20.ソータ2013-2014(1)
ベレッドの北の岬の神殿は……ジャスラの白い空に切り込むようにそびえ立っていた。
あれから――水那が神殿の闇の奥に消えてから、もう17年も経っていた。
俺はジャスラ各地の雫を集め……いよいよ、この北の果てまでやってきた。
「……行くか」
この神殿には、ネーヴェがいる。
俺は、彼女とヤハトラにいるネイアに旅の終わりを報告するつもりだった。俺の勾玉の力と二人の力を合わせれば、ヤハトラまで一気に帰れるはずだ。
――17年前の、旅の終わりもそうだった。
螺旋状の階段を登りながら、かつてセッカと……そして赤ん坊の十馬を抱えた水那と登ったことを思い出す。
十馬も、もう17……いや、1年前に戻ったから……18になったんだな。
あの頃の俺と……同じぐらいだ。……ってことは、俺は……37か。
体内にある勾玉の加護で、俺はかなりゆっくりと年を取っていた。多分、見た目は24、5に見えるはず。
それと同時に……俺の心も、あのときからずっと止まっている――そんな気がする。
「……ふう」
階段を登る足が止まる。塔の壁はところどころ穴が開いていて、ベレッドの集落や山が一望できた。
一年中寒いベレッドだが、今は夏だから白い雪の中にところどころ緑の大地が見えている。
しばらく眺めたあと、俺は再び階段を登り始めた。
――そのときだった。
“……剣……十馬……”
胸の中にある勾玉の欠片から聞こえる……懐かしい声。
「――えっ……」
俺は思わず足を止めた。胸を押さえる。
ずっと気配は感じていた。何度も、何度も話しかけていた。
でもこの17年間――一度も聞けなかった、声。
俺は、思わず振り返った。
塔の壁に開けられた穴に走り寄り……遠く離れたヤハトラの方角を見る。
『――水那……!』
俺は大きな声で呼びかけた。
しかし俺の声はジャスラの白い空に溶けて……それに返すものは何もなかった。
幻聴……? いや、絶対違う!
勾玉が伝えてきた……確かな、声。
そうだ、神殿なら……!
そう思い、俺は塔の階段を一気に駆け上がった。
そしてその勢いそのまま、頂上の神殿の扉を慌ただしく開ける。
「ネーヴェ!」
「何だ、騒々しい……」
「今、ミズナの声が聞こえた。ネーヴェには聞こえなかったか?」
「は? 何を……」
ネーヴェが何を馬鹿なことを、とでもいうように眉をひそめた。
どうやらネーヴェはジャスラの涙から少し離れていたようだ。
一瞬だったし……聞き逃したのかもしれない。
俺は胸の中の勾玉に意識を集中させた。
“ソータ!”
俺から話しかける前に、向こうから声が聞こえた。
声が若い。これは……。
「セイラか?」
“そうだ! 今一瞬だけ、ミズナが……目を開けた!”
「えっ……」
セイラの声がかなり上ずっている。
レジェルが浄化を手助けしてくれているおかげで……ここ何年かでヤハトラの神殿の闇は少し薄くなった。中で祈りを捧げる水那の姿が、微かにだが見えるようになっていたのだ。
つまり――セイラは確かに、水那が目覚めた瞬間を見た、のだ。
俺が聞いた声は……間違いなく、今の水那の声だ……!
「一刻も早くそっちに帰りたいんだ。できるか?」
“わらわでは……今、母さまを呼んでいる。もう少し……あ、母さま!”
ヤハトラでもだいぶん混乱しているようだ。
俺とセイラのやりとりで事情を把握したらしいネーヴェが、ジャスラの涙に祈りを捧げていた。
俺を帰すための準備をしているのだろう。
“待たせたな、ソータ”
「ネイア……頼む!」
“承知した”
俺はネーヴェに黙って頷くと、目を閉じて胸の中の勾玉に意識を集中させた。
前は浄維矢を取り出した力を使ったが……今は自分で力を引き出さなければならない。
『――ヒコヤイノミコトの名において命じる』
“ヤハトラの巫女、ネイアの名において命じる”
「ベレッドの巫女、ネーヴェの名において命じる」
――ヒコヤイノミコト……ヤハトラに還り給う……!
急に辺りが暗くなり……俺の身体が宙に浮いた。
俺を取り巻いている空間が……目まぐるしく変わっていく気がする。
……そして、急に視界が開け……足が床の感触を捉えた。
祈るネイアの姿と、傍で水那とネイアを見比べて妙に慌てているセイラの姿が目に入った。
俺は慌てて、神殿を見た。
水那は……闇の奥で、目を閉じたまま、祈りを捧げていた。
「……変わってないな……」
「ソータ!」
セイラが凄い勢いで俺に飛びついて来た。
「でも、さっきは目を開けた! 日本語だったから聞きとれなかったけど、何か呟いていたのだ!」
「……落ち着け、セイラ」
ネイアがセイラの両肩を後ろから抱いた。
そして、俺の方を少し緊張した面持ちで見つめた。
「……ソータにも聞こえたのか?」
「ああ。『剣』『トーマ』と言っていた」
「剣……」
ネイアが何かを考え込む。
「勾玉とつながっているミズナが剣と言ったのであれば……それは『神剣』に他ならないだろう」
「神剣……?」
「ヒコヤがパラリュスにもたらした、三種の神器の一つだ。……思い出せ」
そう言うと、ネイアが俺に手を翳した。
その途端、鳩尾が熱くなり……視界がぐるぐる回った。
そうだ……これは、初めてジャスラに来た時に、ネイアが俺に……。
脳裏にさまざまな映像が現れては消え、流れて行った。
どうやら、ずっと遡っているようだ。
少し背の低い、控えめな……碧の瞳の女性が肩から血を流しながら、勾玉を抱えて震えていた。
そして、目の前には……紫色の瞳の、この世の者とは思えないほどの美女が、剣を掲げて嬉しそうに笑っていた。
しかし――これは狂っている、と直観的に思った。
次の瞬間、美女の表情がガラッと変わり……ハラハラと大粒の涙をこぼした。
「――視えたか?」
ネイアの声でハッと我に返る。
いつの間にか、俺は床に這いつくばって……大量の汗を流していた。
「ソータ、大丈夫か?」
「……どうにか……」
心配そうに俺に寄り添うセイラに答えると、俺は大きく息を吐いた。ゆっくりと立ち上がる。
ネイアがじっと俺を見つめていた。
「紫の瞳の美女が……剣を掲げていた」
「それが女神ウルスラだ。……それと、神剣」
“――颯太くん……!”
水那の声が、俺の胸の中の勾玉と神殿から、同時に聞こえた。
『水那!』
俺は神殿の近くに駆け寄り、見上げた。
薄くなった闇の向こう……水那の瞼が、ぴくりと震えた。
セイラとネイアの息を呑む音が背後で聞こえた。
“助けて……十馬を助けて……”
水那がゆっくりと目を開け……俺を見た。――17年ぶりだった。
『十馬……が、どうかしたのか?』
“剣の力……引き出せていない。私がつなぐから……剣の宣詞を……!”
水那は再び固く瞳を閉じた。両手を握りしめ……祈りを捧げる。
剣の宣詞……。
俺は目を閉じると、さっき一瞬だけ視た映像を思い返した。
ヒコヤが……女神ウルスラを封じる瞬間……諳んじていた宣詞は……。
『――ヒコヤイノミコトの名において命じる』
ぼうっと……身体が熱くなるのを感じた。
『汝の聖なる剣を我に。我の此処なる覚悟を汝に。闇を断つ浄維刃を賜らん……!』
唱えた瞬間……俺の言葉が力となって神殿に――勾玉に吸い込まれていくのを感じた。
「ぐうっ……!」
何が起こったかはわからない。
しかし……俺はひどく疲れて、その場に崩れ落ちてしまった。
「ソータ……!」
遠くで、ネイアの声が聞こえる。
薄れゆく視界の中で……俺は神殿を見上げた。
水那がホッとしたように微笑み……そのままゆっくりと目を閉じていくのが見えた。




