王子二人は剣を交える
王都エレシス郊外 近衛騎士団の旧宿舎
「得意の武器はやはりレイピアか」
人気のない訓練場にペトラの声が響く。マカーリオは壁際にずらりと並べられた武器を注意深く眺め、「そうですね」と短く答えた。刺突を目的とする細身の剣を使った剣術は主にラディで発達したものである。
「決闘ではないからな、こちらから好きなのを選んでくれ」
ペトラが指し示した木箱には訓練用に刃を落としたレイピアが十本あまり収められている。どれも半球状の柄をもつ簡素なデザインであるが、長さと重さが少しずつ違っていた。
「これにしましょう」
何本か試した後でマカーリオはやや長めの一振りを選んだ。それを見てペトラも同様の剣を手にする。
二人は適度な間合いを取って向かい合い、互いの剣先を軽く触れ合わせた。
「先に言っておくが俺は手加減があまりうまくない。怪我をさせることがあっても恨むなよ」
「避けるのは得意ですから」
微笑とともにマカーリオはそう言うと、力みのない動作で一気に間合いを詰めた。その剣先を軽々と払いのけたペトラが鋭く突き返す。マカーリオは予測していたかのように素早く斜め後方へととびすさり、冷静な表情で剣を構えなおした。
「なかなかやるな」
ペトラは愉快そうに唸った。どうやらほぼ手加減なしで対することに決めたようだ。
勝負がつくまでにそれほどの時間はかからなかった。ペトラは折れた剣を呆然と見つめ、ややあってから無造作に投げ捨てた。基本的には優位に戦いを進めていたつもりではあったが、一瞬の隙を突かれてしまったのだ。マカーリオがどうやって体勢を立て直し自分の懐に飛び込んできたのか、ペトラは今でも正確に理解できてはいなかった。
「やはりレイピアではラディの人間にはかなわんな」
「試合だからできることです。実戦であんなことをやっていたら命がいくつあっても足りませんよ」
首筋に流れる汗を白布でぬぐいながらマカーリオは朗らかに言った。
「それはそうだ。が、いざという時のために覚えておいて損はないな。いずれ時間がある時に指南を願いたい」
ペトラは上半身裸になり脱いだ服でいいかげんに汗をぬぐった。部屋の隅から慌てて走って来た従者が清潔な白布と水筒を差し出す。ペトラは無頓着そうにそれらを受け取ると訓練場の隅に造られた観覧用の段に腰かけ、水筒の水を一気にあおった。
剣を元通りの場所にしまったマカーリオは作り付けの棚から自身の水筒を取り出し、ペトラの傍らへとやって来る。
「そういえば今日は伴の者を連れていないのだな」
「ペリファニア様のお呼びで王宮に参っております。私ではなく彼に御用の向きがおありのようで」
マカーリオはいつも通りの柔和な笑みを浮かべて言い、水筒の水を一口飲んだ。白布を広げて肩に羽織ったペトラは「そうか」と言っただけで黙り込んでいる。
沈黙の時があまりに長く続いたためであろうか、マカーリオはあたりを見回し穏やかな口調でペトラに話しかけた。
「こちらは今は使われていないのですね」
「広くて新しい宿舎が南の郊外にできたからな。半月ばかり前までは移転準備のために残っていた者もいたはずだが、さすがにもう誰もおらんだろう。残った荷物を運び出したら後は壊すだけだ」
「取り壊してしまわれるのですか」
「なにしろ健国王時代の建物だ、補修を重ねるにも限界がある。俺としては馴染みの場所の一つがなくなるのは寂しいが、廃墟となるまま放置しておくわけにもいくまい」
ペトラは水筒に残っていた水を飲み干し、汗にまみれた髪の毛をぐしゃぐしゃとかき回した。くすんだ銅色の髪が一筋額にかかる。
「悪かったな。話があると俺の方から呼び出しておいて……」
「いえ、久しぶりの遠駆けを楽しむことができましたから」
マカーリオがそう言った後、二人の間にはまたしばらくの沈黙が訪れた。しかしやがて意を決したようにペトラが口を開く。
「ファビオとの決闘話は聞いているな」
「あくまでも噂程度です。しかもかなり尾ひれがついているようで……どこまで信じてよいものか」
「マカーリオ殿が耳にした話とはどのようなものだ?」
「……そうですね。詩作の会で自作の詩をけなされたファビオ殿が名誉挽回のために剣術試合を提案したもののペリファニア様の賛成が得られず、それならばとペトラ殿に腕試しを申し込まれ……ああ確かその試合が行われたのもこの場所であったそうですね。とにかく結局のところペトラ殿にはまるで歯が立たず、ファビオ殿は修業のためと称して逃げるように東方辺境に旅立たれた……という感じでしょうか」
「そうか、大筋は合っている」
「ただ、それにしても妙です」
マカーリオは水筒の水をまた一口飲み、癖のない銀髪をかき上げた。汗もすでに引いているようで、髪型の乱れはほとんどない。
「妙、か」
「ええ、ペトラ殿は当然手加減なさったのでしょう? ファビオ殿も腕試しの試合を申し込まれるぐらいですから剣術にはそれなりに自信があったはずです。面目を失うほどの酷い結果になるというのがどうにも考えにくい」
「剣で戦ったのではないからな」
「では槍ですか? そうだとしても……」
同じことでしょう、と言いかけたマカーリオをペトラの声が鋭く遮った。
「武器は使わなかった。素手で戦った」
「まさか」
「ミラが……万が一にも血を見るのは嫌だと言ったのだ」
いくらなんでも体格が違いすぎる、とペトラはさすがにミラを説得しようとした。しかしミラは聞き入れず、何よりファビオが積極的に賛意を示したためにペトラとしてはその条件を呑むしかなかった。
そもそもがファビオに同情したこともあって引き受けた腕試しである。相手に花を持たせるとまではいかなくとも、それなりによい勝負になるよう加減はするつもりでいた。ところがそんなペトラの思いに反してファビオは試合が始まるや逃げ腰になり、組み合うどころか目線すら合わせようとしなかった。
「……実際の戦であれば、逃げるのが作戦のうちということもあろう。が、試合や決闘でそんな真似をするのに何の意味がある?」
「そうですね、せいぜいが相手の油断を誘うためとしか……あるいは本当にペトラ殿の気迫に圧倒されてしまったのでしょうか?」
「仮にそうだとしてもあいつの態度は見苦しすぎた。俺も少々苛立ってな、ともかくも強引に捕まえて抑え込んだ」
そしてペトラが「一体どういうつもりだ」と耳元ですごんだ、まさにその直後ファビオは情けない悲鳴を上げてあっさりと負けを認めてしまったのだった。床にへたり込みながら「参りました、降参いたします。どうかご容赦を」とうつろな表情で呟いているファビオに向かって、観覧席のミラが追い打ちをかけた。
「なんということ! 私が伴侶たるべき方に最も望むのは誠実さです。たとえ伝説の詩人のごとき才能のきらめきや神業としか思えぬような剣術の腕前の持ち主であろうとも、人柄の不実さがともなえば何の価値もありません。だってそうではありませんか、一生を添い遂げるというのは華麗な催事をこなすことではなく、ささやかな日常を積み重ねていくということなのですもの。それなのにファビオ様はご自分の評判ばかりを気に掛け、あげくにこの体たらく……誠実さなど一体どこにどうやって見つければよいのですか」
言いたいだけ言ったミラは引き止める周囲の者たちを振り払うようにして馬車に戻ってしまった。後に残った侍女頭のキリアとペトラが話し合った末、試合に敗れたファビオは自分の未熟さを痛感し、実戦に身を置いて剣の腕を磨くため東方辺境に赴任することを希望した、という風に事の次第をまとめたあげた。幸い試合を観ていたのはミラとペトラ、キリアをはじめとする侍女たちとペトラ、ファビオそれぞれの従者、数名の立会人のみであったので口裏を合わせるのは困難というほどではなかった。
「それでも、やはり心配だったのだ。ミラの評判がまた悪くなるのではないかと……」
一通りの経緯を話し終えてから、ペトラは低い声で呟いた。
「ペトラ殿があえて行き過ぎた妹思いを表立てられるようになったのはそれゆえですか?」
「さすが、ラディの人間は勘がいい」
ペトラは彼には珍しい自嘲気味の笑い声を上げた。
アルダート公爵家のクライブとの縁談を外見を理由に拒絶したために宮廷人たちの間でのミラの評価は微妙なものになっていた。そこへさらにファビオとも事実上破談になったとなれば、好き勝手な噂が広まるであろうことは想像に難くなかった。それならばいっそ自分が矢面に立ってやろうと、ペトラは何かにつけ「あいつは妹の相手としてはふさわしくなかった。将来の王配ともなればしかるべき人物でなければな」などと口にするようになったのだった。
「もっとも、今となっては全てが無駄だったような気がしているが」
クライブ、ファビオに続いてジェレミア、セルジュ、エルナンと五人の婚約者候補を退けて、ミラには冗談交じりとはいえ『アストラフト王国のわがまま姫』の呼称が定着してしまっていた。
「あれにとっては余計なお世話とでもいったところだったのだろう。むしろ、かえって反発させてしまうことになったかもしれない」
「いえ、ペトラ殿のお優しさは十分ペリファニア様に伝わっていると思います。あの方もまた心優しい方ですから」
生真面目なマカーリオの口調にペトラは軽い驚きの表情を見せた。それから合点がいったように深く頷き、おおらかな笑い声を上げた。
「なるほど、マカーリオ殿はあらゆる意味でミラにふさわしい人物のようだ」
「ペトラ殿のおめがねにかない、光栄至極に存じます」
立ち上がって優雅に一礼し、マカーリオは言った。やや古めかしいその言い回しは彼の端整な顔立ちといかにもラディ人らしい洗練された挙措動作によく似合っていた。
「古いほうの宿舎に行っていたんですってね」
ペトラの屋敷の居間では母タニアがくつろいでいた。同居をしているわけではないのだが、この屋敷はもともとタニアの実家である。息子の様子を見るために三日にあげず訪れる彼女を使用人たちも当然のように受け入れていた。
「まもなく取り壊されるというので名残を惜しんできたのです」
「そう、気持ちはわかるけれどほどほどにね。古い建物というのは何が起こるかわからないから」
「わかってますよ」
気のない答えを返しながらペトラの脳裏には崩れ落ちた煉瓦塀が浮かんでいた。が、それを母親に話すような無謀な挑戦をするわけもない。彼はむっつりと黙り込んで、母方の祖父の持ち物であった頑丈なつくりの肘掛け椅子に体をおさめた。ほどなくして朝食をのせた盆を運んできた老執事がシルベスタ侯爵家令嬢セリナの訪れを告げた。
「おはようございます。タニア様、ペトラ様。私あのお芋を使ってまた新しいお菓子を考えてきましたの、ぜひお二人に味見していただきたくて」
意気揚々と居間に乗り込んできたセリナは快活さを全身にみなぎらせ、挨拶もそこそこに連れてきた侍女二人に持たせていた荷物をテーブルの上に広げにかかった。タニアは礼儀にやかましい方ではあるのだが、息子の婚約者の天真爛漫さを好ましく思わずにはいられないのか取りたてて咎めるような態度はとらず、差し出されるままに様々な種類の甘い菓子を口に運んでいく。
「あなたは本当にお料理が上手だこと。それにこれだけの量を作るのはさぞ大変でしょうに」
「もちろん下ごしらえは料理人や侍女たちに手伝ってもらっていますわ。でも、わたくしはレース編みだとか刺繍だとか、ああいった細かな手仕事がまるで苦手で……お菓子作りぐらいは人並み以上にできなければ女性として恥ずかしい気がいたしますの」
「レース編みも刺繍もちょっとしたコツさえつかめば、他に必要なのは根気だけでしょうに」
「そのちょっとしたコツをつかむのが実はとても難しいのですわ。根気だけなら人の三倍ぐらいあるつもりなのですけれど」
「それなら私のところに習いにいらっしゃいな。きっとあなたならすぐに上達するはずよ」
タニアはそう言いながら膝の上に置いたスカーフの刺繍を慈しむように撫でた。南洋諸島に生息する鳥を図案化したそれは極彩色の羽を誇らしげにはばたかせている。
ペトラは母と婚約者が楽しげに互いの予定を確認するのを横あいで聞きながら盆の上の朝食を片付け、それから立ち上がってテーブルの上の焼き菓子を一つつまんだ。
「これは悪くないな。しっかりと水分も抜けているようだし、もう少し甘みを抑えれば携行用の糧食として使えそうだ」
甘さも色気もまったく感じられないペトラの口ぶりではあったが、それを聞いてセリナは勢い込んだ。
「それならまずはファビオ様に連絡して、このお芋がどの時期にどのぐらいの量手に入るものかおうかがいしないと。量産するには材料の確保が大事ですもの」
「他のところのものでは駄目なの?」
「加工しても独特の風味が損なわれないことが他にないこのお芋のよいところですから。もちろん、他の材料の配合をしっかり考えなければなりませんけれど……」
「そんなものなのねえ、それならあちらとの連絡は私が引き受けるわ。あなたはしばらく狩猟パーティーの準備で忙しいのでしょう?」
「ああ忘れていましたわ。ではお義母様、お願いできます? 私がいたらないせいでご迷惑をおかけしてしまいますけれど」
「いいのよ、あの辺りでちゃんとした作物が取れるようになれば土地を捨てて逃げ出すような者もいなくなるでしょうし。以前は麻だの芥子だのを育ててみたらしいけれど……新しい織物でもつくるつもりだったのかしら? 熟練の職人の当てもなしではそう簡単にいくわけもないのにねえ……結局失敗してしまったらしいわ。とにかく土地が荒れ果てるままにしておくのは良くないのよ、知らないうちに盗賊団などが根拠地にするようなこともあり得ますからね。まあ、私に任せておきなさいな」
タニアは自信たっぷりに請けあい、セリナは「よろしくお願いします」と頭を下げた。二人の様子を眺めながらペトラは再び肘掛け椅子へと戻り、自身の半分の年齢でしかない婚約者がなぜこんなにも尽くしてくれるのだろうかと自問した。これまで何十回となく試した問いであり、今回も答えなど出ないことはわかりきっていたのだが。




