わがまま王女はため息をつかない
王宮東館 王女の寝室
眠ったふりをしながら眠らずにいるというのは意外に難しいものだが、今夜のミラには容易だった。天蓋付きのベッドに横たわって耳を澄ませながら寝室付きの侍女たちが部屋を出ていくのをじっと待つ。
自分の考えすぎかもしれない、むしろそうであって欲しいと願いながらもミラはある気がかりを打ち消せずにいた。それはロジェンに発つ前の晩、斜め向かいに座る大使の会話が彼女の耳に紛れ込んできたことがきっかけだった。
「ほう、では老サイラスの遺言状は偽物だったということですか」
「そうではありませんよ。遺言状は確かに本物でした。しかし、より新しい日付のものがマレハ島の海神神殿に預けられていたのです」
「……にしても家族親戚の誰もその存在を知らないというのも妙な話だ」
「どうやら最後の航海の際に老サイラスは庶子の存在を知ったようですな。我が子と認めただけでなく、パニアに連れて戻るつもりだったらしい。帰りにまた立ち寄るという約束をしていたそうです。ところが、航海の途中で老サイラスの健康状態が急激に悪化してしまった」
「世界の半分を股にかけた伝説の男も寄る年波には勝てなかったと」
「一時はマレハ島の優秀な医師たちの治療のおかげもあって多少は持ち直したそうですが……どうにかしてパニアに戻りはしたものの老サイラスはほぼ寝たきりのまま、半月後には亡くなられた」
「後に続いたのはおきまりのお家騒動だ。老サイラスには息子がおらず、娘ばかりが三人。その婿というのがそろいもそろって悪い意味での凡人というのがまた……」
「莫大な財産なのだから、公平に三等分しても充分な額でしょうに。つまらぬ争いをしているから、横合いから出てきた隠し子なんぞに大部分を奪われることになる」
庶子、日付、相続争い……そうした言葉の欠片がミラの脳裏で踊り、昼間マカーリオとの会話の最中に感じた違和感をよみがえらせた。その違和感から芽生えた疑念はいくつかの傍証を養分として、今では無視することはできない大きさに枝葉を生い茂らせてしまっている。
「私の外見は髪や瞳の色も含めて母譲りだそうです。肖像画も残っていませんから人からの伝え聞きでしかありませんが」
いつも通りの微笑みは絶やさず、瞳にわずかの陰りを宿してマカーリオは言った。父似である自分の容姿についてミラが愚痴めいた呟きを漏らしてしまった時のことだ。
「それは残念だこと、きっと絶世の美女でいらしたでしょうに。シルビオ陛下がお手元にこっそりしまっていらっしゃったりはしないのかしら?」
「どうでしょう……父は、いえ国王陛下は私の母との関係はなるべく人目に立たぬようにと心掛けていましたから」
王妃陛下に配慮されたのでしょう、とまではマカーリオは口にしなかった。
ラディ王妃リディアの実家は近隣諸国とも縁戚関係をもつ名門である。傍流であるシルビオの父がラディ国王となった背景には、リディアがシルビオとの婚姻を望んだためであるという噂すらあった。
愛人を見て見ぬふりをするのと妾妃をしかるべく遇するのではどちらがより辛いだろうと、ミラは一瞬考え込みそうになり、慌ててその思いを追い払った。マカーリオの母よりも王妃リディアの方に心を寄せて考えてしまう自分のことをマカーリオはきっと快く思わないだろう。
ミラの思いを知ってか知らずか、マカーリオはしみじみとした口調で言い添えた。
「……母も同様の思いでいたようです。日陰の身であることを嘆くこともなく、死ぬ間際まで繰り返し『どうか兄弟仲良く』と言い続けていた」
「そうですの」
ミラの曖昧な相槌とともに会話の流れが澱んでしまった。マカーリオはとりなすように苦笑し、言葉を継いだ。
「というのも、乳母から聞かされたことにすぎませんが。私の生まれた時の苦労話を何かといえば口にしていたので、長年聞かされ続けた私もその場で見ていたかのような気になってしまった」
「どんなお話を?」
「……そうですね。難産だったことに始まって、産婆がなかなかやって来なかった、やっと来たと思えば昼日中だというのにあたりが真夜中のような暗闇につつまれ、産婆が何かの呪いだとおびえてしまったと」
「急に嵐でもやってきたのかしら?」
「日食だったそうです。乳母はどういうわけかそうした方面の知識を持ち合わせていたらしい。おびえる産婆を叱りつけて私をとりあげさせたのだとずいぶん手柄顔で語っていましたね。まあ、私が今あるのは彼女のおかげと言ってよいからいくら自慢されてもおとなしく聞いておくしかなかったのですよ」
「育ての母と呼ぶべき方ですものね。あら、でも」
乳母についてマカーリオは過去形で語っていることにミラは気づき、それとなく尋ねてみる。
「二年近く前になりますか……私が騎士に叙されて間もなく、ふとした病がもとでこの世を去りました」
悲哀をこらえる表情と口調がミラの胸に突き刺さった。が、マカーリオはすぐに平静を取り戻し「あなたの方はいかがでしたか?」と問いかけてきたのだった。
(こうして思い返してみても、どこがどうおかしいのかよくわからないけど……でも、何かが不自然だったのよ)
ミラはやや大げさに寝返りを打ち、不明瞭な寝言らしきものを呟いてみた。何の反応も返ってこない。そろそろ大丈夫かもしれないと静かに起き上がり、天蓋のすき間からあたりの様子をうかがう。
「王女殿下、準備が整いました」
音もなくベッドの傍に近づいてきたのは侍女のシュリナだった。囁く彼女の声は、当人が意識して作っているせいもあろうがミラによく似ている。布団をかぶって風邪気味だと言い張れば誤魔化せるかもしれない程度には。
「あなたには決して迷惑をかけない、つもり。もしも何か不測の事態が起こった時には、キリアにすべてを正直に打ち明けてちょうだい。彼女なら悪いようにはしないはずよ」
「ご心配なく、このお役目を引き受けるのは私にしかできないことですから。どうかお急ぎください。次の間でリルヤとクレーヴェルがお待ちしております」
時間を無駄にはできないのは確かだった。ミラは手早く着替えると次の間へ向かった。
「どこかおかしなところはない?」
待っていたリルヤとクレーヴェルに確認してもらう。侍女用のお仕着せは身に着けるのに難渋するような代物ではなかったが、飾り紐の結び方などの細かい点がわからず適当に誤魔化してしまっていた。
「よろしいかと存じます」
「この時間ですので、すれ違う者がいてもそこまで目は留めないでしょう」
リルヤはかなり緊張しているようだが、クレーヴェルは冷静を通り越して冷淡とすら言えそうな態度である。
クレーヴェルに先導され、リルヤに背後を守られながらミラは人気のない廊下を早足で進む。東館の隅に飾られた銅像の前にたどり着いたところで三人は足を止めた。ミラは銅像の後ろの壁にかかったタペストリーを持ち上げ、隠されていた扉を開けた。そのまま内部に入り込もうとして、カンテラを手にしたリルヤに制される。
「私が先に参って安全を確認いたします」
「クライブが一人で来たぐらいだから大丈夫だと思うけれど……十分に気を付けて」
カンテラの炎が離れていくのを見つめるミラにクレーヴェルが声を掛けた。
「ネリーが出口側でお待ちしております。それから従者のレノスにはしっかりと確かめておきました。殿下は今夜確実にご在宅だということです」
「ありがとう。あなたたちには本当に面倒なことばかりお願いしてしまっているわね」
マカーリオとちょっとした諍いをしてしまったから一刻も早く謝りたいという口実を彼女たちがどこまで信じているかは怪しかった。が、こうして全力で協力してくれている彼女たち四人にはいつか必ず報いようとミラは心に刻む。
「よろしゅうございます。王女殿下、どうぞおいでください」
戻ってきたリルヤの声を合図にミラは扉の内へと歩み入った。残されたクレーヴェルはタペストリーの歪みを直すと、持参した道具を広げて銅像磨きを開始した。




