、一つ質問を返した。



「……それが、やけになっていた時期のことですか?」


「いいえ、それはもっと昔のことです。僕がもう少し若くて……こんな世界間違ってるなんて言って、躍起になっていた頃ですかね」




「言うなれば、僕は昔、天才でした」




「…………僕は君に、謝らなければならない。それから、嶺にも、数多のクローンたちにも、研究に関わった仲間にも。すみません……こうするしか、ないと思ったんです。全てを変えるには、全てを犠牲にするしかないと」


「一体、何を――――」


「そのデータを見れば、分かることです」



 少年は手元のUSBメモリを、近くにあった僕のデスクのノートパソコンに急いで繋いだ。

 膨大な量のデータが、画面に表示される。

 必要なものは、もう揃っている。後は君が、見つけるだけだ。



「それでも、僕は。間違ったことをしたとは思っていません。あのまま成功していたら、クローンたちは道具として、未来永劫、人類のシステムに組み込まれてしまうことになる。それだけは防ぎたかった。だから僕は――――」




「あなたは、最低だ。…………これじゃ誰も、救われない」





「ええ、そうですね」



「僕は全てを犠牲にして、一人でも多くの命を救おうとした。だから僕のしたことは、きっと正解でもあり、不正解でもあった。……君はこれから、どんな答えを見つけるのでしょうね」



 少年はメモリを引き抜くと、僕に背を向けて歩き出した。



「あなたが何を考えているのか、何を言っているのか、俺にはさっぱり分からない。けど、俺が見つけるのは。……きっと、あなたとは違う答えだ」



 そう言って、決して振り向くことはなく。彼は扉の外へ去っていった。



「…………それは頼もしい。後は任せましたよ、青葉さん」



 僕の役目はこれで終わりだ。

 もうここには何もない。やり残したことも、未来へ引き継ぐことも、何も。



「……さて、僕は。これからどこへ逃げましょうかね」



 行く当てなんてどこにもない。

 後はただ、自由に、気の向くままに。

 旅にでも出よう。どこか遠いところへ行こう。

 僕は知っているのだから。世界には果てがないことを。



 ……ああ、けれどその前に。

 最後に僕にできることを一つ。



 君のために、花を贈ることにしよう。



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