雨音、自分探し /その3
圭くんが初出演した舞台の千秋楽公演後、私と笑夢ちゃんは関係者の方々が集まる楽屋に通してもらい、圭くんと直接お話することができた。
「圭くん、初舞台お疲れ様。すごくいい舞台だったよ」
私はそう言って、圭くんにお花のブーケを手渡す。圭くんは驚いた様子で目を丸くすると、照れくさそうに笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます!……これ、雨音さんが僕のために選んでくれたんですか?」
「雨音お姉ちゃんが全部1から選んだの。完全オーダーメイドの、この世にふたつと無い特別な花束よ。大事にしなさい!」
笑夢ちゃんが大げさに言うので、私は少し恥ずかしさが込み上げてきた。心を込めて選んだけれど、圭くんに喜んでもらえるかどうか自信はない。
「気に入ってもらえるといいんだけど……」
私がそう呟くと、圭くんは花を見つめて目を輝かせた。
「こんなに綺麗な花束貰うの、僕初めてです。本当にうれしいです。本当に……!」
その目からは大粒の涙が溢れて、頬を伝う。笑夢ちゃんは圭くんの様子に驚くと、圭くんをなだめるように背中をバシバシと叩いた。
「ちょっと、お兄ちゃん泣いてるの?やだ、ほかの共演者さんたちもびっくりしてるじゃない!しっかりしてよ!」
「あれ、おかしいな……ごめんなさい、舞台が終わって緊張が解れたのと、今のサプライズで、感情がぐちゃぐちゃになっちゃって……」
圭くんは涙を手で拭いながら、花束をぎゅっと抱きしめている。そして私の方をまっすぐに向くと、優しく笑いかけた。
「この花束も、この気持ちも、ずっとこのまま……いつまでも残したおきたい、そんな気分です。花は、いつか枯れてしまうけれど、でも…………雨音さん。僕はこの花束と、今日の舞台の感動を一生忘れません。ありがとうございます」
「圭くん……」
「い、いつまでも泣いてちゃ、かっこつかないですよね。僕ちょっと、顔洗ってきます!」
圭くんは花束で赤らめた顔を隠しながら、慌てて楽屋を出ていってしまった。私は先程の圭くんの様子を思い返して、ぽつりと、素直な感情を口にした。
「私も、よろこんで貰えてうれしい」
私にできたのは、花束を作って贈ることだけだった。それでも、圭くんの力になれただろうか。同じように、誰かに幸福を届けることができるだろうか。
何者にもなれない私が、それでも。
誰かに、何かを残すことができるのなら……それはきっと、とても美しくてとても素敵なこと。
ねえ先生、そう考えてもいいですか。
「…………私にもできること、あるのかな」
笑夢ちゃんは私の言葉を、何も言わずに微笑んで聞いていた。
♢♢♢♢♢
「……雨音、進路調査票提出してきたのか?」
ある日の放課後。職員室から戻ると、るぅちゃんが一人で教室に残っていた。私はるぅちゃんの質問に答えながら、教科書を鞄につめて帰る支度をする。
「うん、さっき担任の先生に渡してきた。先生も、ようやく私の進路が決まって安心したみたい」
「花屋……だっけか。花園家は父親がやっている事業も多いから、アタシはてっきり、卒業後はそっちの手伝いをするものだと思ってた」
「お父様も、そういう風に考えていてくれたみたいなんだけどね。やりたいことができたなら、それを頑張りなさいって言ってくれたの。それに、お父様に何でも頼りっぱなしじゃ良くないと思って」
支度が終わって窓の外を見ると、空の色は綺麗な茜色に染まっていた。
他の人は誰もいない、私とるぅちゃんだけの教室はしんと静かな空気に包まれている。
何から話せばいいのか。るぅちゃんには伝えなきゃいけないことが沢山ある。
「……るぅちゃん、私ね。あの庭のこと、今でも忘れられないの」
その言葉を聞いて、るぅちゃんは一瞬驚いたように見えた。けれど、すぐにいつもの表情に戻って何も言わずに黙って話を聞いている。私はそのまま言葉を続けた。
「私が外に出て初めて見た景色は、あのお庭で。色とりどりに咲いた花を見て、世界はなんて美しいんだろうって、涙が出たの」
「あの時感じた気持ちを、お花を通じて私も誰かに届けてみたい。誰かの大切な記憶の中に、世界はこんなにもきらきらと輝いていて、素敵なもので溢れているんだよって、感動を残すことができるなら。…………それが、私のいる意味になるような……そんな気がする」
今まで、私はここにいていいのか、こんなに幸せに過ごしていていいのか、心の奥底で罪悪感のような暗い気持ちがずっとずっと残ったままだった。
今でもその気持ちは完全に消えた訳ではないけれど……私は、私にできることを見つけて、花園雨音として全て背負って生きていこう。
そう思うことができた。
クローンとしての存在意義しかなかった私は、きっともう、どこにもいない。
私はるぅちゃんの目を見て、ずっと言いたかったことを伝えた。
「私がこんなふうに前を向いて進めるのも、るぅちゃんと先生が、毎日あの庭の花たちをお世話してくれたおかげだよ。ありがとう、るぅちゃん」
今の私があるのは、あの時、あの花たちに出会ったから。
あの花に願いを込めて大切に育ててくれた人達がいたからなのだと、私はそう思っている。
るぅちゃんは私から目を逸らすと、独り言のような小さな声で呟く。
「アタシとあの人がやっていたことは、正直、意味の無いことだと思ってた。祈りと、救いを願うのも。勝手な自己満足であり、懺悔であり……誰の慰めにも、助けにもならない。ずっとそう、思ってた」
るぅちゃんは声を震わせながら、話を続けた。逸らした目は窓の外の夕日を、眩しそうに見つめている。
「……でも、違ったんだな。アタシたちがしてきたことは、全てが無意味では、なかったんだな」
るうちゃんはそう言うと私の前に立ち、私の両手を手のひらで包み込んで強く握った。私の目を真っ直ぐ見つめる瞳には、強い決意がこもっているように見える。
「雨音、アタシも決めたんだ。アタシは、あの人と両親がしてきたことに目を背けない。世界にはまだ、クローンに関わる施設がいくつもあって……全てが終わった訳じゃない。アジアの一部の研究所の失態だけでは、この大きな流れは止まらない。……これからだよ。世界がどういう風に動いていくのかが決まるのは、きっとまだ、もう少し先。本当に頑張らなきゃいけないのは、これからなんだ」
「アタシは一人でも多くのクローンに、雨音みたいに自分の人生を見つけて、幸福に生きて欲しいと思ってる。その為にどうすればいいのかはまだ、わからないけど……自分の目で世界を見て回って、何が起こっていのるかを知って、アタシに何が出来るか考えたい」
るぅちゃんは強く握った手を解くと、柔らかい笑顔で私に笑いかけた。
「……青葉は、自分の道を見つけたみたいだからな。あいつとは別の道で、アタシもアタシなりに頑張ってみるよ」
「るぅちゃん……」
るぅちゃんとこんなふうに隠し事のない話をするのは、修学旅行の最後の夜以来だ。今なら、聞いてもいいのかな。心の奥で、他にももやもやと考えていたこと。
「……るぅちゃん、あのね。私、ずっと気になっていることがあって」
「何だ?」
「…………あのお庭は、今どうなってるのかなって」
記憶の中の庭園は、今でも施設を出て初めて見た美しい景色のまま。それから庭を見に行ったことはないし、今は施設が封鎖されているから、もうあの美しい景色はどこにも存在しないのかもしれない。
怖くて確かめに行くことはできなかったけれど、ずっと気にかけていた。
るぅちゃんは悩むような仕草を大袈裟にすると、もったいぶりながらゆっくりと答えた。
「そうだな……この前手入れはしたけど、暫くしたらまた雑草は生えてくるだろうな。新しい種も、もっと植えておきたいし。けどこれが、なかなか一人では大変で大変で」
わざとらしく肩をすくめながら、るぅちゃんは照れくさそうに笑う。
「だから、春になったら一緒に庭の手入れを手伝って欲しい」
「……うん!」
私が返事をすると、その後を追って校舎中にチャイムの音が鳴り響いた。もう下校時刻みたい。外を見ると、夕日は沈みきっていつの間にか空は藍色に染まっている。
そろそろ帰ろうと2人で教室を後にすると、るぅちゃんは廊下を歩きながらさり気なく私に質問をした。
「雨音、アタシも気になっていたことがあるんだ。雨音なら、何か知ってるんじゃないかと思って。あの人は……八乙女先生は、元気にしているだろうか」
先生には、あれから私も会えていない。けれど、先生のことはお父様から聞いている。
秋にお父様が海外に行っていたのは、お仕事のためだと言っていたけれど。たぶん本当の目的は、先生に会いに行くこと。
「……先生は、お父様が海外の信頼出来る医療団体に預けたって言ってた。先生が悪い人たちに利用されないように、守ってくれるところだって。今は、貧しい国で苦しんでいる子供たちのお医者さんになって、病気を治しているみたい」
お父様は家に帰ってくると、色々なことをお話してくれた。お父様の話す先生は、私の知っている先生とは雰囲気が全然違っていて。きっと先生は今、お父様やお母様と過ごしていた頃のように笑えているのだと思う。
「この前、お父様がお仕事のついでに先生に会いに行った時にはね。『嶺は人使いが荒い』って、先生は不満そうにしてて。お父様は、『お前は暇になると碌な事を考えないから、不満を感じる暇があるならもっと働け』って怒ったみたいで。先生もお父様も子供みたいに喧嘩をして……でもちゃんと仲直りしてきたんだって。だから先生はきっと、私たちの先生だった頃よりも元気にしているよ」
「そうか……それは良かった」
「今度、一緒にクリスマスカードでも送ってみよっか。先生、きっと喜ぶよ」
「ああ、そうだな。来月にはもう、クリスマスだもんな」
外に出ると、吐く息は白く空気はひんやりと冷たく感じた。もうすぐ、冬になる。
この学校で過ごせる時間があと僅かなことを思い出すと、少しだけせつなく、さみしく感じた。