卒業/その2
「みんな、雨音起きたみたいだよ!雨音、大丈夫?変なとこない?」
目を開けると、見慣れない天井と私の顔を覗き込むさーやちゃんの姿が見えた。少し硬いベッドから体を起こして、まだふわふわとする頭で辺りを見渡す。さーやちゃんの他にも、りょーちゃん、マキちゃん、るぅちゃんがベッドの近くにいて不安そうな表情を浮かべていた。
「さーやちゃん、ここは……」
「保険室、うちらで連れてきたの。覚えてない? 雨音、さっき急に倒れたんだよ!怪我はしてない?痛いとこは?」
さーやちゃんは次々と質問しながら私の体をぺたぺたと触った。どこにも痛い部分はなくて、私は首を横に振る。
「なんともないよ、心配かけてごめんね」
「あんまり無理するなよ。たぶん、貧血とかだろうとは思うんだけど……」
りょーちゃんはそう言って、私の頭をぽんぽんと優しく撫でる。
「今日は保健室の先生いないから、本気でやばそうなら病院行こうねぇ。ほら、るぅちゃん〜あまねっち大丈夫そうだよ〜」
「救急車っ……」
マキちゃんはるぅちゃんの背中をさすりながら、子供に言い聞かせるように話しかけた。るぅちゃんは目にいっぱいの涙を浮かべながら、スマートフォンをぎゅっと握りしめている。
「正直、雨音を運ぶのよりパニックになったるぅを宥める方が大変だったよ」
りょーちゃんはそう言って、少し苦笑いを浮かべた。
るぅちゃんはきっと、私が病気で倒れたんじゃないかと心配してしまったのだと思う。私が長生きできる体ではないことを、あの施設の関係者だったるぅちゃんはもう知っている。
「るぅちゃん、私は平気だよ。最近、あんまりよく眠れなくて……それでふらっとしちゃったのかも。この前受けた健康診断も問題なかったし、ね、元気元気!」
私はるぅちゃんを安心させるように、両手を大きくぶんぶんと振った。それを見て、みんなはほっと胸を撫で下ろしたみたいだった。
けれどマキちゃんだけは、変わらず心配そうな表情で私を見つめたままだ。
「あまねっち、眠れないって何かストレス溜まってる?やっぱり七色のせい?」
「えっと、そうじゃなくてね……」
ぐっと詰め寄るマキちゃんを前に、私は一瞬言葉に詰まった。
マキちゃんもみんなも本当に優しくて、一緒にいてとても楽しくて、大好きで大切な友達だと心からそう感じる。
だからこそ私はどうしようもなく悲しい気持ちに溢れて、いつの間にか目から涙が勝手にこぼれ落ちていた。その様子に誰よりも早く気がついたりょーちゃんは、驚いたように声を上げた。
「やっぱりどこか悪いのか!?」
「ううん、違うの……」
これ以上みんなを心配させたくなくて、けど、涙は止められなくて。少し呼吸を落ち着かせてから、みんなにこの悲しい気持ちの正体を伝えた。
「もうすぐ卒業なんだなって思うと、涙が出ちゃって……それだけなの」
私は涙を拭って、えへへと恥ずかしさを誤魔化すように小さく笑みを浮かべる。本当にそれだけのこと。それだけのことなのに、胸の奥底で悲しい気持ちとさみしい気持ちが、ずっと長い間ぐるぐると渦巻いていた。
「えー!そんなことで泣いてたの!? 別に卒業したからって一生会えなくなる訳じゃないんだから、あんま暗く考えんなって!」
「うん、わかってる」
さーやちゃんの言葉の通りだ。頭では理解している。
ここでの"卒業"はただ学校を出るだけで、通過点や儀式でしかなくて、何も特別なことではないのだと。
けれど、こわい。
卒業式を迎えたら、みんなと会えなくなるかもしれない。そんなことないとわかっているのに、涙が止まらない。さみしい。
また涙がこぼれそうになった私を、包み込むようにりょーちゃんがぎゅっと抱きしめた。
「りょーちゃん?」
「……実はさ、あたしもさみしいよ」
りょーちゃんは震えるような小さな声でそう言った。
「みんな、進路がバラバラで。今日みたいにわいわい気楽に集まって、こうして顔を合わせるのも難しくなるのかもしれないね。うん、あたしも凄くさみしい。……あたしはみんなのこと、大好きだよ」
ぽろぽろと綺麗な涙を流すりょーちゃんを、私もぎゅっと抱きしめた。抑えていた涙が、また溢れ出す。
私もみんなのことが大好きだよ。
もっと一緒にいたかった。
もっとみんなと一緒に。
過去の自分と今の自分が、合わさって涙になって、感情の渦になる。
かなしかった。さみしかった。こわかった。
苦しかった。一人になりたくなかった。
誰かに許されたかった。
生きている理由が欲しかった。
失うのが怖かった。
みんなと、生きていたかった。
私の心はこんなにも、沢山のものを抱えていたんだね。
"卒業"という何でもない言葉が、それ以上の意味を持って私に重くのしかかり、あの日の記憶を呼び覚ます。
共に過ごし共に育ったあの施設の友達たちは。卒業を迎えると一人、また一人と、私を残してクローンとしての役目を果たしていった。
死んでしまった。どこにもいない。
今更になってそのことをはっきりと理解する残酷さを、やるせなさを、あの施設での日々のことを。私はこれからも、ひっそりと抱えていくのだろう。
「りょーちゃん……!あまねっちも!泣かないでぇ、わたしもつられて悲しくなっちゃうよぉ」
マキちゃんはそう言って、目をうるうるとさせながら私とりょーちゃんに抱きついた。
「ちょっとも〜!みんななにしんみりしてんの!!来週には卒業旅行でみんなでユニバーランド行くって話したじゃん!楽しいこと考えようよ〜!」
さーやちゃんも明るい声で、けれど目には少しだけ涙を浮かべて、私たちの肩を抱いた。
「……雨音、大丈夫だよ。アタシたちは誰も、いなくならない」
るぅちゃんは寄り添うように私の背中にもたれかかる。みんなの温もりが伝わってきて、私の涙はようやく止まった。ぐちゃぐちゃだった心は、少しだけすっきりして軽くなったみたいだった。
「もー!こんな時にあいつは何やってんの!彼女を慰めるくらいしろっつのまったく!」
「七色……」
さーやちゃんの言葉を聞いて、またぽろりと涙がこぼれる。七色、どうしてるかな。私のこと、どうでもよくなっちゃったのかな。大好きな人とずっと会えないのが、さみしくてせつなくて心細い。心臓がぎゅっと苦しくなるような感覚がする。さーやちゃんはそんな私の様子に気がついて、目を丸くして驚いた。
「わっ!また泣いちゃったよ!」
「ごめんね。明日はいつもの私に戻るから、許してね」
「いいよいいよ、こうなったらもう泣けるだけ泣きな〜?」
あやすようによしよしと私の背中を撫でるさーやちゃんの肩に、甘えるように顔を埋めた。七色、会いたいよ。声が聞きたいよ。
「うわっ、るぅちゃんも雨音の倍くらい泣いてるじゃん!」
「待ってろ、今あいつ呼んでやる」
そう言って、るぅちゃんはボロボロ泣きながら高速でスマホに文字を打ち込む。……七色は、来てくれるのかな。忙しいから、やっぱり無理かな。今すぐにぎゅっと抱きしめてほしいけれど……泣き顔を見られるのは恥ずかしいかもしれない。それに七色の前では、元気な私でいたい。七色の記憶の中の私は、泣き虫じゃなくて、いつも笑顔で幸せな私の姿であってほしい。
「…………本当は、ずっと不安なの」
ぽつりと、言葉が零れ出る。
「私はいつまでも、七色と一緒にいたい。大好きなみんなと離れたくない」
それは叶わない願い。子供のようなわがままな夢。
これ以上を望む、欲張りな心の声。
「変わらないことや、終わらないものはないとわかってる。なのに、この幸福な日々がずっと続くことを望んでしまう」
いつか来る終わりが怖い。この身に訪れる変化が怖い。ずっと目を背けてきた感情に、押しつぶされそうになる。
知らなかった訳じゃない。ずっとずっと、気がつかないフリをしてきた。溢れ出さないように、心の奥底に蓋をして閉じ込めていた。
「……七色と出会う前の私なら、全部我慢できたのに。私、弱くなっちゃったみたい」
恐怖も不安もかなしみも、時音のクローンだった私には存在しなかった。存在しないと思ってた。
けれど今は、弱くてちっぽけなただの人間になった私がここにいる。
「それでも、出会わなければ良かったなんて思わないだろ」
りょーちゃんはまっすぐに私を見て問いかける。
そうだね。私、何も後悔はないよ。
言葉は出ないけれど、私は強く頷いた。
七色やみんなと出会えた私だから、悲しいことをちゃんと悲しいと感じて、こうして涙を流せる。この永遠には続かない一時の幸福を、どうしようもなく愛おしいと思える。
卒業、まだしたくないよ。もっとみんなといたいよ。
それが私の素直な気持ち。涙を流してわんわん泣いて、私は大好きな友達たちを腕いっぱいに抱きしめた。
♢♢♢♢♢
「雨音っ……!」
「ようやく来たか」
日が暮れて夕焼けが窓を照らす頃、るぅちゃんが呼び出した七色がようやく保健室に現れた。私たちの涙はすっかり乾いて、マキちゃんの持ってきたケーキでケーキパーティを楽しんでいた時だった。
「遅い!お前が長いこと雨音のことほったらかすから、雨音メンブレ起こしちゃったじゃん!」
「てか、金髪にもどってる〜なつかし〜」
「雨音どうした、具合でも悪いのか!?」
七色はさーやちゃんやマキちゃんの言葉には目もくれず、一目散に私の方へ駆け寄ってきた。
久々に会った七色は、少し前まで黒かった髪を金髪に染め直して出会った頃のような……けれどあの時よりも少し大人びた、かっこいい姿に見えた。
心配そうに私のおでこに手を当てて、じっと見つめてくる七色との距離に、少しどきどきして顔が赤くなる。
「少しふらっとして倒れちゃっただけで、何も問題ないよ。もう大丈夫」
「そっか。元気なら良かったけど……あれ?ちょっと熱い?」
「ね、熱はないと思う」
照れくさくて慌てて目を逸らすと、そっと荷物を片付けて帰ろうとするるぅちゃんたちの姿が見えた。
「……さ、あとはコイツに任せてアタシたちは空気を読んで退散でもするよ」
「え、それは困る!俺この後すぐ行かなきゃいけないとこあって!だから雨音のことはお前たちに頼んだ」
その言葉を聞いた途端、みんなは信じられないといった顔で口々に七色を問い詰めた。
「はぁ〜!?なにそれ!!それでも彼氏!?」
「ほんとに乙女心が分かってないよね。最低」
「お前って奴は。雨音、こんなのとはさっさと別れな。アタシが他にいい男見つけてやる」
「そもそも、何をそんなに忙しくしてるんだ……?」
「それは内緒」
七色はりょーちゃんの質問にだけ答えて、私をぎゅっと抱き締めて耳元で小さく囁いた。
「雨音……明日、卒業式の後いつもの屋上に来て」
そのまま頭をぽんぽんと撫でると、七色は名残惜しそうに私から離れて優しく笑う。
「じゃあ、任せた!」
そして急ぎ足で、保健室からあっという間に去っていった。
「何しにきたんあいつ!って、あれっ!?雨音また泣いてる!」
「ひさしぶりに会えたのが嬉しくて……すごく、好きだなって……」
「えー? あんなんでいいの?雨音のツボが全くわからん!」