とある日常の隙間にて /その2
「今日から1週間、お料理の特訓です。よろしくね、昴くん」
「無理言ってごめんね。よろしくお願いします、雨音さん」
雨音さんに料理を教えて欲しいと頼んだ翌日の放課後、さっそく俺たちは家庭科室を借りて実際に料理を練習することになった。
ちなみにこの家庭科室は、雨音さんが文化祭前にメニュー開発をしていた時に料理部の人たちと仲良くなったことで、自由に使わせて貰えるようになったらしい。
そんな訳で、エプロンと三角巾に身を包んだ俺たちは真剣な表情でキッチンの前に立っている。
雨音さんはちらりと俺を見て、改まった様子で口を開く。
「昴くん。今日から1週間、私のことは師匠とお呼びください」
「師匠……?」
「うんうん、弟子ができたみたいでうれしいよ。じゃあ、さっそく始めよっか」
雨音さんは腕まくりをして気合いを入れると、近くにあった冷蔵庫から今朝事前に買って用意していた食材を取り出す。
「まずは、簡単なお料理からがいいよね。最初は、卵焼き!これにしましょう」
「目玉焼きなら、作ったことがあるけど。卵焼きは、自信がないかも……」
「火加減に注意すれば大丈夫。慣れれば、簡単に作れるようになるよ!じゃあ、まずは卵を割ってみて」
雨音さんから卵を受け取り、言われた通りに卵をボウルの中に割る。
「割ったよ、次は……」
雨音さんはその様子を見ると、大袈裟に驚いて拍手をした。
「えっ、すごい!ちゃんと綺麗に割れてる!」
「これくらいは普通にできるよ。俺、もしかして舐められてる……?」
「ごめんね、昴くんは料理苦手って言ってたから。卵を割るのも苦戦するかなと思ってたけど、そんなことはなかったね。すごいよ、昴くん」
「卵を割るのに苦戦する人はいないと思う」
「いるの。世の中には、卵を割ると必ず殻が入ってしまうような人が。……この調子なら、昴くんもきっとすぐにお料理上達するよ。私だって、最初は苦手だったし」
「そうなの?昔から得意なのかと思ってた」
俺がそう伝えると、雨音さんは少し照れたように笑って答える。
「昔はね、お料理なんてしたことなかったの。自分でするようになったのは、この学校に来てから。メイドのはる子さんが、私のために毎日お弁当を作るって言ってくれたのだけれど。私は、それがとても申し訳なくて……お弁当は自分でなんとかしようと思って、料理するようになったの」
「そうだったんだ……」
俺は、改めて目の前にいる雨音さんを見つめた。すごいな雨音さんは。苦手だったことから逃げずに、あんなに美味しいお弁当を作れるようになるまで努力したんだ。
料理が苦手なことを言い訳に、がんばろうともしなかった俺とは大違いだ。
……こうして雨音さんの横に並んで、雨音さんの貴重な時間を奪って料理を図々しく教えて貰っているのが本当に申し訳なく感じる。
「でもね、一人でなんとかしようと思っても、何をしたらいいのかわからなくて。見かねたはる子さんと時音が、今みたいにお料理を教えてくれたの。その時は、誰だって最初は初心者なんだから、遠慮しないで頼って欲しいって言われちゃった」
そう言って優しく笑う雨音さんを見て、俺は自然と本音が零れた。
「……でも、頼るのって結構勇気がいるよね」
「そうなの!迷惑じゃないかな、困らせてしまわないかな、と考えてしまって。最初はいつも、びくびく怯えてた」
雨音さんの気持ちはよく分かる。たぶん、雨音さんと俺の思考回路は似ている。
自信がないんだ。自分の存在に。
いつも天真爛漫な彼女は、はたから見ると周りから愛されていて、全てに恵まれていて幸福で、何も悩みがなさそうに見えることが多い。
けど本当は密かに抱えた苦しみや、弱さがあって。
俺も雨音さんも……それに少しずつ、向き合いながら成長している途中なんだと思う。
雨音さんは俺をじっと見て明るい笑顔を浮かべ、凛とした声で言葉を続けた。
「だから、昴くんが勇気を出して私を頼ってくれてうれしい。私にできることは多くないけれど、お料理なら任せて!きっと昴くんを、一人前の料理人にしてみせるよ!」
「そこまでは目指してないけど……ありがとう、雨音さん」
お礼を言うと、雨音さんはにこにこと笑顔のまま沈黙を続け、しばらく何もない空白の時間が流れた。
「あっ、えっと、雨音師匠……?」
「えへへ、どういたしまして。では卵に味付けをして、早速焼いちゃいましょう」
どうやら雨音師匠は師弟関係には厳しいらしい。気をつけよう。
気を取り直して雨音師匠のレシピ通りに砂糖やその他調味料を加え、卵を混ぜる。
後は油をしいたフライパンに卵を流し込んで焼くだけだが、一瞬、手が止まった。
「少し、緊張する……」
焦がしたり、綺麗な形に巻けなかったらどうしよう。やり直しだろうか。雨音師匠が見ている前で、変な失敗はしたくない。
俺が動けずにいると、雨音師匠はボウルを持つ手をそっと押して卵を焼くように促した。
「失敗しても、食べられる程度なら何も問題ないよ。炭とかになっちゃうと、食べるのも難しいけれど」
「えっと、卵焼きを炭にする人は流石にいないんじゃないかな?」
雨音さんが緊張をほぐす言葉をかけてくれたおかげで、ようやくフライパンに卵を流し込むことができた俺は、ジュージューと卵に火が通る心地の良い音を聞きながら雨音さんの話に耳を傾けた。
「それがいるの。焼いたものは炭になる、想像を絶する程料理が苦手な人は……この話は、きりがないからやめておきましょう。昨日また家の電子レンジが故障したこととか、思い出しちゃう。あ、サツマイモみたいに乾燥してるものをレンジで温めすぎると燃えて火事になるから、昴くんも気をつけてね」
「雨音師匠のお家のレンジ、いつも壊れてるね……?」
「レンジだけじゃないよ、他にも色々故障してる。犯人は毎回同じ人だけど……あ、昴くん、そろそろ巻いていこう。うん、良い焼き加減。上手だよ、本当に上手!才能あるよ昴くん!」
「卵焼くだけでこんなに褒められていいのかな……」
大袈裟だけれど、おそらくお世辞ではない賞賛を浴びながらむず痒い気持ちで卵を巻いていく。
完成した卵焼きは形こそ整ってはいないが、ほんのり甘くてふわふわで。
いつも雨音さんが作ってくれるお弁当の卵焼きみたいに、優しくおいしい味がした。