卒業/その3
「雨音は今日は泣かなかったな」
卒業式が終わって校舎の外をゆっくりと歩く。隣を歩いているるぅちゃんは、穏やかに笑いながらそう言った。
「昨日はあんなに悲しかったのに、不思議。今は悲しくないの」
みんなと離れたくない気持ちも、名残惜しい気持ちも確かにある。けれど今日は、どこまでも続く青空のように晴れやかな気持ちだった。
昨日るうちゃんたちの前でいっぱい泣いたからかな。お別れは確かに悲しいけれど、これから先も私たちはずっとどこかで繋がっている、なんとなくそう思えて、さみしさはいつの間にか消えていた。
校庭の並木の桜が、風で花弁を散らしていく。
桜吹雪が校舎をつつむ中、まるで夢の中にいるみたいなふわふわした感覚で、るぅちゃんと一緒に学校中を散歩した。
初めてここに来た時は、とても緊張していたな。
でも、みんなと出会って、楽しい学校行事にもいっぱい参加して。ここにいた期間はとても短いはずなのに、毎日が鮮やかで、賑やかで、満たされていて。
大切な人たちとの沢山の思い出を胸に、卒業を迎えることができた。
……最後までお勉強は得意になれなくて、卒業にはぎりぎりの成績だったけれど。私はがんばりました。やりきりました。
帰ったら卒業証書と、みんなと撮った写真を時音とお父様に見せてあげよう。
学校、楽しかったよ。お友達、たくさんできたよって、いっぱい話を聞いてもらいたい。
るうちゃんがミニバイクを隠している旧校舎裏まで来ると、そこには古い大きな桜の木が満開の花を咲かせていた。
……この桜を、お父様とお母様と……それから先生も見たのかな。
きっとお母様や先生は桜の花をむしってジャムなんかを作って、お父様はびっくりしたり怒ったりしながら3人でお茶会でもしてたりして。そんな光景がふと頭に浮かんで、ふふっと笑みがこぼれた。
るぅちゃんはそんな私を見て、つられたようにくすくすと笑った。
また強い風が吹いて、桜吹雪が視界を白くぼやけさせる。るぅちゃんは、風にかき消されそうな小さな声で私に呟いた。
「……雨音、改めて言う。アタシと友達になってくれてありがとう」
そのまま間を開けず、いつもの調子でるぅちゃんは話を続けた。
「正直、この学校で誰かと馴れ合うつもりはなかったけど。みんなと過ごすのは思ったよりも悪くなくて……馬鹿みたいに楽しかったよ」
「雨音は、どうだった?」
るぅちゃんの問いかけに、私が返す言葉は決まっていた。
「……苦しい時も、悲しい時もあったけれど。楽しかったこと、幸せだったこと、それ以上にたくさん、たくさんあったよ」
だから、心からの笑顔で胸を張って言える。
「花園雨音、最高の学校生活でした!」
るうちゃんは眩しそうに目を細めて、それから笑いをこらえるように顔を背けた。
「……この後、あいつと待ち合わせだろ。変なのに捕まる前に行くといい」
「変なの……?」
るぅちゃんは、面白いものを見つけたみたいににやにやと笑っている。何だろう?
何が起こっているのかわからなくて戸惑っていると、少し遠くから大きな声で私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「雨音さん!」
「ああ、もう来たか。部外者のアタシは退散するしよう。おい、そこの野次馬!お前も撤退だ!」
「え〜!」
るぅちゃんが茂みに向かって叫ぶと、がさがさと植木の間から佐々木さんが出てきた。
佐々木さんはるぅちゃんに連れられて、しぶしぶこの場所を立ち去っていく。
佐々木さん、いつからいたんだろう。制服が葉っぱだらけ。
なんて思っているうちに、まっすぐに駆け寄ってきた声の正体……昴くんが、私の前に立っていた。
瞳に映る空はあの日のように、青く美しく輝いている。
♢♢♢♢♢
「雨音さん!」
遠くに見える大好きな人を、俺は恥ずかしいくらいの大声で呼び止めた。
桜吹雪の中で髪をなびかせ、ゆっくりとこちらを振り向く彼女の姿はあまりにも綺麗で、まるで夢の中にいるみたいだと思った。
駆け寄って近づくと、俺をまっすぐに見つめる澄んだ瞳と目が合う。緊張で、胸が張り裂けそうだ。今すぐここから逃げてしまいたい。だけど、もう逃げないと決めていた。
自分の気持ちからも、とうに分かりきっていた答えからも。
「今日で最後だから、雨音さんにどうしても言いたいことがあって。……聞いてくれますか?」
「……うん」
雨音さんは迷惑だと思うかもしれない。今だけじゃない、初めて出会った時から俺はずっと迷惑をかけてばかりだ。
それもこれで終わりにする。ずっと抱き続けてきた想いは手放して、この場所に置いていく。前に進んでいく。
だから最後に、君の言葉が欲しい。
雲ひとつない青空の下で、俺は雨音さんに精一杯の気持ちを伝えた。
「雨音さん、あなたのことが大好きです。俺と付き合ってください!」
自分のものとは思えない程、声は大きく校舎裏に響き渡る。
その後に訪れたしばらくの静寂は、不思議と優しく暖かい、心地の良い時間だった。
君といられるこの時が、いつまでも続けばいいのに。
君の特別になれなくても、俺は君のそばにいたい。
きっと俺はいつまでもそう考えてしまうから。
君に会うのは、これで最後にする。
凛と前を向き、目を逸ららずに俺を見つめていた雨音さんの口がゆっくりと開く。
ずっと聞けなかった返事を、俺はこの卒業の日になってようやく聞くことができた。
「ごめんなさい」
「私にも、大好きな人がいます。だから、あなたとはお付き合いできません」
全部知ってる、分かってたよ。
俺の恋は叶わない。最初から望みのない恋だった。
あの日俺を助けてくれた君は、きっとあの屋上であいつのことを探していた。
それでも、好きになったことに後悔はなかった。
辛くないと言えば嘘になるけれど、心は君への感謝の気持ちでいっぱいに満たされている。
「ありがとう、雨音さん。さようなら。俺は君の幸せをいつまでも願ってるよ」
「ありがとう、昴くん。私も、貴方が元気で、幸福で、これからも昴くんらしくいられることをずっと願ってる」
雨音さんは優しく笑う。その微笑みは眩しくて、太陽みたいだった。
……俺、変われたかな。
欠けているものが沢山あって、相変わらず駄目なことばかりな俺だけど。
少なくとも今の自分のことは、嫌いじゃない。
「私、もう行くね」
「うん」
お互いに背を向けて、俺たちは歩き出す。
雨音さんは透き通るような声で高らかに言った。
「今日はこんなに晴れていて、空は青くて、風は気持ちいい」
「だけど私、やりたいことがまだ沢山あるの!」
そうだね。俺もそう思うよ。
俺は振り返らずに桜の木の下を去った。
切なくて、胸の奥がぎゅっと締め付けられるように苦しくて、目に涙が滲む。
雨音さんのことが本当に大好きだった。
この先、彼女以上に心を動かされる人に出会うことはあるのだろうか。
分からない。心にぽっかりと大きな穴が空いたみたいだ。
それでも俺は、雨音さんと出会えて、雨音さんを好きになって幸せだった。
「は、ダセー」
涙でぼやけた視界の先には、嫌味ったらしく俺を嘲笑する朝日がいた。きっとこいつも、雨音さんに言いたいことがあって雨音さんを探していたんだろう。
「馬鹿だな、お前。結果分かってて泣くくらいなら、大人しくしてれば良かっただろ」
「俺にはこれが、必要だったから。……君はいいの?後悔しない?」
朝日は俯いて、考え込むように立ち尽くした。
朝日も朝日なりに、これまで沢山悩んできたのかもしれない。
俺は逃げずに伝えた。悔いはない。
朝日の目に俺がどう映ったかは分からないけれど、お前の前に堂々と立てるくらいには、俺も強くなったつもりだ。
「……クソが」
朝日はそう吐き捨てて、雨音さんを追いかけて走り出した。
「雨音さーん!ちょっと一旦止まってくださいーっ!!!」
「はは、言う前から涙目じゃん」
人のことは言えないけれど、なんか青春だなぁと、思わず笑えてきた。
雨音さん、俺のことちゃんと振ってくれてありがとう。失恋はしばらく引きずるだろうけど、どこか清々しいすっきりとした気分だ。
「本当にいい天気だ。こんな天気の日は……」
少し遠回りして散歩でもして帰ろう。
ちょうど近くに、俺を慰めたくてそわそわしてる年上の野次馬同級生と、結果は分かってるくせに告白してフラれて意気消沈してるかつてのライバルもいることだし。
河川敷に並んで無意味にたそがれる、そういう日があってもいいかな。
心地よい風が通り抜けていく。
こうして俺たちの卒業式は、賑やかに幕を閉じた。