14 僅かな希望
……あのクローンを目撃したすぐ後、私は再度、八乙女と話し合うことになった。
「そうか、あれが……」
「はい。時音さんの予備の心臓、紫音を元にしたもう一人のクローンです。……すみません。あれの姿は君にも、時音さんにも見せるつもりはありませんでした。こちらのミスです」
八乙女は珍しく苦々しい表情を浮かべ、すぐにそれを誤魔化すように微笑んだ。
「あの子は、自分が心臓を渡す相手に興味を持っていました。時音さんの姿を一目見たいと懇願され、連れてきてはいたのですが……僕の判断が甘かった」
「……彼女は、自分の心臓を時音に提供することを知っているのか?」
「はい。もちろんです。そして、そのことを受け入れています」
八乙女は感情のない声で、淡々と話を続ける。
「クローンには死への恐怖も、抵抗もありません。そうなるように作られています。なので、君があの子のことを気に病む必要はない」
「…………」
♢♢♢♢♢
あの出来事から数日後。私はある決断を下した。
諸々の手続きのため例の施設を訪れると、目の前にはあの男が立ち塞がっていた。
「……手術が行われるまでの間、あの子を引き取るだなんて。どうしてそんなことを勝手に決めてしまったんですか!」
八乙女の声が、静かな通路に響き渡る。
彼がここまで怒りの感情を表に出した姿は、今まで見たことがない。
「…………お前とは別の研究チームの提案を、承諾しただけだ。彼女は私の元でおよそ1年間、社会生活への適合度を測る実験に参加する。同時に、移植予定者……つまり時音との接触による心理観察も行われるそうだ」
「僕は反対です。確かに、それはいつかはやらなければならない実験だ。しかし、あの子じゃなくていい。今やる必要はない。あの子は役目を果たし、心臓を提供する。それで充分じゃないですか。手術はすぐにでも出来る。どうして引き伸ばすようなことを――」
「考える時間が欲しいんだ。……私がやろうとしていることが正しいのか、しっかりと判断したい」
八乙女は背を向けると、一瞥をくれることもなく言葉を吐き捨てた。
「今更正しさを求めようだなんて、どうかしている」
「……ああ、そうだな」
♢♢♢♢♢
「やっぱりそうだったのね。お父様ったら、私に双子の妹がいることをずっと隠してたなんて。ひどい人ね」
「………………」
「でも、とても嬉しい。私に姉妹がいたなんて、夢みたい」
……時音には全てを隠し、例のクローンを一時的に引き取ることにした。
私にも、あのクローンにも……そして時音にも、まだ猶予がある。最終的な決定を下すのは、まだ先でいい。
…………あの時の私は、そんな甘い考えでいたんだ。
「ねえ、あの子はなんて名前なの?」
「あの子の名前は、雨音だ。仲良くしてやってくれ」
「ええ、もちろん!」
……そうして、今に至る。これが雨音と時音の全てで…………優柔不断で愚かな私の、過ちの全てだ。
♢♢♢♢♢
「……あなたは、迷っていたんですか? 雨音を犠牲にして、時音さんを救うべきなのかを、雨音に出会ってからずっと」
花園嶺は俯きながら話を続けた。その姿は最初の尊大で高慢な印象からは程遠く、弱々しく、小さく見えた。
「紫音の形見だと思ったんだ。時音も、そして雨音も。私は手術を簡単に割り切ることが出来なくなった。……雨音とも、もしかしたら家族のようになれるかもしれないと、私は愚かにもそう思ってしまった」
「……しかし、雨音は最初から割り切っていたようだ。自分は道具で、私はただの所有者、オーナーでしかないと。雨音から父と呼ばれたことは一度もなかった」
「そして、私の意思が固まったのはつい最近のことだ。9月の半ば、時音は発作で倒れ一時心停止の状態にまで陥った」
9月の半ば……ちょうど、文化祭が終わった頃だ。
時音さんが入院していたのは、その発作のせいで……雨音が学校に来ていなかったのも、時音さんの万が一に備えて、だったのかもしれない。
「私は手術を引き伸ばしたことを激しく後悔した。そして、あの時のように失う恐怖を思い出したんだ。……私にとって、時音は何よりも大切な娘だ。時音を見殺しにすることは出来ない。私は、本来の予定通り手術を行うことに決定した」
「……雨音のことは、見殺しにするって言うんですか」
「ああ、そうだ。あれは道具なのだと、私も割り切ることにした。雨音は心臓の提供を拒んではいない。あれには、生きる意思など元から無い。医療用クローンは、そう作られているんだ」
「ふざけるな!!」
怒りの声が反響し、部屋に響く。
あなたは結局、雨音のことを何も分かっていなかった。
時音さんのことしか……いや、自分のことしか考えていない、最低な人間だ。
「雨音が提供を拒まないのは、そう作られたからじゃない。時音さんのことを、大切に思ってるからだ」
「あなたのことを、父と呼ばなかったのだって。あなたがもし、雨音を見捨てても……あなたが後で苦しむことがないように、きっと、わざとそう言って突き放したんだ」
「めったに家族の話をしない雨音が1度だけ、他愛もない会話の中で、あなたの話をしたことがあった。今朝は久しぶりにお父様と食事をして、とか、そんな小さな出来事をすごく嬉しそうに話してて。雨音は幸せな家庭にいるんだなって、俺はずっとそう思ってたのに」
「それなのに、道具だ、なんて。確かに短い期間だったかもしれない。それでも、あなたは雨音の家族だったんでしょ?」
目の前の男に、縋り付くように懇願する。
今ならまだ間に合う。あなたなら、止められるかもしれないんだ。
「雨音を助けてください。お願いだから、見捨てないで」
「あいつは俺に、生きたいって言ったんだ……!」
「…………雨音が、そう言ったのか」
俯いたまま、小さく頷く。
そうだ、それが雨音の意思で……雨音が道具なんかじゃない証拠だ。
「…………そうか。どうやら私は、また間違いを重ねてしまったようだな」
花園嶺は俺の肩にそっと手を置いて、そう呟いた。
俺の言葉は、雨音の言葉は、この人に届いただろうか。
雨音の命は、これで助かるだろうか。
…………次の言葉を静かに待つ。
どうか、雨音を助けると、その一言を――――――
「……今更、もう後には戻れない。雨音から摘出される予定の臓器は、心臓だけではない。あらゆる臓器が、世界中の適合する患者へと移植される。臓器を受け取る予定の患者たちも既に決まっている」
「こうなってしまっては、私でも手術を止めることは出来ない。多くの人間が、雨音によって救われることを待ち望んでいる。患者自身も、そしてその家族も」
…………嫌だ、それじゃ、雨音は――――――――――?
「……私は、どうすれば良かったのだろう」
「僅かな希望に手を伸ばそうとしたこと、それらが全て過ちだと言うのなら」
「………………最初から諦めていれば、救われたのだろうか」
そんな後悔の言葉なんて、聞きたくない。
必要ない。
また、何も見えなくなる。
雨音を救うために残された手段は、俺にできることは……
もうどこにもないことを、俺は受け入れなければならなかった。