時音と広瀬/その2
「七色、1次試験受かってたって!よかったぁ。あれ?時音どうしたの?」
七色との通話が終わって部屋に戻ると、時音は机に突っ伏してうなだれていた。こんな風になった時音は見たことがない。
「……広瀬とお父様と喧嘩した」
「ありゃりゃ。大変だったんだね」
時音はその状態のまま、いつもより元気のない声でぼそぼそと呟く。
「……私、悔しいの。お父様も広瀬も、私のことを今でも小さな子供みたいに思ってるのよ」
「そんなことないよ、きっと時音のことが大切だから心配してるだけだよ」
「私だって、ちゃんと成長してるのに。あの頃とは、違うのに」
「時音……」
私は時音の背中を撫でながら、なんと声をかければいいのか考えた。時音の気持ちも、広瀬さんとお父様の気持ちも、お互いにうまく伝わらなくてすれ違っているのだと思う。
冷静に話し合えればいいのだけれど、今の状態では難しそう。
私はどうしたらいいのかな。少なくとも、時音がこんなに落ち込んでいるのは、いつもは味方の広瀬さんと対立してしまったせい。そして何よりも、いつまでも一方通行で行き場のないような気持ちに、時音自身が苦しんでいるせい。
もっとみんな素直になれたらいいのに。本当の心を言えれば、きっと伝わるはずなのに。……でもそれが、難しいんだよね。
「時音、元気だして。進学のこと、私からも話してみるよ。私に任せておいて!」
♢♢♢♢♢
「広瀬さん、私が時音の代わりにクレームを言いにきました!」
思えば、時音がどこに進学したいのか、どんな風に喧嘩をしたのか私は何も知らない。
何を言えばいいのかも正直分からないけれど、とりあえずびしっと言わないといけない気がして、物置部屋にいた広瀬さんに話しかけた。広瀬さんは私の方を全く見ずに、そっけない返事をする。
「そうですか。雨音様、お掃除の邪魔になりますから後にしてください」
「お掃除は2号ちゃんがしてくれるから広瀬さんは暇でしょう……あれ?お掃除ロボの広瀬2号は?」
いつもなら、物置部屋は2号ちゃんが掃除してくれているのに。そういえば今日は一度も見かけていない。
「充電台に戻る途中でバッテリーが切れてしまったようで。今行方不明なので捜索中です」
「えー!大変、早く見つけてあげないと!」
「お屋敷が広いので、なかなか見つからないんですよ」
「きっとどこか、隙間に引っかかってるんだよ。こういうとことか……あ!いた!」
床に頭をつけるようにして低い位置を探していたら、古い棚の下の僅かに空いた空間で動けなくなった2号ちゃんを見つけた。隙間に手を入れて引っ張り出した瞬間、沢山の埃が勢いよく部屋に舞う。
「うわぁ、2号ちゃん埃まみれだね。でも、みつかってよかったぁ。あれ?他にも何か落ちてる。これは何だろう?」
2号ちゃんと一緒に隙間から出てきたのは、文字の書かれた五角形の小さな木片だった。飛車……とびくるま?一体どういう意味だろう。
広瀬さんは私が手に持ったその木片を見て、目を細めた。
「……将棋の駒ですね」
「将棋?」
「日本の古いゲームです。昔、時音様が暇をしているときによく相手をしていたんですよ。失くしていた駒は、こんなところにあったのですね」
広瀬さんは私から駒を受け取ると、物置の棚から小さな箱を取り出した。箱の中には、同じように文字の書かれた駒が沢山入っている。
「わぁ、仲間がいっぱいいたんだね。これで、駒は全部揃ったの?」
「はい。将棋盤も出せば、問題なく将棋ができますよ。雨音様、一局指してみますか?」
「私はルールがわからないから、こういうのは時音に……あ。広瀬さん、時音とは喧嘩中なんだっけ」
「喧嘩では、ありませんが……」
広瀬さんは少し気まずそうに目を逸らす。そういえば広瀬さん、いつもより全然元気がない。
時音も広瀬さんもこんな感じじゃ、私も落ち着かないなぁ。早く仲直りしてもらわないと。
私は時音が言っていたことを思い出して、時音の素直な気持ちを代わりに伝えた。
「……時音はね、今でも小さい子供のように思われているのが悔しいって言ってたよ」
「そんな風には思っていません。時音様はむしろ、昔から私よりもしっかりしていて大人びていると感じますよ」
「そうだよね、私もそう思う」
「…………」
広瀬さんは苦笑いを浮かべながら、将棋の駒を綺麗に並べて片付けていく。
やっぱり、広瀬さんから見てもそうだよね。時音の昔について私は詳しく知らないけれど、時音が小さな子供みたいに見えたことは一度もない。
むしろ、子供みたいな時音を見てみたいくらい。私よりも早く時音と出会ったお父様と広瀬さんが、少し羨ましい。
「ねぇ、広瀬さんと出会った時の時音はどういう雰囲気だったの?それに、広瀬さんがどうしてこのお屋敷に来たのかも、私何も知らないの。せっかくだから、教えて欲しいな」
「雨音様、私は忙しいのですが」
「私の話相手をするのも、執事のお仕事!お掃除は後で私もお手伝いするから」
手を合わせて頼み込むと、広瀬さんは小さくため息をついて、それから少し埃のかかった小さな椅子に腰掛けた。
「……2号の充電が終わるまでですよ」
♢♢♢♢♢
「……私がこの屋敷に来たのは、約4年前。前に執事をしていた方が退職する際に、その方の紹介で入れ替わるように連れてこられました」
「あ、もしかして前の執事さんってこの写真のおじいさん?」
家にある写真立てや昔のアルバムに知らないおじいさんがたまに写っていたので、実はずっと誰なのか気になっていた。物置部屋に置かれた古い写真立ての中でも、この執事服のおじいさんはさやしく笑っている。
「はい。退職した後はゆっくり奥様と田舎で過ごすとのことで、今は遠い地方にいます。時音様や旦那様のことをとても気にかけているので、今でも定期的に写真や手紙などを送っていますよ。近頃は雨音様のお写真を見て、旦那様に隠し子が増えたと驚いていました」
「そっかぁ。会ったことはないけど、私もお手紙書いてみたいなぁ」
「きっと喜ばれますよ」
広瀬さんはそう言って穏やかな表情で微笑む。さっきよりも雰囲気が柔らかくなったことに安心して、私は心置き無く気になることをたくさん聞いた。
「おじいさんと広瀬さんは、元々知り合いだったの?」
「いいえ、全く。……前の仕事を辞めた時にたまたま知り合った赤の他人です」
「前の仕事?広瀬さんは何の仕事をしてる人だったの?」
「ホテルマン……ですかね。学生の時にバイトしていた場所でそのままずるずると。けれど、ある日ちょうど泊まりに来ていた前任の執事さんの荷物がなくなるというトラブルで、上司と揉めまして。上司のお客様への態度があまりにも酷かったので楯突いたところ、その場でクビになっちゃいました」
「そっか、それを見て可哀想に思ったおじいさんに拾われたんだね」
「そういうことです。私は何をするのかよく分からないままこの屋敷に来たのですが……」
「ねえ、時音は?そろそろ時音は出てくる?」
「時音様は、もうしばらく後ですかね。屋敷に来てから数ヶ月は、姿を見せてもくれませんでした。その頃の時音様はひどく人見知りで、私のことをとても警戒していましたから」
「そうなの?今の時音からは想像つかないね」
「仕方ないですよ。時音様にも事情がありましたから。けれど、あまりにも失敗の多い私に痺れを切らしたのか。屋敷に来てしばらく経ったある日、時音様の方から声をかけてきたのです」
♢♢♢♢♢
「お……お父様のコーヒーは、その豆じゃないの」
新しい職場に来て早数ヶ月。旦那様に所望されたコーヒーを用意しようとキッチンで豆を探していると、背後から突然声をかけられた。
「私が教える……から、貴方は見ていて。私は貴方よりも、このお家のこと詳しい……から」
振り返るとそこには、緊張した様子でこちらを見つめる一人の少女がいた。
「わ、私は時音。花園時音。お父様の娘で、中学2年生で、えっと……」
ああ、これがそうか。花園家には一人娘がいると聞いてはいたが、今まで姿を見たことはなかった。珍しい生き物を発見したような気分になって、思わずまじまじと見てしまう。
不安そうに瞳を揺らす少女に跪いて視線を合わせると、私は笑顔を作って挨拶した。
「時音お嬢様ですね、存じ上げていますよ。初めまして。私は広瀬浩司と申します」
「広瀬……さん」
「はい、何でしょう」
私が返事をすると、時音様は少し目を泳がせた。それから深く深呼吸をし、決意のこもった表情を私に向けるとこう言い放った。
「このままでは貴方、クビになってしまうわ。メイドのみんながね、貴方がいると余計な仕事が増えるって、怒っているの。けど私、貴方はとても頑張っていると思うから、だから……私が貴方を鍛えて、一人前の執事にします」
……?どういうことでしょう。
何かショッキングなことを言われたような気がして、一瞬思考が停止した。
時音様は私の手を両手で包み込むと、慈愛に満ちたような笑顔で語りかける。
「私が貴方を守ってあげる。だから、これから私と一緒に頑張りましょう」
「あの……僕ってそんなに役立たずですか?」
「残念だけれど……そうなの。私、貴方のことが心配になってしまって、見ていられなくて……」
「………………」
動揺して、思わず素の自分が出てしまった。正直、これほどまでに恥ずかしいことはない。
およそ10も年の離れたご令嬢に、心配され、情けをかけられ。……自分でも向いていないと分かっている。早くこんな仕事は辞めてしまいたいと切に思った。
時音様は、そんな私の考えを知ってか知らずか。手を握ったまま、真剣に話を続ける。
「でも、私はね。貴方みたいな面白い人がお屋敷に来てくれて、うれしいの。貴方には、長くここにいて欲しいと思ってる」
時音様の優しくも残酷な言葉に、私は張り付いたような笑みしか返すことができなかった。
「これからよろしくね、広瀬」
これが時音様との出会いであり、私の執事生活の本当の意味での始まりであった。