18.ケーゴとユズル2013-2014(3)
あの瞬間に戻ってから……二週間が経った。
シィナが降ってくることもなく、そのため遊園地に行くこともなく、マリカに会うこともなく……淡々と日々が過ぎて行く。
だけどトーマは……明らかに変わった。
この夏休みの二週間、トーマは大学もバイトもないはずだけど、なぜかどこにも遊びに行こうとはしなかった。
見張っていた訳じゃないけど、アパートの隣の部屋だからすぐに分かる。
学部の友人に誘われて一度飲みに行ったみたいだけど……それっきりだ。毎日、何だかボーっとしていた。
そして……夕方になると、公園に出かけて行った。……しかも、僕を誘って。
「何か……落ち着かないんだよな」
トーマは不思議そうに首をひねった。
「何となく……ジョギングでもしていた方がしっくりくるんだよな」
「いいんじゃない? 健康的だし」
僕が答えると、トーマは「そうだよな」とちょっと笑って走りに行った。
――やっぱり、何となく身体が憶えてる……って感じだよな。
シィナがいたとき、トーマはシィナを守るために身体を鍛えようと、毎日ジョギングしていた。
その近くで僕とシィナがフェルティガの訓練をするというのが、ここ二週間ぐらいのかつての日課だった。それを忘れていないんだろう。
でも、身体はともかく、記憶の方は完全に消去されたはずだった。時の欠片を継承したシィナの力はすさまじいものだったし……。
――なのに
「ウルスラ……って何だっけ」
と、ある日突然、トーマが言った。
「えっ……」
唐突過ぎて僕が戸惑っていると
「あ、ごめん。多分……夢の話だ」
と言って頭をポリポリ掻いた。
おいおいおい……。どうなってるんだ。
この後トーマが「ウルスラ」という単語を発することはなかったけど……僕は不安になった。
こんなことが続いたら、トーマの精神が壊れてしまうんじゃないか。
不思議なことはまだある。
僕は人の心を読むことができて……特にトーマは素直な性格で大声で考えることが多かったから、かなり読みやすい方の人間だった。
勿論、読まれる方は嫌だろうし、普段はシャットアウトして読まないようにしているけれど。
それなのに――トーマの心が、かなり読みづらくなった。
今も、そう。読もうとしても……何かノイズのようなものが邪魔をする。
記憶を視ようとしても、画像がひどく歪む。
――ひょっとしたら、シィナの時の干渉の期間だからかもしれない。
シィナと別れた、あの時間まで進めば……トーマの歪みも、僕の力も治るのかもしれない。
……あのとき――彼女と会うときまでは、そう思っていた。
トーマが二泊三日の泊まりのバイトから帰って来て……僕は、トーマの実家に一緒に行くことになった。
僕の実家は、母さんが亡くなったときに引き払っていたから……もうない。
トーマとは小三からの仲だけど、トーマの家には行ったことはなかった。トーマのおじいさんとは、勿論面識はある。母さんの葬式のときはかなりお世話になったし。
ただ、僕の左目が本当は紫色であることや、心が読めることは話してないと、トーマが言っていた。
「まぁ、そんなこと気にするようなじいちゃんじゃないけどさ。ユズが嫌かと思って」
「……嫌ってことはないけど……気持ちは楽だね。ありがとう」
僕がお礼を言うと、トーマがちょっと照れたように「へへっ」と笑った。
トーマのこの笑い方は、小三から全然変わらない。
電車とバスを乗り継ぎ、僕たちが育った町に戻って来たのは、もう夕方だった。
「思ったより遅くなっちゃったな」
「バスが来るのが遅れたからね」
バス停からトーマの家までの道を歩く。じとっとした汗が額に滲むのを感じた。
――今……ぐらいだろうか。シィナと別れた……瞬間。
そう思った瞬間、トーマがふと足を止めた。
「……何か、変だな」
「え?」
ドキッとして顔を上げると、もうトーマの家の前だった。僕が考え事をしている間に着いたらしい。
トーマは玄関の戸をガタガタ揺らすと
「やっぱり、じいちゃん出かけてるな」
と少し不満そうに呟いた。どうやら鍵がかかっているらしい。
「そうなんだ」
「今日帰るって言ってあったんだけどな……」
トーマはぶつくさ言いながら鍵を取り出すと、玄関の戸を開けた。
「……勝手に入っていいの?」
「いいだろ」
「いや、トーマはいいけど……僕は、初めてお邪魔する訳だし」
何となく、申し訳ない気がする。
「……じゃ、探しに行くか。多分、神社だよ」
荷物だけ玄関先に放り込むと、トーマは再び鍵をかけた。
「神社?」
「あの、木がいっぱいある、石段の上の……」
「……ああ、あそこか」
それは、僕も時々散歩に行っていた近所の神社だった。
すごく古い大木があって……どう言ったらいいかわからないけど、何だか落ち着く場所だったから。
母さんの話を聞いてから――多分、ウルスラと近い場所なんだろうなと直感で思った。
「じいちゃんさ、警察官だったって言っただろ?」
「うん」
「あれ、全然別の県でやってたらしくてさ。この県とは何も縁がなかったんだって。たまたま非番の時にここに来て、あの神社に寄ったんだって。それで気に入って、退職後にこの町に来たんだってさ」
「……そうなんだ……」
トーマのおじいさんも……お気に入りなのか。
でも……ここって、わざわざ観光に来るようなところかな……?
そうこうしているうちに、神社に着いた。長い石段を登る。
トーマがダダダッとすごい勢いで駆けあがっていった。僕はそこまで体力はないので、走ってゆくトーマの背中を見ながらゆっくり歩いて石段を登った。
「じいちゃん! やっぱりここにいたかー!」
石段の一番上に着いたところで、トーマが大声を上げた。
「……トーマは元気だよね……」
僕は独り言を言いながら石段の一番上まで登った。
見ると、トーマが「今日帰るって言ってあったのに……」とぶつくさ言いながらおじいさんの方に駆け寄るところだった。
おじいさんは若い女の子とベンチに腰かけていた。
トーマを見て
「ああ……悪い、悪い」
と言ってベンチから立ち上がった。
……ところで、この女の人は誰だろう? 多分、僕らと同じくらいの年齢の……小柄な女の人だ。
「え、あの……さっきの……」
彼女が慌てて立ち上がって何か言いかけようとしたけど、おじいさんは黙って首を横に振った。
二人の間に、奇妙な沈黙が流れた。
――何だろう。何か……違和感がある。
僕は、申し訳ないと思いつつ……彼女と――そしておじいさんの心を読もうとした。
「……?」
おかしなことが起こった。心も――記憶も、全く視えない。
どれだけ集中しても、フェルティガを注ぎこんでも、何も視えてこない。
ノイズとか歪みとか、そんな問題じゃない。何も……全く何も効いていない。そういう感じだ。
何だ? どうしてだ? こんなこと……初めてだ。
そう言えば、母さんも……いや、違う。母さんの場合は、障壁されて力が弾かれた、という感じだった。シィナが拒絶したときも、そうだった。
でも、そうじゃない。彼女の場合は……僕の力をどんどん呑み込んでいる感じがする。僕の力を完全に無効化しているってことだ。
だってそうでなければ……彼女は読めなくても、おじいさんの心は読めるはずだ。
こんな人間……初めてだ。何が起こってるんだ?
「ユズ? どうした?」
トーマが僕の腕を掴んで激しく揺すった。
「あ……」
僕はハッと我に返った。とりあえず頭を下げる。
「……すみません、ちょっと考え事……してて……」
どうにかそう答えたけど、まだ冷静にはなれなかった。
何だろう。彼女は……何者なんだ?
僕の背中に、冷たい汗が流れた。




