王子二人はカジノに行く
第三王子オクセインの屋敷、マリサのアトリエ
「お疲れのようですね」
扉を開けて入ってくるなり部屋の隅の長椅子に直行した夫に向かってマリサは声をかけた。オクセインはほとんど寝そべるような姿勢のまま、あくび交じりに返事をする。
「ああ、ものすごく疲れてる。それに何だかわからないがイライラ、いや、モヤモヤ、かな、とにかく気分がすっきりしない」
「……メイドに何か軽い朝食を持ってこさせましょう。それを召し上がったら、少しお休みになるとよろしいわ」
右手は作業中の細工物に置いたまま、マリサは左手を呼び鈴へと伸ばした。が、あと少しの距離が届かない。やむをえず立ち上がろうとした彼女を夫の声が引き止めた。
「いいよ、特に腹は減ってない」
「そうですか、ではお好きになさって。寝室の方がゆっくりお休みになれるとは思いますけれど、その長椅子でもよろしいのでしたら……」
言い終える前にすでにマリサの注意は手元に戻っている。オクセインはむくりと起き上がって、いかにも不満げなうめき声を出した。
「そうじゃなくってさあ」
「はい?」
マリサの視線がしっかりと自分の方に向いたことを確認してオクセインは頬を緩ませ、それから再び渋面らしきものを作った。
「だからね。愛する夫が疲れて帰ってきて、しかも何か心にわだかまりを抱えている様子をしているんだからさ、妻というものは隣にきて慰めながらゆっくり話を聞いてほしいなあと、僕はそう思っているわけなんだ」
「まあ、それならそうとおっしゃってくださればよろしいのに。すぐに伺いますわ、この留め金の部分を済ませてしまいましたら」
それはすぐにとは言わないんだよと喉の奥でオクセインは呟いたものの、マリサの作業がひと段落するのをおとなしく待った。
「ええと、昨夜はあのラピスラズリ色の瞳をした……そうそう、マカーリオ殿下と一緒にお出かけだったのでしたわよね」
「うん、母さんの家で開かれたパーティーに連れて行った。まあ、そっちは適当に切り上げたんだが、その後がね……」
隣に座ったマリサの肩に自身の体の重みを預けるようにしながら、オクセインは昨夜の出来事を話し始めた。
妾妃レオノラの屋敷を出た馬車は王都エレシスの歓楽街へと向かっている。
「今夜は僕の親孝行に付き合わせてしまいましたから、お詫びに良いところへお連れしましょう。ご安心ください、女性が相手を務めるような店ではありませんよ。正直、僕自身も香水と化粧の匂いにはうんざりというところなんでね」
陽気に話しかけるオクセインに対してマカーリオは「お任せします」と笑顔で応じていた。いつも通りの感じの良い微笑ではあるが、どこか疲労の色も見えるようだ。レオノラとその友人たちに囲まれ続けたのは小一時間程度とはいえ、なかなかの苦行だったのだろう。並び立つマカーリオとオクセインを『まるで太陽と月を同時に見るような』と誉めそやす若い令嬢たちには、悪意の欠片もなかったとはいえ一挙手一投足を監視されているようなものであったし、レオノラを筆頭とする年配の既婚夫人たちからは遠慮のない質問を次々に浴びせかけられていたのだから。
「常日頃はすっかり無沙汰をしていますのでね。たまには母のわがままをかなえてやってもよいかと……これで友人に対する自慢の種もできたし、しばらくは僕にもうるさいことを言ってこないでしょう」
独り言めいたオクセインの呟きはマカーリオの耳に届かなかったものか、彼は何も言葉を返さず、やや放心の風情で窓の外を眺めていた。夜の街に灯る様々な色合いの明かりが馬車の外を通り過ぎてゆく。
そういえばこの人の母君は出産後すぐに亡くなったのだったなと思い出し、オクセインは自分のうかつさを呪った。妹のミラであれば不快さを露わにして「いいじゃないの、わがままでもなんでもご健在でいらっしゃるんだから」と言ってのけ、「ついでに可愛い妹のわがままも聞いてくださらない?」とごく当然のように前から欲しかった何かをねだってくるだろう。決して高価すぎない、ほどよい値段の品を。
「オクセイン殿、ぶしつけかもしれませんが一つお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
沈黙の時がしばらく続いた後、マカーリオが口を開いた。オクセインは軽く手を振りどうぞと促す。
「オクセイン殿は何の公職にもついておられないとうかがいました。無論、生計を立てるために働かねばならないお立場ではないことは承知しておりますが、あなたご自身が望まれなかったのには何かわけがあるのでしょうか?」
マカーリオはいつになく真剣な表情である。オクセインは小さなため息とともに言葉を吐き出した。
「僕が怠け者だから、ということで済ませたいところですが」
「それで納得せよということでしたら……」
「いや、お話ししますよ。別に国家機密でもなんでもない。ただただ僕の考えが浅かったというだけです」
オクセインの母レオノラの実家はアストラフトのみならず周辺諸国にまで名の知れた商家である。その縁で各国の商人と知り合いになったオクセインはごく若い頃から独自の商売を始めていた。祖父譲りの商才に恵まれたのか取引の規模は大陸中へと拡大していったのだが、そこで問題が起きた。
「仮想敵国、とまではいきませんが、我が国と不仲な国というのはそれなりにありますからね」
「なるほど、あなたが公職についてしまったら、それらの国との関係は単なる商売上の取引では済まされない」
「まあ、そういうことです。といって、僕の仕事をそっくり引き受けてくれるような人材もそうそう見つからない、各地に置いた代理人やその家族に対する責任もある。王子の道楽という建前が通る程度の規模で続けていく方がよいのだろうと、そんな感じですかね。道楽というには何かと些末な仕事が多いし、商館でのトラブルが立て続いたりした時などには、弟のエラトのように適当な肩書だけもらって自由気儘にすごしていればよかったなんて思いはしますが、後の祭りです」
オクセインが話したことは嘘ではなかったが、彼はすべてを包み隠さず話したわけでもなかった。マカーリオの表情に疑念らしきものは浮かんでいなかったが、なにやら考え込む様子ではある。
「オクセイン殿の働きもまた、アストラフト王国繁栄の一端を担っておられる……」
「ははっ、そんな大げさなものではありませんよ、僕が本気で辞めたいと思えばいつでも辞められます。結局のところ僕が面倒な仕事を続けている理由として最大のものは、無職で遊び歩いているだけの夫では妻に対して恰好がつかないということですからね」
太陽神の化身とも称される美貌の青年は人の悪そうな笑みを浮かべ、大げさに肩をすくめた。それに対してマカーリオは何か返そうとしたらしい。しかし、彼が口を開くより先にオクセインが窓の外を見て「間もなく到着しますよ」と告げたため、会話はそこで打ち切られることとなった。
馬車が止まったのははごく平凡な一軒家の前であった。目立たぬ位置に掲げられた小さな看板にサイコロとカードの絵が描かれている。
「こちらもあなたのご商売の一部ですか?」
「僕はあくまで客の一人ですよ。常連客というほどでもないが、付き合いで時々訪れます。節度を守ってさえいれば良い雰囲気で楽しく遊ばせてくれますよ」
「そうですか、ではこれも経験のうちと思い楽しませていただきましょう」
「幸運を」
そこまで話したところで、オクセインは大きくため息をついた。マリサは無表情に「マカーリオ様を試そうとなさいましたの?」と尋ねる。
「うーん、まあね、ほら前回のことがあるからさ」
「セルジュ様の件ですか……」
マリサはわずかに眉をひそめた。賭博癖が原因で破談となった王女ミラの元婚約者候補だが、オクセインはセルジュがカジノ通いをしていたことを以前からよく知っていたのだった。
とはいうものの、セルジュは勝っても負けてもあっさりしたもので、賭博場の猥雑な空気に身を置くことそのものを楽しんでいるようだというのが大方の意見だった。その程度ならばまるっきりの世間知らずよりもむしろ良いだろうとオクセインは妹の耳には入れなかったわけなのだが。
「高位貴族の子弟と知ればあやしげな儲け話を持ち掛けてくるやつもいるからなあ……まさかそんなのに引っかかるほど馬鹿じゃないだろうと思っていたんだが、僕の見込み違いだった」
「だからといって、今度はご自分がマカーリオ様を嵌めようとなさらなくても……結局失敗されたようですけれど」
正解を言い当てられて、オクセインはあからさまに不服そうな顔をした。マリサは慌てた様子で「実際のところ、何がございましたのでしょう?」と取り繕う。
「彼以上に大ツキしていた客がいたんで乗っかって全賭けしたそうだ。で、共倒れ」
「まあ」
「『どうやら幸運の女神に見放されてしまったようです』と爽やかに言われたからなあ、こっちとしても『そんな日もありますよ』と答えるしかなかった。……それにしても例のあの客が来てるんならオーナーも僕に一言くれればいいものを……」
不明瞭な呟きを発しながらオクセインは自分の頭をマリサの膝の上に移動させた。
「いったんは勝ち逃げさせてその後の行動を観察するつもりだったのになあ、仕方がない……次の手を考えるか」
「もう、およしになっては? 十分に信頼に値する方々だと思われますもの、あなたが試したりなさらずとも」
「方々? マカーリオ殿と……ああ、ミラか。確かにあいつは人を見る目がないわけじゃあないが、まだ子どもだよ。それにああ見えてかなり繊細だ、ことに人間関係に対してはね」
言いながらオクセインは軽く目を閉じた。その点に関して僕たちはとても似ていると思いながら。
「それはよくよく存じ上げておりますけれど、ペリファニア様はそれ以上にお強い方ですわ。そして、真実を見抜く目もお持ちだと拝察いたします」
「ずいぶんと……なぜそんな風に思う?」
「例の、テオフィルナ王女の首飾りの件で少々……、先日お願いしたルビーの裸石のおかげで確証も得られたような気がしておりますし」
「ルングーザの宝石市で購入したあれかい? 君の言う通り僕は何も口出しせず、セルジュ自身に選ばせたが……ということは、つまり……あいつは宝石を売ろうとしたんじゃなくて、むしろ…………」
オクセインの沈黙が寝息へと変わったのを確認し、マリサはゆっくりと腰を浮かせた。その動きにつられるかのように夫は寝返りを打ち、彼女の膝は重みから解放される。
夫の頭の下にクッションをあてがい、その芸術作品めいた寝顔にしばし目を留めた後で、マリサはメイドを呼ぶために部屋を出て行った。




