王子二人は船に乗る
アストラフト王国、南方海上
帆の全てにいっぱいの風をはらんでガレー船は進んでいた。空はどこまでも青く、白い綿をちぎったような雲が時折、西から東へと流れていく。
癖のない銀髪を風になびかせ、舳先近くの甲板に一人の青年がたたずんでいた。ラディの第三王子、マカーリオである。彼は船酔いに苦しめられることもなく、波間に浮かぶ遠くの島々を興味深げに眺めている。
航路の打ち合わせを終えて甲板に上がって来たエラトがマカーリオの姿を見つけて声を掛けた。
「思っていたよりずっと早くアージュの港に着けそうですよ」
「順調な航海のようですね。漕ぎ手が暇を持て余すほどだとか聞きました」
マカーリオは下級の船員にも分け隔てなく接している、気さくな性格は評判通りだったようだ。
「ええ、今の季節は天気は良くても風が少ないことが多いのですが、この航海ではずっと順風に恵まれているんですよ。海神の御加護かな」
エラトは上機嫌で答える。比較的誰とでもすぐに親しくなれるエラトであったが、マカーリオに対しては初対面から特に気が合っていた。年が近く、ともに末の王子であるという共通点が親しみを感じさせたのかもしれない。
「河船とは何もかも違いますね、揺れも景色も……」
周囲に広がる海の色によく似た明るい紺色の瞳を輝かせてマカーリオは言う。
「海は初めてですか?」
「それどころか国外に出るのすら初めてですよ。いや、ラディの王都に滞在したのも数えるほどですね。私はずっと田舎町にある離宮で育ったもので」
その返答を聞いてエラトはマカーリオを見つめなおした。
気さくな態度と口調にもかかわらず、彼の醸し出す風情は歴史ある国の貴公子そのものである。さすが大陸一煩雑な儀礼を要求されると定評のあるラディ宮廷仕込みと、事あるごとに感心していたのだったが。
「意外ですか?」
「ええまあ」
「養育係にいろいろと厳しく躾けられたんですよ……ラディの王族としてふさわしくあらねばとか言われてね。子どもの頃には自分の置かれている状況なんてまるでわかっていませんでしたから、近所の子どもたちは毎日自由気ままに遊んでいるのにとずいぶん不満に思ったものです。今では感謝している部分もありますが……」
マカーリオはその先を続けようとはしなかった。あまり自分のことばかり話すものではありませんねと苦笑気味の表情で言い、口調をやや改める。
「ところで、エラト殿。お時間があるようなら妹姫のお話を聞かせていただけませんか? 肖像画を拝見する機会すら無く、こうしてやって来てしまいましたから、せめて身近な方から人となりなどを伺っておきたいのですが」
「ああ、そうですね。もちろん……」
そこまで言ってエラトは口ごもった。ミラのことはあまり褒め過ぎるなと兄たち、特にオクセインから釘を刺されていたことを思い出したのだ。期待値が高いと逆効果だからねなどと言われたが、といって欠点を並べ立てるわけにもいかないところだ。
とりあえず時間稼ぎのつもりでエラトは椅子と飲み物を用意させることにした。数人の船員がてきぱきと動き回り、あっという間に座り心地の良いデッキチェアが二脚と、酒瓶と杯の乗った小さなテーブルが整えられる。
「かなり高い理想をお持ちの方と耳にしております……」
椅子にゆったりと腰かけたマカーリオが口にしたのは『アストラフトのわがまま姫』の噂を最大限好意的に表現した言辞である。それを聞いてエラトは自分に似合わぬ小細工はやめることにした。
「確かに好みはうるさいんです。何に関しても一流のものを与えられて育ちましたから自然と目が肥えてしまったのでしょう。ただ、好き嫌いをはっきりさせ過ぎるところはありますが、基本的に見る目は確かだと思いますよ」
マカーリオは黙って頷いていた。エラトは彼の心中を推し量ろうとはせず、自分の考えを述べ続ける。
「妹が一番嫌がるのが、有名だからとか誰それが褒めているから、という曖昧な理由で何かをすすめられることですね。たとえ好みが合わなくとも、その人なりの強い想いや主張があれば結構真剣に耳を傾けるのですが……もっとも、それで妹の意見が変わることは稀ですけれど」
「なかなか、手ごわい方のようですね」
「手ごわい、ああ、まさにその通りですよ。僕は正直、ダンス以外であいつに勝てる気はしませんから。もちろん、戦いとかそういう男女の体力の差でどうしようもないものは除いてですが。いや、僕じゃなくてもあいつが勝てない相手なんているのかな……あ、すみません、何か話が逸れてしまって……つまり、僕が何を言いたいかというと……あれ、何を言いたかったのかな?」
エラトは決して話を誤魔化すつもりなどない。至極真面目にミラの人柄を説明しようとしていたのだが、彼のこちらの面での努力は報われないことがしばしばある。もしミラがこの場にいたとしたら、『あきらめて、今すぐ口を閉じて、お願い』と精一杯の念を込めて睨み付けてくることだろう。
「御兄妹、仲がよろしいのですね。羨ましいです」
柔らかな微笑みを見せて、マカーリオは話を引き取った。エラトに助け舟を出すつもりもあろうが、本音も半ば以上混じっているのは間違いない。彼の兄である『ラディの双子王子』が王太子の座を巡って、何かにつけ張り合っているというのは国外にまでよく知られた話である。
さすがにそれと察したエラトだが、触れるには微妙過ぎる話題だ。黙って杯に酒を注ぐと、一方の杯をマカーリオにすすめた。
互いに他の話題を見つけられないまま、黙って酒杯に口をつけていると、不意に船の周りを飛び回っていた一羽の海鳥が二人のすぐそばに降りてきた。奇妙な鳴き声を上げながらよたよたと甲板の上を歩き、船の後方へと向かって行く。「お、晩飯になりに来たやつがいる」と、作業中の船員が面白がって手元にあった木片を投げつけると、慌てたように再び空へと舞い上がっていった。
「あの鳥、食べられるんですか?」
視線の先で小さな白い点へと変わっていく鳥の姿を捉えながら、マカーリオは呟いた。
「一度、船の食料が足りなくなりそうだった時に食べたことがありますが……実際のところ、餓死の危機がせまっていなければ二度と食べようとは思いませんね」
「それは……経験せずにすませたほうが良さそうだ」
二人の王子は顔を見合わせ、屈託のない笑い声を上げた。その後は酒を酌み交わしつつ、船と海に関するよもやま話をしながら、快適な船旅を楽しむのだった。