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花は君のために  作者: 須田昆武
Season2~ラブコメ編
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時音と広瀬/その3



「お父様はね、コーヒーにこだわっているように見えて、実は全く気にしていないの。ここにある豆は、前の執事の長谷川が休憩用に使っていたもの。お父様のはこっち」



 時音様はそう言いながら、キッチンの戸棚から小瓶を取り出す。瓶の中身は何の変哲もない、市販のコーヒーの粉末だ。



「インスタントですか?」


「そう。だから、コーヒーを淹れるのに時間をかける必要はないの。これからはこっちのを使ってね。他にも、簡単にできるのは――」



 お湯を沸かしている間にも、時音様はあれこれと執事の仕事に関するアドバイスを続けた。


 話を聞くに、前任の執事の長谷川さんは手を抜ける部分は手を抜いて、効率よく仕事をこなしていたようだった。


 この屋敷では何事も完璧を求められ、全てに一切手を抜いてはいけないとばかり思い込んでいたため、時音様の助言の数々に私は心の荷が軽くなったような気がした。



 予定よりも随分早くコーヒーが完成し、書斎にいる旦那様に持っていこうとカップを持ち上げたところで、時音様は自信がなさそうに俯いて再び私に話しかけてくる。



「それでね、仕事を早く終わらせて時間が余ったら……長谷川はよく、私の相手をしてくれていたのだけれど」



 時音様はいつの間にか手に木製の小箱を抱えていた。蓋の空いた箱の中に、古い将棋の駒が入っているのが見える。




「将棋ですか?すみません、ルールが分からないので私はちょっと」


「じゃあ、覚えてきて。これを覚えるのも貴方のお仕事」



 時音様は断る言葉を遮り、私の空いている手に小箱を押し付けてそのまま去っていく。


 片手にコーヒー、片手に駒の入った小箱を抱えながら、私は呆然と立ち尽くす。



「はぁ……」



 時音様のおかげで仕事が減ったと思ったのに、結局やることは増えてしまった。どうやら、今後は時音様の面倒を見る必要もあるらしい。


 時刻は午後三時、平日ののどかな昼下がり。


 窓の外からは、帰宅中であろう低学年の小学生たちが元気にはしゃぐ声が聞こえてくる。


 その声を聞き流しながら、ふと、とある根本的なことに気がついた。


 ……時音様は、学校に行っていないのか?




♢♢♢♢♢




「時音様?時音様はね、体が弱いんですよ。今は元気そうにしてるけど、心臓にはペースメーカーが入ってて無茶な運動はできないし、またいつ調子が悪くなるかも分からなくて。時音様から常に目を離さないのも、我々の大事なお仕事っすよ☆」



 屋敷の古参メイド、佐々木加奈に時音様のことを聞くと、そんな答えが帰ってきた。


 旦那様から、娘は病弱で今も定期的に通院している、今後病院への送迎も任せることになるだろうとは言われていたが、まさかそこまで深刻なものだとは思っていなかった。


 

「……それで、ずっとお屋敷の中にいると」


「んー、日常生活はできるはずなので、それはまた別の理由的な?まあ、ちゃんと家でお勉強してるみたいだし、問題ないっすよ。あ、広瀬さんそれ洗剤入れすぎ。また泡だらけにして洗濯機壊すつもりですか?」


「…………」



 メイドの冷たい視線を浴びながら、私はぼんやりと時音様のことを考えていた。


 あれから数週間。時音様は、暇さえあれば私についてまわり、屋敷のことや他の使用人たちのこと、家事や庭の手入れまで様々なことを教えてくれた。


 それにより、私の執事としての能力が目に見えて向上……した訳ではなかったが、最低限、将棋のルールくらいは覚えた。


 今日も粗方の仕事が終わった後は、時音様と一局指して過ごすことになっている。


 時音様とはすっかり打ち解けたつもりになっていたが、結局は何も分かっていなかった自分に少し腹が立った。



 

♢♢♢♢♢




「時音様はどうしてお屋敷に引きこもっているのですか?」



夕刻、私は将棋の相手をしながら時音様にそんな質問を投げかけた。時音様は将棋盤から目を離さないまま、駒を一つ音を立てて動かす。



「答えづらいことを、はっきりと聞くのね」


「気になったので」



 今度は私が駒を動かすと、そのままパチパチと何往復か無言のやりとりが続いた。


 時音様はしばらく考え込んで手を止めると、俯いたまま小さな声で話し始めた。



「…………怖いの、人と会うのが。私もね、もっと小さい頃は学校に通っていたの。けれど、私は病気でみんなみたいに動けないし、先生や大人たちには常に気を遣われて……周りの子たちにもそういう空気って伝わるみたいでね。誰とも馴染むことができなくて、いつの間にか仲間はずれ」



 時音様は声を震わせながら、淡々と話を続ける。



「それで、一度倒れて大きな手術をして、長い期間入院していたら……私の居場所なんてどこにもないような……そんな気がして。怖くて学校に戻れなくなっちゃった。かっこ悪いわよね、私」



 そう言って自嘲気味に笑う時音様は、どこか寂しそうだった。時音様はもしかしたら、思うように外に出られない自分を内心責めているのかもしれない。


 嫌なことを思い出させてしまった、と私は後悔した。


 時音様には、平穏で幸福な今があればいい。

 

 


「別に、いいんじゃないですか?」



 私が返した言葉に、時音様は少し驚いたように目を丸くする。私は時音様を見つめたまま、思っていることをそのまま伝えた。



「ここに時音様の居場所があって。笑顔で過ごせるのなら、それでいいです」



 学校に行けだとか、もっと外に出た方が良いだとか、説教じみたことを言うつもりはない。私が願うのは、誰よりも優しい時音様が傷つくことなく、健やかに日々を過ごしてくれること、ただそれだけだ。




「…………ええ、そうね。私今、とても幸せ」




 時音様は目を細めて笑うと、駒をひとつ動かした。



「王手」


「……参りました」




♢♢♢♢♢




「……ああ言っていた時音様が、進学したいだなんて」



 数年前の出来事なのに、もう遠いことのように感じる。雨音様は将棋の駒をドミノのように並べながら、鼻歌交じりに話を聞いていた。



「時音も、ちょっとずつ変わってきたんだよ」



 それは分かっている。けれど、胸の中でもやもやとした感情がいつまでも晴れない。時音様が前向きに、将来に向けて歩み出したのは喜ばしいことだ。それなのに何故、自分はこんなにも不安に苛まれているのだろう。



「広瀬さんも言いたいことがあるなら、ちゃんと言った方がいいんじゃない?私はもう行くね」



 雨音様はドミノを綺麗に倒して満足したのか、そのまま部屋を後にする。扉に手をかけて一度こちらを振り返ると、何かを思い出したかのように声を上げた。



「あ、今年は私から広瀬さんにチョコはあげないから。時音からちゃんと貰ってね!」



 そして、バタンと勢いよく部屋の戸が閉められた。 

 ……別に今更、バレンタインにチョコが欲しいとは思わない。時音様が一度腹を立てたら長引くのも、当然理解している。


 自然と漏れ出たため息を誤魔化すように、私は掃除を再開した。



♢♢♢♢♢



 部屋の掃除が殆ど終わり、最後に将棋の駒を箱にしまおうと手を伸ばすと、背後から戸を開けて部屋に入ってくる人の気配がした。


 互いに目を合わせぬまま、会話だけが静かに響く。




「……広瀬、雨音と何を話してたの?」


「少し、昔の話を」



 簡潔な答えに時音様が納得したかは分からないが、それ以上何も聞かれることはなかった。


 代わりに、時音様は私の正面に移動すると、机の上に乱雑に置かれた将棋の駒を眺めて呟いた。



「…………懐かしい」



 駒を手で触れ、時音様は俯き黙り込む。



 何か声をかけようかと思った瞬間、時音様は顔を上げ、強い意志を持った瞳で私を見た。



「ねえ、広瀬。貴方の目に映る私は、あの頃のままかしら」



 真っ直ぐな時音様の言葉が、胸に突き刺さる。


 ……違う、とは言いきれない。

 

 あの頃と変わって大人びた時音様を前に、あの頃のまま変わらない時音様を私は心のどこかで望んでいた。


 この屋敷の中が世界の全てで、ここに居場所がある、安全で幸福な籠の中で守るべき存在……それが私にとっての時音様だった。

 

 


「貴方がそんなに私を心配するのは、どうして?私はもう体も元気になったし、小さな子供でもない。貴方が保護者のような気持ちで反対しているのなら、私は言うことを聞くつもりはないわ」



 時音様は毅然とした態度ではっきりと告げ、私の返事を待つようにじっと視線を向ける。


 私は心の内を、そのまま口にすることしかできなかった。



「保護者のつもりはありませんよ。ただ、時音様がこれから様々な人と出会う中で……悪い人間がいたとしても、私が常に守れる訳じゃない。それが、不安なんです」



 これは紛れもない本心だ。人を疑うことを知らない時音様は、悪意を持って近づき、都合よく利用し騙そうとしてくる人間をきっと見抜けない。


 そんなこちらの心配を知りもせず、時音様は自信に満ちた表情で胸を張る。




「自分の身くらい自分で守れますとも。それに、雨音の周りを見ていて思ったの。世の中、そんなに悪い人ばかりではないでしょう。きっと良い人もいっぱいいると思うの」


「良い人に寄ってこられたとしても、それはそれで困るんですよ。とにかく、男の多い所はやめてください、絶対に」




 考えるよりも先に出た言葉に、はっと我に返る。何か変なことを言ったような、いや、正当な主張のはずだ。待て、自分はどの立場でものを言っている?


 思考がまとまらないまま、撤回の言葉も言い訳の言葉も出ずに時間が流れる。


 時音様はそんな私の様子を見て、怪訝な表情でぼつりと呟いた。




「……つまりそれは、嫉妬?」




 言葉にしてしまえばあまりにも単純な感情が、すとんと胸に落ちた。

 そして自分はこんなものに振り回されていたのかと、呆気にとられる。


 時音様に対する独占欲、庇護欲、愛情、その他諸々。いつの間にかそれは、無視できないほどに大きく私の中を占めていた。


 時音様が心配だと言いながら結局、私は自分から離れていこうとする時音様をなんとか留めようと駄々を捏ねているに過ぎなかったのだ。



 ……今更取り繕いようもないと悟り、嫉妬、などという認めたくはないが事実認めざるを得ない感情を吐き出した。




「ええ、そうですね。僕が気に食わないだけです。すみませんね、くだらない理由で」



 羞恥で赤くなった顔を逸らして、絞り出した言葉ななんと幼稚で情けないものだろう。


 時音様に失望されると覚悟したが、意外にも時音様は小さく笑い声を上げただけだった。



「ふふ」



 恐る恐る時音様を見ると、無邪気な笑顔で笑う姿が目に入る。どうやら機嫌を損ねてはいないようだ。

 

 時音様の真意は掴めないが、私はほっと胸を撫で下ろす。


 それと同時に、自分の感情とは切り離して、時音様のことを考えようと思った。


 進学については異論はない。時音様が大学に行って、友人ができ、充実した日々を送ることができるのならそれは願ってもないことだ。

 けれど、男ばかりの環境はやはり認められない。少しでも身に危険が及ぶような場所に、時音様を置いておくことはできない。


 嫉妬は抜きにしても、これは絶対だ。時音様の望む進学先にどう考えても同意はできなかった。


 時音様の機嫌が良い、今なら交渉できるかもしれない。




「そうだ。時音様、昔みたいに勝負でもしますか?僕が勝ったら、進学先変更。時音様が勝ったら、もう口出しは無しで――」


「広瀬、私に勝てたことないでしょう。ルールだって、うろ覚えのくせに」



 それは……事実ですが。勝てないと分かっていても、挑まなければならない時が人生にはあり、それが今なのです。と、熱弁するよりも早く、時音様は頭を下げた。



「……でも今回は私の負け。意地になっていたのは私の方ね、ごめんなさい」


「時音様?」



 時音様はゆっくりと頭を上げるとにこやかな表情のまま、何かが吹っ切れたような明るい声で高らかに言った。



「私、決めた。やっぱりあの大学はやめにする。お父様と広瀬に心配をかけたい訳じゃないもの。本当は進学先なんてどこでもいいの。そうね、女子大なら文句はないかしら?」


「……まあ、そうですね」



 この少しの間に一体どのような心境の変化があったのか。時音様はあっさりと意見を翻し、満足そうな様子。


 私はと言うと、拍子抜けしてしまい、気の抜けた返事しか返せなかった。


 正直、時音様が私の意見をこんなに早く聞き入れるとは思っていなかったので、肩透かしを食らった気分だ。

 



「はい、広瀬にあげる。これで仲直り。後で、勝負関係なく将棋の相手もしてね」



 時音様はどこからともなく小さな紙袋を取り出すと、私の手に押し付けた。袋の中からは、ほのかに甘い香りが漂う。


 

「大好きよ、広瀬」



 時音様は悪戯な笑みを浮かべると、ひらりとスカートを揺らしながら踵を返しそのまま部屋を去った。


 一人残された私は、呆然と部屋に立ち尽くす。

 静寂な部屋には機械の起動音が鳴り響き、お掃除ロボの充電が満タンになったことを知らせていた。



「…………」


「(?-?)」


「ようやく目が覚めましたか。早く仕事を終わらせますよ、2号」



 確か、将棋のルールブックはまだ捨てずに残っていたはず。もう一度確認しておかないといけないな。


 などと考えながら、私と2号は屋敷の掃除を再開した。

 


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