隣国の王子は月を眺める
第四王子ヴィトスの屋敷 離れ
「お寒くはございませんか?」
従者レノスが気遣うように声を掛けた。夜更けともなれば窓辺にひやりとした風が忍び込むような季節になっている。雲一つない空に浮かぶ満月を眺めるともなく眺めていたマカーリオは軽く首を横に振った。
「何か飲み物でもお持ちいたしましょうか?」
「いいよ。それより、荷造りは済んでいるかい?」
「お言いつけ通り、いつでも発てるよう準備は整っております」
「それならいい。ヴィトス殿にご迷惑をかけるわけにはいかないからね。事が起こったらできるかぎり速やかにここを出ようと思う」
マカーリオは淡々とそう言った。そしてまた半ば放心したように月を眺めている。レノスは部屋の隅に立ったまま主人の様子を気づかわしげに見守っていたが、とうとうたまりかねたような声を上げた。
「よろしいのですか?」
「よろしいとは、何が?」
レノスに問い返しながらマカーリオは整然と片付けられた室内を見渡した。彼の視線は画架上の絵にほんのわずかとどまったものの、再び空の月へと戻っていく。
「本当にあの絵を王女殿下のもとにお届けしてもよろしいのですか?」
「ああ、もうしばらくすれば絵の具も完全に乾くだろう。明日の朝一番に届けてきてくれ。後はあの方が良いようになさる」
「後悔、なさいませんか?」
「後悔は、するだろうね。でも慣れている、これまでにもいろいろあったから……」
(敬愛する父の力になれるならとラディの騎士になったことも、部下の命を救おうと敵中に切り込んでいったことも、パーティーでそれと知らずロアンの妻と踊り続けたことも、リアムの腹心の部下である青年貴族をチェスで負かしたことも)
際限のない愚痴は胸の内に押しとどめ、マカーリオは従者に静かに語りかけた。
「もう数か月早く国を出るべきだったな。そうすればお前も父親と対面することがかなっただろうに。冥界でイリーナに会ったらまた叱られそうだ」
マカーリオの養育係であるイリーナは、レノスの母方の祖母にあたる。もっともその事実をが彼女が明かしたのは死の直前であったが。
「家族の縁は薄いものととうに諦めております。それにイリーナ様はむしろほっとされているかもしれません。私の母の行状を完全に認めたわけではなかったでしょうから」
「他人よりも身内に、それ以上に自分に厳しい人だったからね」
「この国に参って父が母の話していた通りの人物であったと実感することができました。私にはそれで充分です」
「そうか」
アストラフトに残りたいのなら方策はあるとマカーリオは先だってレノスに告げていた。しかし忠実な従者はその申し出を固辞した。自分の運命はどこまでもマカーリオとともにあると。
「お前はもう自分の部屋に戻っていいよ。私ももうしばらくしたら休む」
柔らかな微笑みと穏やかな口調でマカーリオはそう言った。レノスは黙って一礼すると次の間へと下がっていった。
(王族の身分を捨て、別の大陸へか……なぜあんなことを言ってしまったのか)
寝室の窓から月は見えなかった。マカーリオはベッドの端に腰かけ、とりとめのない物思いにふけることを自身に許している。
(ラディ王家に対する忠誠心などとっくに失っていたと思っていたのに……)
騎士に叙勲され、王族として迎えられはしたものの、故国でのマカーリオの立場は日に日に微妙なものになっていた。ラディ国王である彼の父はマカーリオの存在が双子王子の融和のきっかけとなることを期待していたようだが、その期待は完全に裏切られる。マカーリオに対抗意識を燃やしたロアン派とリアム派の対立はますます激化し、長年の争いに呆れる中立派の一部からはマカーリオを擁立するため国法の改正を望む声すら上がり始めた。
(私が国を離れれば少しは沈静化するかと思ったが、まさか暗殺者を送り込んでくるとは)
マカーリオを殺害し、その罪を敵手に負わせることができれば一気に事は解決する。荒っぽくはあるが、有効な策ではあった。仲介者を慎重に選び、信頼のおける部下に事後処理を任せれば、勝者となった王子に塁が及ぶこともないであろう。
といって、ラディの王位継承問題を解消するためにマカーリオが命を捧げねばならぬ理由は一つもない。数え切れぬ人数の暗殺者を返り討ちにし、ようやくルシエンヌにたどりついた頃には望郷の念すら枯れ果てていた。自由貿易港として名をはせるルシエンヌは一方で治安維持には神経質なほどの熱心さで取り組んでいたから、昼日中に刺客に襲われたり、宿屋で寝首を掻かれたりする恐れはまずなかった。
(あの頃には安全な船を探して南方諸島にでも渡ってみるつもりだったが……)
ルシエンヌに着いてしばらくした頃、レノスの父親の死を知らせる手紙が届いた。あえてアストラフトを訪れる理由を失い、旅の計画を練り直していたところへアストラフト駐在大使からの手紙を携えたエラト王子がやって来たのだった。面識がある程度に過ぎない大使の言をうのみにしたわけではなかったが、少なくとも身の安全は保障されるであろうと踏んでマカーリオは迎えの船に乗り込んだ。
(船旅は予想外に楽しかったな)
空と海を眺め、時折たわいのない会話を交わすだけの日々はマカーリオにとって貴重なものだった。命を狙われるまでになったのはごく最近であったが、ここ数年間立ち居振る舞いに細心の注意を払い、会話の裏を読む生活が続いていたのだから。
縁談の成否については……マカーリオはほぼ間違いなく断られるものと決め込んでいた。アストラフトほどの大国がラディと縁続きになる必要性があろうとは思えない。仮に必要性があったとしても庶子を王女に婿入りさせるよりは、分家筋の女性をエラト王子なりに娶らせる方がよほど面倒が少ないはずだ。おそらく各国大使の申し出を受けるにあたってラディを優先せねばならぬ何らかの理由があったのだろうと。さすがにその時点ではより優先すべきがマカーリオ個人との関係であるとは思いも寄らなかった。
(所詮人ひとりが考え付くことなどたかが知れているということだ。あの方についても……)
『アストラフトのわがまま姫』の噂を初めて耳にした際に抱いた感想は気の毒にというものだった。十七歳の少女が結婚を嫌がったとして、それについて秘密裏に対処できないほどアストラフト王家は無力でも無能でもあるまい。娘に甘い父がわがままを許しているという体をとって、政治的な影響を最低限に抑えようとしているのだろうとマカーリオは考えていた。
ひどい思い違い、というよりも思い上がりだったとマカーリオは今では自分を恥じていた。あの十七歳の王女は自らの意思で悪評を引き受けていたのだ、おそらくは婚約者候補たちとその一族を守るために。彼女は出自のみならず資質においても女王の座にふさわしい人物にちがいない。
(つまるところ、私はあの方の隣に立つにふさわしい男ではなかった。それだけのことだ)
マカーリオは決して自身の才幹を過小評価しているわけではなかった。もしもアストラフト王家の望みが血筋さえ利用できればよいお飾りの婿であると感じたならば、王女ペリファニア・ミラに愛情を感じたとしても求婚するまでには至らなかっただろう。
だが彼女の兄たちは女王となった彼女を支えるだけの器量をもつ人物を望んでいるように思われた。マカーリオは彼らの期待に応えられる自信が少なからずあった。彼女の父は本来苛烈な人物ではあろうが、強大な権力をふるうにあたって粗暴なやり口を選んだことは治世において一度もなかったはずだ。であればマカーリオの存在を利用するにせよ、おそらくは外交的な駆け引きの材料にする程度にとどまるであろうと信じられた。
(あるいは私はあの方に知られたくはなかったのかもしれない。こうした打算的な考えのひとかけらさえも)
もはや彼にできるのは遠くから彼女の幸せを祈ることだけだった。マカーリオは立ち上がり、ベッドの上に置かれた寝間着を手に取る。そこへ遠慮がちなノックの音が響いた。マカーリオの返事とほぼ同時に扉が開き、レノスが部屋に入って来た。
「よかった。まだ起きていらっしゃったのですね」
レノスの声が心なしか弾んでいるように聞こえ、マカーリオは不審げに眉をひそめた。
「何かあったのか? まさかヴィトス殿に気取られたか? 昨日今日とできるかぎり普段と変わらぬよう過ごしていたつもりだったが……あるいはペトラ殿が?」
「どちらでもありません。とにかくお通ししてもよろしいですか。急ぎで大事なお話があるそうなので」
マカーリオが承諾の返事を口に出すか出さぬかのうちにレノスは玄関の方へと駆け戻っていく。手早く身だしなみを整えたマカーリオが居間へと入っていくとすでにそこには白い神官衣をまとった男性が立っていた。軽く会釈をしてみせたその人はアストラフトの第一王子フィロであった。




