父と息子は酒を呑む
王宮北館 国王アグノスの私室
「男親というのは、なんともつまらないものだね」
壁に掛けられた亡き正妃クロエの肖像画を眺めながらアグノスは愚痴めいた呟きを漏らしていた。小姓に案内されて入ってきたところだったフィロはさりげない調子で「そんなこともないでしょう」と返す。
「つまらないものだよ。せめて私が国王などという面倒な立場でなければ、まだ少しはましだったかもしれないが」
「ご自身で望まれたお立場ではありませんか」
不愛想な返事を口にしながらフィロはアグノスの向かい側に腰かけた。長子である彼には内乱の記憶がうっすらとではあるものの残っている。
「なってみればいろいろとあるものさ。神に仕える道を選んだお前にはわからんだろうが」
「不肖の息子で申し訳ありません。まあ、あと十年ばかりすれば引退なさってもよろしいのではないですか。もっともそうなったときにはミラの方が大忙しでしょうが」
淡々と述べ終えてフィロは酒瓶に手をのばした。二つ並んだ銀製の杯に葡萄酒を注ぎ、一方を父にすすめる。アグノスは面白くなさそうな顔つきで一気にそれをあおった。
「……それで、デニスの要求は何だ。私はどうすればいい」
「まずは必要経費の負担ですね。カレドの神官数名に便宜を図ってもらわねばなりませんから、結構な額になります。ヴィトスに頼んで国の予算から捻出してもらうことも考えましたが、父上の手許金から出してもらった方が手続きなどが簡単に済むでしょう」
「その程度はすぐに何とかなる。他には?」
「彼の働きに対する適切な報酬。これは金銭、土地どちらでもよいそうです。それからアストラフト各地における太陽神神殿の修復工事への援助ですね。あとは……僕の方でいくつか個人的な頼み事を引き受けましたが、どれも些細な事柄ですから内容を詳しく申し上げるには及ばないでしょう」
「もっとふっかけてくるかと思ったが、意外に妥当な取引だったようだな」
「あいつにも人の情らしきものがあったようです」
「情か……ソチェタスの血筋にそんなものがあろうとは思えんな。こちらに恩を着せておいて、将来的に大きく取り戻してやろうという腹積もりに違いない」
若い頃の苦い記憶がよみがえるのだろうか、アグノスは偏見もあらわに吐き捨てた。
「そうは言いますが、これは彼を信頼しないことには成り立たない計画ですからね。そもそも父上が最初からミラに何もかも話していれば、こうした面倒事は一切無くて済んだでしょうに」
「事情を明らかにしていたら、ミラは自分の気持ちではなく国益を優先した判断をしてしまうだろうが」
「案外お互い本音をぶつけて語り合う機会が得られたのではありませんか?」
「そんなにうまくいくものか」
「確かに難しいかもしれませんね。父上もミラも不器用なところがよく似ていますから」
他人事のように語る長子を軽く睨みつけはしたものの、アグノスの機嫌はむしろ上向いてきたらしい。「まあ結果的にはおさまるべきところにおさまったのではないか」などと言いながら酒杯を重ねる。苦笑しつつフィロもそんな父に付き合った。
「クロエがお前たちを集めてパーティーを開いたことがあったな……」
ほろ酔い加減のアグノスは思い出話を始めていた。その話がどのように進みどこに着地するのか完全に知り尽くしているフィロではあったが父を制することはせず、適当な相槌を打ちながら思考の半ばを別方面に振り向けていた。
正妃であるクロエは異母兄弟である王子たちが顔をあわせる機会を増やすためであろう、年少者を中心としたパーティーを盛んに開いていた。その集まりにはミラと兄たちだけではなく多くの貴族の子女が招待され、気取らない雰囲気の中、子どもらしい遊びに興じるのが常であった。
子どもらを緊張させてはいけないと多忙を理由にその手のパーティーへの参加は遠慮していたアグノスであったが、一度だけミラに乞われて出席したことがあった。「お兄様たちがみんな来るのですって、フィロ兄様やペトラ兄様もよ、だからお父様も来なくてはいけないわ」と、六歳になったばかりのミラはたいそう熱心だった。
とはいうものの、子育てを妻たちに任せきりにしていたアグノスは子ども相手に何をすべきかさっぱりわからなかった。一通りの挨拶を済ませた後は、子どもたちが遊びまわるのをぼんやりと眺める以外の過ごし方を思い付けずにいた。
ようやく手の空いたクロエが傍にやって来た時も、彼の口をついて出たのは父親ではなく国王としての問いであった。「そろそろ後継者を決めなくてはならないな、お前はどのように考えている?」と。「どなたでもあなたの望む方を」と慎重にクロエは答え、場違いな会話をそこで終わらせようとした。しかしアグノスは周囲に人がいないことを幸いに話を続けた。
「私の望み通りというならば、ミラということになるが」
「それは……あの子はまだ幼すぎます」
「何も今すぐ王位を譲るという話ではない。あと二十年ほどは私も元気でいるつもりだからな。その頃にはあいつらも立派に成長していることだろう。やっかいな実務は皆に任せ、おとなしく玉座に座っていればよいだけだ。さほど難しいことでもなかろう」
「おとなしく座っているということこそが難しい性格の者もおりますから」
「そうよ、エラト兄様にはできないわ」
不意に会話に割り込んできたのはミラであった。会話の後半を盗み聞いて、自分なりに解釈したのだろう。確かに落ち着きのなさを咎められることの多いエラトはパーティーが始まってから今まで一か所にとどまる様子がまるでなかった。年の近い兄に対抗心を燃やしたのかミラは父王に対して懸命に言い募った。
「私がここでちゃんとおとなしくしていられたら、お父様はお喜びになる?」
「ああ嬉しいとも。だがこの椅子は大人用だ。お前には大きすぎる、子ども用の椅子をすぐに持って来させよう」
「いらない。家庭教師に習ったの、おとなしくするっていうのは大人のようにするっていうことだって。だからこの椅子に座るわ」
ミラはほとんどよじ登るようにしてアグノスの隣に空いていた椅子に座り、姿勢を正した。アグノスは娘の愛らしさに目を細めたが、クロエは複雑な表情を浮かべていた。
「パーティーが終わるまで一時間あまりだったか、ミラはきちんと座っていたよ。姿勢も乱さず、床に届かない足をぶらぶらさせることもなく。出席者への応対も私の真似をしていたんだろう、必死で大人びた言葉を使おうとしていた」
「昔から負けず嫌いな子でしたからね。自分が言い出したことはやり通さなければ気がすまない」
いつも通りの受け答えを行いながらフィロは考えていた。あの時こっそりとミラの足元に踏み台を置いたのは誰の仕業だろうと。そしてその人物はミラが一度もその台に足を置かなかったことに気づいていたのだろうかと。
明日の朝早いことを思い出しフィロが帰るそぶりを見せ始めたころ、アグノスは多少酔い過ごした風で壁の肖像画に向かって話しかけていた。
「私はいつでも君との約束を守るつもりでいるんだが……そこまでの決断を迫られる機会は結局なさそうだよ。喜ばしいことなのかな……それとも寂しいことなのかな」
『アグノス様……王の立場と親の愛情の間で、もしもあなたが迷うようなことがあれば……どうかミラの父として……』
その後に続く言葉が正妃クロエの口から出ることはなかった。幼い娘を残して逝かねばならなかった彼女の遺言を耳にしたのは国王アグノスと侍医、そして当時の女官長であったフィロの母エスカの三名だけであった。




