侯爵子息は土下座する
ミデン大陸西方、アストラフト王国
夏の暑さが本格的になり始めたある日の朝、王宮の一角にひそやかな訪問者があった。
周囲を気にしつつ馬車から降りた男性は万事心得た様子の侍女の案内によって人気のない廊下を進み、東館の一室へと入って行った。
「エルナン様、そのような真似はおやめくださいな」
東館の主、王女ペリファニア・ミラはゆるやかに扇を使いながらおっとりと言った。しかし、目の前の床に平伏する侯爵子息の耳に彼女の言葉は届いていないようだ。
やむをえない、とでも言いたげに扇を閉じた王女は声にわずかな厳しさを滲ませる。
「今回のお話はなかったことにしたい、そうおっしゃるのですね」
「はっ、まことに申し訳もなく……すべて私の不徳のいたすところで……」
エルナンの額に汗の粒が浮かんでいるのは暑さのせいではあるまい。アストラフト王国王女の婚約者候補にまで選ばれておきながら自身の不祥事で破談にするのは、スアレス侯爵家の行く末をもあやうくしかねない大事である。
「……しいこと……」
しばしの沈黙の後、王女は囁き声で何事かを呟いた。当然ながらエルナンには聞き取れず、うっかり不審の表情で顔を上げてしまった。
「今、何と?」
「相思相愛でうらやましいな、と思いましたの。あなたとサンス男爵家のカリーナ様が」
ミラ王女は柔らかく微笑んで見せる。が、余裕のない者の眼にはそれがかえって恐ろしく映るのだろう、エルナンは声を震わせた。
「彼女は自分から身を引くと言ったのです。そして、わたしも一旦はそれを受け入れました。しかし……」
「お子様のことはご存じなかった、と」
十七歳とは思えぬ落ち着きを見せて王女は言い、二十三歳の侯爵子息は気圧されながらもどうにか言葉を絞り出す。
「カリーナは、ただしばらく王都を離れていたいと……私とあなた様の姿を見ているのはやはり辛いからと」
「カリーナ様が海辺の別荘に向かわれたのは一年半ほど前、でしたかしら? その当時の私はお二人が親しい間柄だとは知らず……病気療養のためとばかり思っておりました」
「彼女と私との関係を知る者はごくわずかです。なにしろ、我が家とサンス男爵家には長年の確執がありましたから」
二人の関係を互いの家族に打ち明ける機会をつかめずにいるうちに、エルナンがペリファニア・ミラ王女の婚約者候補に選ばれたという話が侯爵家に持ち込まれた。古い家柄を誇りつつも現在のアストラフト王国においてはさしたる勢力を持たぬ侯爵家にとっては思いもかけぬ光栄とスアレス侯爵夫妻は手放しで喜び、それを見て思い悩むエルナンに対してカリーナは『私はあなたの重荷にはなりたくない』ときっぱりと言い切ったのだという。
「あの時点で彼女は優柔不断な私に愛想をつかしたのだろうと、身を引くと言いながら、結局のところ私を見限ったのだと、そう思い込んでいました」
「見限った方の子どもを産んで育てようとはしませんわ、少なくとも私なら」
子を流すために薬や怪しげな医師に頼る女性は少なからずいる。また、そこまで危険な手段をとらずとも、極秘で出産を終え、そのまま養子に出すということはしばしば行われていた。
しかし、カリーナ嬢は自身の手元で我が子を育てている。小さな海辺の別荘で、乳母とわずかな使用人だけを頼りとしながら。
「半ば偶然のような形で私、そのことを知ってしまって、お二人の仲のことも……まずはエルナン様とご相談せねばならないと思いましたの」
「お心遣い、深く感謝申し上げます」
「もうお二人とはお会いになりまして?」
すすめられた椅子にようやく腰をおろしたエルナンにミラは穏やかに話しかけた。
「あなたからお手紙をいただいてすぐ、馬を飛ばして行ってまいりました。会ってくれないのではないかと不安だったのですが、そのようなこともなく。彼女も……息子も健やかに過ごしておりました」
必死で抑制しているのだろうが、エルナンの言葉の端々には喜びが滲んでいた。
「これから、どうなさるおつもり?」
「まず侯爵家の後継ぎの座を弟に譲ります。しばらく謹慎した後、私は辺境の山荘にでも居を移そうかと」
「あの方とご一緒に?」
「いえ、それはかなわぬことでしょう。互いの実家に迷惑をかけることになります。いずれ時がたてばあるいは、とは思っておりますが」
それまでは密かな手紙のやり取りと、せいぜい年に数回の訪問が許されるぐらいだろうか。人の噂になるのを避けるには何事においても慎重さが求められる。
「考えてはみましたの。カリーナ様を妾妃としてお迎えすれば、すべて丸くおさまるのではないかと……でも、私、どうしてもそれが受け入れられそうになくて」
しばしの沈黙の後、拗ねたような、困ったような表情でミラは言った。エルナンは自分が年長者であることを思い出したのか、優し気な声音でなだめにかかる。
「ペリファニア様が王家の女性として模範であろうとするお気持ちはとても尊いものです。しかし、自身の潔癖さを器量の小ささなどと思い込まれませんよう、あなたもまた一人の若い女性であられるのですから」
「アストラフトのわがまま姫などと、人は申しますわ」
「悪意のない冗談にすぎませんよ。私にはそれが何の根拠もないただの噂であるとわかっております。それに、若く美しい女性には多少のわがままが許されるものではありませんか?」
先刻までの切羽詰まった態度はどこへ去って行ったものか、エルナンの口ぶりは軽薄ですらある。普段のミラであれば扇の陰で眉をひそめそうなところであるが、今は嬉しそうに微笑んだ。
「エルナン様にそう言っていただけるのなら……実は、ちょっと思いついたことがありますの。ご迷惑をかける、いえ、恥をかいていただくことにはなりますけれど、廃嫡となるよりはましでしょうし。私からの最後のわがままと思って聞き入れていただければ……」
こちらへと扇で招かれ、エルナンは遠慮がちに王女の隣、ソファの空いた部分へと移動した。
「本当に、それでよろしいのですか?」
「ええ。後は誰かに何か聞かれても、私のたくらみだとは決しておっしゃらないで」
「もちろん申しませんが、その、ペリファニア様の評判が……」
「アストラフトのわがまま姫と言われるのにも、いい加減に慣れなければなりませんもの。先程は慰めていただきましたけれど、私がそう呼ばれるのは根も葉もあることですから……エルナン様もよくご存じのとおり」
「……いや、それは、しかし……」
とっさに上手い返事が見つからなかったのだろう、エルナンは口ごもる。彼の狼狽ぶりを横目に見ながらミラは扇の陰で一瞬だけ顔をしかめたものの、口調は平静なままで話を続けた。
「もっと良いやり方があるのかもしれませんけれど、私には思いつきませんでしたし、何より時間がありません。今夜のパーティーがおそらく最後の機会ですわ」
今夜王宮で開かれるパーティーは決して大規模なものではなかったが、招待客の顔ぶれからして内輪での婚約発表の場となる可能性が高いだろう。
「……そうですね、婚約が正式に成ってからでは遅い」
エルナンも同じ考えにたどり着いたらしい、覚悟を決めた表情で頷いている。
そして小一時間後、いかにも貴族らしい優雅な一礼を残して、エルナンは王女の部屋を辞したのだった。